第2話 悪魔アパスは飢えている➁
夜になった。
暮色は闇に染まり、街灯が道を照らす。
光寛は仕事を終え、定時に退社した。しかし残業となる本命の仕事がここから始まる。
地方都市に存在する古びた公園。周囲に誰もいないことを確認して、光寛は鼻を利かせた。契約によってアパスの血を宿している彼は、強力な飢えによって、常人にはない嗅覚を発揮する。
湿った匂い、ガソリンの匂い、退勤に紛れた汗の匂い、そして――
「いた。悪魔の匂い」
悪魔と契約している人間、〝使徒〟の存在を確かめるべく、匂いを頼りに疾走した。
人が悪魔と契約するうえで重要なのは、悪魔は契約した使徒に憑りつくということだ。悪魔が求める悪魔の血は、人間界では彼らの使徒からしか得られない。
すなわち、悪魔の腹を満たすことの意味は、使徒同士の殺し合いに勝つことである。
光寛は人通りの少ないトンネルで足を止めた。電灯が不気味に点滅しており、張り紙はかびて崩れている。
使徒の匂いはトンネルの先に行くほど強くなっている。光寛は確信をもった足取りで慎重に暗がりの空間に入っていく。
革靴の音が響く。カツコツと鳴るほかに、先日の雨で滴る音が耳をつつく。
幽暗に紛れていた影も少しずつ目に映るようになった。光寛は歩を緩めることなく平然と影に近づく。
十メートルほどまで近づくと、男はこちらの気配にようやく気が付いた。蹲る人影は光寛の方へ振り向く。フードをした全身黒づくめの男。パサついた金髪、薄い唇には小さなピアスが付いており、二十代前後の若者に見える。そして極めつけは血の色に充血した眼。
男は静謐を保った声で問う。
「……誰だ」
目の前にいるスーツ姿の光寛が使徒であることを確認する。
「お前と同じだ」
答えると同時に光寛は悪魔の気を放つ。
途端、男は立ち上がって光寛に対して好戦的な構えを見せた。彼の手に人とは思えない色の血管が浮き出ている。紋章のように血管が紫に発光し、彼の右手に光が凝縮する。やがてそれは拳銃の形へと形成され、実態と化す。
「う、動くな! それ以上近づいてみろ……う、撃つぞ」
男は怒気を放つ姿勢を見せながらも、声は怯懦に震えている。
光寛は男の言動を気に回すことなく近づく。
「飢えてないのか? それとも契約したての新人か?」
一向に止まる気配のない光寛に臆するように、沈黙の十メートルを保って後退する。こちらに向けている標準は一向に定まらない。
「う、うるせえ‼」
「……そうか。《物欲》を満たしていたのか」
男の足元に置かれてある袋から、札束がいくつも溢れている。
憑りついた悪魔の欲望は人間の行動に強く反映される。同胞の血で腹を満たす以外にも、自らの欲望で飢えを凌ぐこともできる。男は使徒(ひと)を殺すことを躊躇い、強盗で集めた金で欲を満たしていたのだろう。
光寛は一通りの推測を終え、自分の身体に通う悪魔の血を集中させる。目が充血し、視界が真っ赤に染まる。同時に夜陰に紛れていた男の全身が鮮明に映る。
「悪いが俺は飢えている。お前にはその糧になってもらう」
「じょ、上等だ‼ 殺ってやる‼」
光寛は右手に神経を集中させる。紫の発光が伴い、約三十センチの刃渡りのダガーが実体化した。
その隙に男はすかさず発砲する。放たれた光体の銃弾は暗紫色の軌跡を残しただけで、光寛には届かなかった。
一瞬の出来事に、男は何が起きたか判然としない顔をするが、すかさず二発三発と打つ。今度は直線軌道に不規則性を加え、紫電を迸らせている。
しかしそれもまた、金属音とともに刹那にかき消されてしまう。
「ど、どうしてだよっ……」
「なんだ。お前は自分の弾が見えてないのか」
