シュレディンガーのお椀

宇井由布

プロローグ

 はじめに謳われたキャッチコピーはこうだった。『ニューロロジーとバイオテクノロジーの美味しいケミストリー』。

 これが流行らなかった理由がうかがい知れるというものだ。栄養学だか生物技術なんだが化学なんだがわかりゃしない。こうしてイケてない謳い文句のように、この製品もひっそりとしのぎを削る科学技術の粋たちの海に消えてなくなるはずだった。

 しかし発売から二か月、まさかという方面からこの製品『シュレディンガーのお椀』は大ヒットを遂げた。グルメ系ユーチューバーの動画によって、初期ロット五百個は即完売、追加発注を嘆願するメールが開発元の企業であるアースアットホーム社にわんさか届くようになった。

 言い忘れていたが、このシュレディンガーのお椀は、手に持った人にとって必要な栄養素を判断し、ひとたびお湯を注げばその栄養素を含むスープを提供してくれるというギミックを持ったお椀だ。例えばビタミンが足りていない人にはミネストローネが、カリウムが足りていない人にはミソスープが、といった具合だ。

 とはいえミネストローネが、ミソスープが飲みたければフリーズドライの調味料を普通のお椀に入れてお湯を注げばいい。そういったところを丸きり失念しているところも、この製品の野暮ったい点のひとつなのだが、さらに野暮ったい点――言ってしまえば不良箇所――は、頭の中で「これが飲みたい」と念じていれば、体からの信号など無視して脳からの欲望を優先してしまうところだった。

 おわかりだろうか。つまりこのお椀は「これが飲みたい」と思えば念じたとおりのスープが出てくる、魔法のお椀だったのである。ああ、シュレディンガーが泣いている。

 そしてそれに気づいた某ユーチューバーは、ラーメンが好きだった。中でもショーユラーメンが特に好きだった。シュレディンガーのお椀がこの世に知れ渡るきっかけになった動画では、ショーユスープ、ミソスープ、トンコツス-プをお椀に出現させて、同じヌードルでどれだけ美味しさが違うか、という検証をした。これが一億再生の大ヒットとなり、アースアットホーム社はベンチャー企業としては異例の業績を得るほどになった。

 そこまではよかった。

 二本目の動画では、同じショーユスープでも体調や想像したイメージによって味が変わるのか、という実験をした。結果、どれも変わらず美味しいという結論が出た。

 ここまでも、まあよかった。

 問題の三本目の動画で、某ユーチューバーはこう口走ってしまった。「今は亡きキチジョージの青葉のラーメンを彷彿とさせる味だ。きっと開発員はあの伝説のラーメンを食べたことがあるに違いない」。この爆弾発言によって、シュレディンガーのお椀はネットオークションに何百万で出品されるという事態になりニュースを賑わせてしまった。というのも、地球温暖化による海面上昇の弊害でジャパンが海に沈んだのは記憶に新しいことで、他の大陸や海中都市に移住していたニホンジンだけでなく、かつてのニホン愛好家からジャパンの文化は尊きものとされていた。そういったノスタルジストと、それを利用しようとする拝金主義の亡者たちにとって、シュレディンガーのお椀は格好のターゲットだった。

 企業秘だった開発技術が狙われるのは時間の問題だった。たかが――と私の身分で言ってはいけないかもしれないが――ラーメンスープの配合ひとつで何人もの開発職員が極秘資料を狙われたついでに命を落とした。ある者は出勤中に脅され機密漏洩を拒否して殺された。ある者は身を挺して開発資料を保存したHDDを庇いやっぱり殺された。とりあえず知っている限り、十人の開発職員のうち、九人は死んでいる――つまり、次は私の番だ。

 足音が聞こえた。忍ばせているが私には、そして隣に立つ彼にはわかる。これは殺し屋の足音だ。

「レベッカ。僕が先にこの角から出る。一瞬相手の気を引くから、その間に君は右へまっすぐ走ってくれ」

「右に曲がって何があるっていうの? あそこはただの喫煙所よ」

「君のような一般人は知らないだろうが、あそこは僕が所属する護衛チームの本部に繋がっている。煙除けのスクリーンに見せかけて防弾だ」

「ワオ……」

「わかったかい? じゃあカウントダウンだ。3、2,1……、ゼロ」

 アレックスは何事も無いような顔をして角から歩き出すと、殺し屋の男の元へと歩み寄り何事かを話しかけた。

 ええい、と続いて私は曲がり角を飛び出て、振り返らずひたすらまっすぐレンガ敷きの小路を走っていく。息が切れるより早く、背後で銃声が聞こえた。

 前置きが長くなってしまったけれど、これから始まるのは、シュレディンガーのお椀の企業特級秘密をまさに今狙われている開発職員である私こと、墨田・レベッカと、私の護衛に任ぜられたSP、アレックスとの逃亡劇の物語である。




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