No.4 春の歩調

風白狼

春の歩調

 自分の名前が会話の中に出てきたのは気づいているようだ。肢体を伸ばしてフローリングに顎を投げ出した老犬が、名を聞くと同時に閉じていた目の片方だけを開き、上目遣いで声の主を伺い見ている。

「まだやること山積みなんだけど。六時前になんか起きれねえよ。飛行機飛ぶのは夜だぜ」

 夕食を食べ終えたきょうすけが、短く刈りあげたばかりのうなじをさすって溢した。

「お兄ちゃん、明日出発するって分かってていつまでも遊んでばかりいるから、直前に慌てることになるんだよ」

 台所で洗い物をしている妹の知世ちせが馬鹿にしたような色をのせて恭介を笑っている。

「知世の言う通りよ。とにかく、明日の朝はマッシュの散歩よろしくね。寝不足は飛行機の中で解消して頂戴」

 のんびりとテーブルで食後のハーブティーを飲んでいる母に言われ、恭介は観念した。恭介が再び名前の出てきた老犬、マッシュの方を見ると、重りを一番上までずらしたメトロノームのように、ゆったりと尻尾を左右に振っている。

「しょうがねえな。とっとと準備するか……」

 恭介は、マッシュの頭を一度撫でて、二階の自室へと向かった。彼が小学校の入学祝にこの家に来て以来、十四年間を共に過ごしたマッシュの鳴き声にならない「ボフッ」という、息で口を震わせただけの音が聞こえた。

 恭介の部屋の前には、まだ新品のスーツケースが置かれてある。そのスーツケースを部屋の中で広げた。中に入っていた乾燥剤が、汚れひとつない布地を滑っている。

 仕事に関係のない本は全て置いて行く。荷物に重量制限のある飛行機に、必要以上に物を持ち込むわけにはいかない。そのせいで、恭介は荷物を纏める前に読書にふけってしまっていた。せめてキリが良いところまでという考えが命取りで、ページを捲る手は止まらず、次巻を次々に求めて手は伸びた。

 恭介が日本でやり残していることは、この伝奇小説を読み返すことなどではないと、本人も自覚していた。自覚していたからこそ、そこから目を背ける臆病な恭介だった。


 昼夜が逆転しかけていた恭介には、初めからこの選択しかなかったのかもしれない。結局、全く眠らずに過ごした夜が明けた。窓から差し込む朝日が、十二冊に及ぶ爽やかな物語を完読したことが間違いではなかったと言っているように恭介には思えた。未だからのスーツケースをそのままに、リビングへと降りて行く。

「おはよう」

 台所で父の弁当を作っている母に挨拶をする。寝癖をつけたままで、野暮ったい眼鏡をかけ、裾が長めのTシャツだけを着た格好の母は、頭の中だけはスッキリしているようだ。

「おはよう。恭介、寝てないんでしょう? ま、分かってたけどね。朝ごはん食べたら、ちゃんと寝癖直して、顔洗って、誰に会っても恥ずかしくない格好で散歩するのよ」

 完全に自分自身の格好を棚に上げている母のセリフに、恭介は苦笑した。それでも、毎日こんな早い時間から主婦業をこなしている母には頭が下がる。まだ五時半だ。

「母さん、ありがとな」

 突然の息子からの感謝の言葉に、母の動きが一瞬止まった。

「どういたしまして。その言葉は、散歩から帰ってきてから聞くかと思ったけど」

 意味ありげにそんなことを呟いて、再び手を動かし始めた母の口元には、さっきまでなかった笑顔の欠片があった。


「マッシュ、行くぞ」

 中学の時まで、マッシュの散歩は恭介の仕事だった。野球部に入っていた恭介は、毎日の朝練前のランニングを兼ねて、三キロ弱の道のりをマッシュと一緒に走っていた。その頃のマッシュは、恭介がハーネスを手にしただけで玄関の扉の前でグルグルと回っていた。飛び跳ねるマッシュにようやくハーネスを付けて玄関を開けると、見ている恭介も苦しくなってしまいそうなくらいに、首輪を喉に食い込ませて恭介を引っ張っていた。

 十四歳になるマッシュは、動きの全てが慎重でゆっくりだ。散歩も毎日ではなく、家から出るのも一週間に二回程度しかない。

 成犬は人間の四倍の速度で老いてゆく。次にこの家に帰ってきたときにはもう会えないかもしれないなと、下手な字で書かれた首輪のネームプレートの隣にある金具にハーネスのフックを取り付ける。その恭介の動作をじっと座って待っていたマッシュが、カチリという音と共に立ち上がり歩き出した。

 まだ冷たい空気の中にあって、堤防沿いには春の気配を感じさせるに十分な力を持った桜の蕾が、朝焼けの中に溶けている。昇ったばかりの太陽は、雲の境界に輝く線を引いている。その下を歩いて行くマッシュの背中は、五年前と何も変わっていないように恭介には見えた。痩せ細ってもいないし、毛並みも変わらず豊かで、緩やかな足取りも、春の訪れる速度に合わせているだけのようだ。

 恭介は駆けていた頃を思い出しながらも、今はこの地を踏みしめて、ゆっくりと歩いた。その前をやはりゆっくりと歩くマッシュに繋がるハーネスが、地面につきそうなくらいに緩んでいる。

 目で見なくても、その先に踊る命と繋がっていると感じられた頃とは違う。緩んだハーネスからは、マッシュの息吹は伝わって来ない。

 その緩んでいたハーネスが、不意にピンと張った。恭介の右手が僅かに引っ張られる。

 マッシュが足を速めたのではない。恭介の足が止まったのだ。数年ぶりに味わう圧迫された喉に驚いたように、マッシュが振り向いて恭介の顔を見上げた。恭介の視線は、そのマッシュの頭を通り過ぎ、まっすぐ前に向かっている。その視線の先に立つ人物が、恭介をその場所で待ち構えていたかのように微笑んだ。十年前のあの頃のように。

「おはよう、恭介」

「美紀……。うちのおふくろだろ? 随分早起きさせられたな」

「ううん。いつもこの時間には起きてるから。普段はまだパジャマだけど」

 この日の恭介とマッシュのように、目で見なくては繋がっていると気づかないこともある。目に見えないもので繋がっていることもある。その繋がりも、時と共に姿を変えていく。

 日本を旅立つ日の朝に、母から仕掛けられた罠に嵌る自分を笑いながら、やり残したことを片付けるべく、恭介は再びゆっくりと歩き出した。その気配を察したマッシュが、恭介の少し前を歩いて行く。

「美紀、少し話があるんだ。いいかな?」

 マッシュの尻尾を振るスピードが、恭介の鼓動と一緒に少し速まった。

 二人の物語の始まりを見届けたマッシュは、満足そうに小さく吠えた。流れ来る春に向かって。

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