光寛は手に持っていたダガーで弾丸を弾き、同時に弾丸を吸収していたのだ。その動体視力と弾丸の速さに間に合う筋力は、悪魔の血による恩恵である。
「悪魔の強さは俺たち使徒の力に反映されるみたいだ。まさか《物欲》はその程度の悪魔なのか?」
光寛は男に向かって軽い挑発を仕掛ける。すると男は突然頭を抱えて苦しみだす。
嗚咽を漏らし、目の充血が黒くなっていく。
「ワタシを、怒らせるなっ……‼」
男の口からでた声は青年のものではなく、歪みのある悪魔のものだった。男に憑りついていた悪魔が内側から表面に出てきたのだ。
「貴様……一体どこの悪魔だ? ワタシの攻撃を消す悪魔など聞いたことがない」
「俺の悪魔様は特殊でな。代わりに伝言を預かっている」
光寛は胸ポケットから紙切れを取り出し、その文面を抑揚なしに読み上げる。
「『わーっははは。ワタシは三大欲求の一角を担う《食欲》のアパスである。世の悪魔すべてを喰らい、いずれ魔界の頂点に立つ! これを聞いている貴様にはその糧となり――』面倒くさいな。察しろ」
文面を途中で切り上げてポケットにしまう一方、男はアパスの名を耳にして狼狽えている。
「《食欲》だと⁉ ただの人間が三大欲求に耐えられるわけがない!」
「俺、ただの人間だけど」
「まさか冠位の悪魔だったとは……ならばワタシは全霊で貴様を荼毘に付す!」
男改め、《物欲》の悪魔は手にしていた銃を飲み込み、体を異形へと変化させる。筋肉が膨張して服が破れ、血管の浮き出た暗赤色の肌が露わになる。全長三メートルほどに達すると、今度は背中と腕、胸に砲口のような突起物が出現する。
もはやその姿は人ではない。その名の通り、悪魔だ。
「後悔するなよ《食欲》の使徒。《物欲》グリーディアの糧となれ‼」
グリーディアは体に生やしたいくつもの砲口を光寛に向け、魔力を集中させる。砲口から紫紺の光が生み出され、砲身に飽和すると同時に放たれた。
咆哮と共に放たれたエネルギー弾は、トンネルの表面を灰に焦がし、その勢いのまま光寛を飲み込もうとする。
光寛はダガーを持った右手を下げ、左手を前に突き出す。エネルギー弾に触れると同時に、左手と拮抗するように止まった。
その現象に思わずグリーディアは火力をさらに上げる。紫の表皮が崩れ始めるも、此処を先途と最大火力を注ぐ。自らの反動で地盤に無数の亀裂が走る。
しかし一方の光寛は押されることはない。強まったエネルギーに対して、自らの余裕を見せるかのように数歩前進までしたのだ。
「まさか攻撃を喰っているのか⁉」
光寛は無言のまま左手で攻撃を受け止め続ける。次第に左手から出た大きな影の口が、グリーディアごとエネルギーを呑み込んだ。何の音沙汰もなかったかのように影は溶けて崩れていくが、そこには悪魔の姿はなかった。
「弱肉強食なんだ。悪く思うなよ」
グリーディアの本体ごと、光寛は悪魔の血を取り込んでしまったのだ。
束の間に夜の帳に静けさが戻る。
光寛はダガーを消滅させ、体内を走る悪魔の血を沈下させた。
周囲を確認するが人は来ていない。もとより人が来る場所ではないため、杞憂に終わった。
光寛はそっと腹の具合を確かめる。先程の《物欲》の悪魔を激状態のまま呑み込んだため、濃厚な血を取り込むことができた。
「そこそこ腹の足しにはなったか」
もっとも、自分の食欲を満足させるのではく、アパスの空腹を埋めるために悪魔の血を取り込んでいるのだ。命令主が物足りないと喚けば早々に次を探さなければならない。
「……八時か。帰って飯作るか」
光寛は紗枝のスマホにメッセージを送り、その場を去った。
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