第16話「あのときよりも」
僕が名前を呼ぶと、悠はこちらを振り返って、垂れた瞳をぱちくりさせた。
「あれ、お兄ちゃん。あのときの」
あれから一度も会っていなかったけれど、彼はすぐに僕だと気づいた。
終業式の日。電子掲示板に書かれた雨男の目撃情報を見て、僕とテッちゃんは水ノ宮団地を訪れ、投稿主である彼と出会ったのだ。
僕は単刀直入に切り出した。
「見たんだ。俺たちも」
「見たって……なにを?」
「──雨男を」
息をはずませた僕の言葉に、彼は大きく目を見開いて揺らした。
学校から団地までの道を並んで歩く。
西日がアスファルトの上に引き伸ばした2つの影がゆらゆらするのを眺めながら、僕は雨男との遭遇について話した。
「前に、あいつは飢えてるように見えたって言ってたよね」
「うん……」
悠はランドセルの肩紐を両手で掴みながら、うつむきがちに頷いた。その姿は前に会ったときよりも、どこか元気がないように見える。
「同じことを感じたんだ。雨男は何かを求めてる。ひどく飢えた獣みたいだった。あいつはキケンだって……」
「そっか……。やっぱりお兄ちゃんもそう思ったんだね」
「うん。でもあんなに大きいとは思わなかった。人間の大人より一回り、二回り大きいくらいだと思ってたから」
「え……。どのくらいだったの?」
「え? うーん。給水塔と同じくらいかな。いや、もっと大きいかも」
空を見上げながら僕が言うと、彼は黙ってしまった。
「悠?」
隣を歩く悠の顔をそっと覗きこむ。
「お…きく……る……」
彼は唇を小さく震わせながら、何かをつぶやいたようだった。
「今なんて?」
「……大きくなってる……。あのときよりも大きくなってる……」
彼は絞り出すみたいに声にした。
その言葉に僕は息を呑んだ。
「まさか……」
「ぼくが見たときは、せいぜい2、3メートルくらいだった。あの給水塔は、10メートルはあるよ」
熱くなった背中が突然氷水をかけられたみたいに粟立った。
悠は胸の中に溜まりきった何かを吐き出すように続けた。
「最近、団地で水が止まることがあるんだ」
「え?」
「団地一帯の水は、あの給水塔から来てるんだよ」
僕は言葉を返せない。喉が干からびてしまったように声が出せなかった。
「お兄ちゃん。ぼく、怖いんだ。何か大変なことが起きようとしてる気がして……」
悠とは団地前の横断歩道で別れた。
入り口で立ち止まった彼は、こちらを一度だけ振り返ったあと、足早に駆けていってしまった。
ひしめき合う箱型の住居の向こうで、給水塔の丘がざわざわと木々を揺らしていた。毎日通って、秘密基地まで作ったはずなのに、今は得体の知れない怪物のすみかに戻ってしまったように感じる。
「あの子もアレを見たのね」
「ぎゃあっ!」
突然横で声がして、心臓が口から飛び出しそうになった。
見れば、いつの間にかアオイが立っている。
僕は「も〜! 急に出てこないでよ」と文句を言う。
けれども彼女はいつものようにいたずらっぽい笑顔を浮かべなかった。
かわりに顎に手を当てて、眉を寄せている。この間、雨男と遭遇したあとと同じだった。
「アオイ?」
僕に呼ばれて、はっとしたらしいアオイは「帰ろ」と少し疲れたように笑った。
丘の住宅地へ続く坂道。アオイのポニーテールが静かに揺れるのを見つめながら、後ろを歩いた。
ときどき彼女は、僕の知り得ない、遠くの宇宙にいるのではないかと思うことがある。それを感じるとき、どうしてだろう。僕は地球に取り残されたような気持ちになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます