第一章 枯れぬ飢餓 黎明の騎士

第1話 悪魔アパスは飢えている①


 アパスの朝は早い。

 人間の体であるがゆえに、魔界にいた時よりひどく貧相な暮らしになってしまった。自身の〝冠位〟が災いして食欲が際限なく湧いてしまう。悪魔のはびこる魔界とは違い、人間の世界では悪魔の使徒を探さなければならない。

強力な食欲は鋭い嗅覚を養う。アパスの朝の習慣として、その嗅覚で千里離れた使徒を見つける。《食欲》の名をもつ悪魔にのみ許された、神業ならぬ魔業だ。


「くんくん。ぬっ! この匂いは……」


 匂いにつられて部屋を出て、階段を下りた先にその匂いのもとがあった。


「さかな‼」


 先述の通り、アパスは悪魔でありながらも身体は人間である。空腹時に人間の本能が強くなってしまうのが難点だ。もっとも人の嗅覚なのだから悪魔の匂いなどわかるはずがない。

 台所では光寛が鮭を焼いていた。匂いを嗅ぎつけたアパスに気付くも、寝癖を見てはため息を吐く。


「食う前に顔を洗って、髪を整えておけよ」

「わかっているのである! ワタシが戻るまでに食卓に並べておくのだぞ!」


 アパスはそう言って洗面台に駆け出した。彼女(?)は人間の生活様式に染まり始めているのだ。

 朝は一般家庭のように朝食をとり、家族のように会話をする。光寛の応答はそう明るい声音ではないが。


「それで今日は何時に戻ってくるのだ?」

「残業が無けりゃ八時には帰って来る。もちろん本命もこなしてくる」

「うむ、楽しみにしておる。一匹でなくてもいいぞ。三匹四匹、なんなら十匹でもいいぞ」


 食べ物を散らしながら血の話で笑う様はまさに悪魔である。光寛は、日常の中で紗枝の体を見て安堵するが、アパスの性格を目にするたびに囚われの妹を思い出す。


「まあ全力は尽くす。一生食わずにいられるくらい仕留めてくるさ」


 光寛は食べ終えた食器を流しに置き、身支度を始める。

彼の本業は銀行員である。成人男性としては生計を立てるのに困らない職種だ。しかしアパスの胃袋に食糧をつぎこまなければならないため、糊口を凌ぐ程度の稼ぎにしかならない。


「じゃあ行ってくる。あまり冷蔵庫の中漁るなよ。次の給料日までは節約するからな」

「わかっておる。それよりミツヒロ。家を出る前にすることが、あるであろう……?」


 圧倒的な身長差をアパスが背伸びをして縮める。光寛に向けて顔面を紅潮させ、唇を尖らせてみせる。あまりの羞恥にアパスは目を瞑ってしまう。


「紗枝の顔を変顔で汚すな。俺はもう行くからな」


 光寛は分け目もふらず、玄関から颯爽と去ってしまった。


「こ、このワタシの顔が……変、だと⁉」


 紗枝の身体を有した悪魔は、誰もいない1LDKで度を失っていた。



                ***



アパスは悩んでいた。

どのようにすれば光寛を

今朝の計画も光寛の鈍感さゆえに一寸も気づかれなかったが、アパスは彼が出かける手前に口づけを交わそうと画策していたのだ。


「あの朴念仁め。ワタシが口を突きつけたらキスとやらをするのが当然の理であろうに」


荒々しく床を踏み鳴らし、本人がいないことを機に愚痴を垂らしていた。

するとその愚痴に乗るかのように、アパスの右半身が動いた。


「駄目だよアパスちゃん。言葉にして言わないとは気づいてくれないよ?」


 その声は幼い女子の地声であった。アパスは自身の口から出た言葉に応答するように左の拳をぐっと握る。


「そ、それができたら苦労はしまい! 紗枝おまえの身体に入ってからというもの、悪魔体になかった妙な掻痒感が湧き出てくるのだ。さらには心臓が跳ね上がったように脈動をする。一体何なのだ!」

「それは、たぶん羞恥心だよ。アパスちゃんの、お兄ちゃんに対するアピールが人間的に恥ずかしいって感じて、恋心がドキドキを促してるんだよ」


 悪魔であるアパスには人の羞恥心など理解できない。無恥であるがゆえに戸惑うアパスを見て、紗枝は世話の焼ける思いをしていた。


「頑張ってお兄ちゃんを落としてもらわないと、私との契約が果たせないよ?」


 紗枝の呆れた一言に痛烈な一撃を喰らう。悪魔とて、人間の身体に入れば感性も変わる。


 アパスが紗枝と契約した動機は「愛を喰らいたい」という食欲からであった。そのため、妹を溺愛する光寛から愛を得ようと目論んでいたのだが、当の紗枝は身体を乗っ取られることを拒否しなかった。

 代わりに紗枝は体を渡すことと引き換えに、光寛のシスコンを治すことを条件にした。


「いつまで経っても妹の私を甘やかすし、風呂は覗くし、一人で出かけさせてくれないし。いい加減私から卒業してほしいの! だから色仕掛けでもなんでもいいから落としてよ!」

「わ、わかっておる。おぬしの願いはとうに理解しておる。《食欲》の冠位にかけて、ワタシはミツヒロを篭絡せしめようぞ!」


 この決意表明も、契約してから何度しているのか。紗枝は数えるのに飽きてきた頃である。


「一応釘を刺しておくけど、お兄ちゃんに万が一のことがあったらすぐに追い出すからね!」

「わかっておる……」


 内心、アパスは紗枝に潜むブラコンを気づかせてやろうかと考えあぐねていた。

 妹は兄のシスコンを治そうと必死、兄は囚われてもいない囚われの妹を救おうと必死。この二対構造に挟まれながら、自身の契約を果たせるか、先行きが不安になっているアパスであった。

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