アパタイトクライシス ~恋と契約と食欲と ~

飛浄藍

プロローグ

 突き飛ばされた衝撃で、男は尻をつく。

 アスファルトに張り付く氷が軋み、割れた表面に一滴の血が滲む。

 男の正面には制服を着た少女が見下ろすように立っている。少女の全身を包み込むように黒い靄が揺蕩い、靄に浮かぶ二点の赤い光が男を睨んだ。


「ワタシと、契約しろ」


 加工したような立体的な音声が男の脳内に響く。


「契約しないというのなら、この娘を呪い殺す」


 二者択一を迫られ、一瞬の間をおいて男は静かに頷いた。

 すると靄は少女に憑りつくように吸い込まれていく。スーッと入っていくと同時に髪と制服が煽られる。完全に靄が消えると、少女はゆっくりと瞼を開けた。そして甘くねっとりとした声で言う。


「契約完了。今からお前がワタシの使徒だ。ワタシの名は――」



                

 この世には悪魔がいる。

 人はそれを当たり前の危機だと認識しながらも、対して怯えることを忘れて息をする。煙草の吸う口は枯れることを知らず、コンビニに買い急ぐ足は折れることを知らず、また財布の底が尽きることも知らず。

 人は命の危機に遭遇するまで己の欲に実直である。


 そして悪魔は人よりも強欲だ。彼らが欲するのは欲望による快楽と同胞の血。人は彼らの道具として、悪魔の血を巡り戦うことを強いられる。

 悪魔の欲を満たすまで、契約を交わした人間は彼らの言いなりにならなければならない。

 もしも契約に背けば、契約の際に奪われたものは



                 ***



「ミツヒロよ。命令だ。飯の時間にしろ」


 片耳を出したボブショートの少女が、年不相応の艶やかな声で言った。


「断る」


 光寛みつひろと呼ばれる男は、少女の大きな態度にへりくだることなく首を振る。


「妹が死ぬぞ」

「お前、さっき食ったばっかだろ。そんな状態で術が使えるのか?」


 少女は図星を突かれたとばかりに唸り、幼稚な子どものように声を荒らげて地団太を踏む。


「いいからワタシに何か食わせろ! なんのために人間の体に憑りついたと思っておる!」

「悪魔の血だけじゃなく、人の食い物にも干渉できるようにしたんじゃなかったか?」


 光寛は少女に憑りつく悪魔に呆れてしまう。


「し、仕方ないであろう! 我々は人間にしか干渉できないうえに同胞の血は主食となる。欲を言えば、人の食い物も味わいたいであろう。なぜならワタシは《食欲》の冠位を有する悪魔、アパス様なのだからな!」


 高らかに豪語しては、台所に置いてあった菓子パンに袋ごと噛みつく。しかし華奢な少女の口では袋を噛み千切ることは出来なかった。


「おい、あまり紗枝の体を乱暴に扱うな。精神はお前が乗っとっていても、体はただの女子中学生なんだからな」

「むう、契約してからかれこれ一か月。随分と図太くなったではないか……。まあ安心しろ。ワタシの食べたものはすべて《食欲》に消化されるゆえ、この娘が太り死ぬことはないぞ」


 膨れてもいない腹を叩いてみせる少女、改めアパスは光寛に近寄り、彼の心臓に耳を当てる。


「――してミツヒロよ。ワタシの血で生きている気分はどうであるか? お前こそワタシの食欲で常に飢えている状態であろうに」


 アパスは不敵な笑みを浮かべながら、雪のように白く細い指を光寛の唇に触れさせる。すっと口をなぞっては妖艶な声で問う。


「どうだ? 苦しいか? 悪魔の血が通い、契約が心の臓に刻み込まれている苦痛には耐えられそうか?」


 勝手に体を弄ばれるのに辟易としたのか、光寛は目を眇め、妹の腕を軽く払う。


「お前が満足して魔界に帰るまでは、妹のために我慢なんていくらでもできる」

「まったく、相も変わらずシスコンであるな」

「まったくだ」


 光寛は薄く苦笑する。


 アパスと交わした契約は、アパスの一方的な食欲を満たすためのものだ。光寛は妹の紗枝を人質に取られて働かされている被害者である。

 しかしアパスが人間の世界から魔界へと帰るまでに十分な腹ごしらえができれば、紗枝を完全な状態に戻すと約束した。光寛にとって唯一の心の支えである紗枝を人質から解放するため、日々悪魔の血を求める。

 それが悪魔アパスと光寛の契約である。

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