第14話「怪物と勇者」

 びちゃん──

 巨大な水袋を叩きつけたような衝撃が地面に走った。

 雨男が大地を踏みしめた音だ。

 水のような肉体にさざなみが昇っていく。


 その姿はたしかに人の形をしていた。

 けれど全身に関節らしいものはどこにも見あたらない。

 長い手脚はだらりとして、胴体からおまけみたいに枝分かれしているだけだ。

 背後の給水塔を透かしながら、ゆらゆらとたたずむ姿は人というより幽霊に近かった。


 僕らを見下ろす頭には星のような輝きがあった。

 あれは目だ、と思う。

 その光が不規則に震えながら、小さくなったり、大きくなったりしている。ビデオカメラが焦点を合わせるように、こちらの様子を注意深く探っているのだ。

 心臓を貫くような視線には、体の動かし方を忘れさせてしまう力があった。


 雨男は身をかがめて、その巨体を鉄格子の柵に押しつけたかと思うと、おばけのようにそれをすりぬけてしまった。

 そして悲鳴をあげる暇もくれず、僕らのいる階段をぬっと覗きこんだ。


 手を伸ばせば届いてしまいそうな距離だ。

 怪物の息が全身を撫でつける。

 それは生きている者の体中の血液を凍りつかせる冷気だ。

 僕の耳には、押し殺した息がわずかに漏れる音と、あの奇妙なピキピキと鳴る音が痛いくらい聞こえていた。


 ──逃げなきゃ。アオイを連れて、今すぐ!


 湧き上がってきた衝動で僕は体の動かし方を思い出す。


 振り返り、アオイの手を取ろうとしたとき──頭の上で彼女が手をかざしているのに気づいた。

 その手は目の前の怪物にまっすぐ向けられている。ほっそりとした腕は小刻みに震え、まるで時間でも止めようとしているかのようだった。手首にはめられた時計の文字盤が青白い光を放った。

 アオイの瞳は怪物を見据えながら、僕に動かないでと伝えている。

 背後ではテッちゃんが両手で口を押さえ、メガネの奥の目を剥いていた。

 僕は恐る恐る目だけを怪物へと戻す。


 不気味な一番星が煌々と光る。

 海底の闇を照らしつける潜水艦のように。

 獲物の匂いをかぎ分ける肉食獣のように。

 ライフル銃の照準を合わせるスナイパーのように。

 時計の長い針が壊れて、永遠に同じ一秒を刻みつづけるような世界で僕は息を呑んだ。


 熱心にこちらを覗きこんでいた雨男は、やがて興味を失ったようにきびすを返した。

 人型の体が溶けて水たまりのように広がる。

 巨大なアメーバとなった雨男は鉄格子の向こうへ這っていった。

 そうして給水塔の足元にさしかかると、その扉のわずかな隙間へ吸いこまれるように姿を消してしまった──。


 時計の針が何事もなく、日常を刻み始めた。そんな風に思った。

 体から力がふっと抜けて、思わず階段にへたりこんだ。重力を思いだした体はとてつもなく重い。

 後ろから息を吐く音が聞こえた。

 振りむくとアオイが腕をおろすところだった。金縛りから解放されたように、その腕がぶらりと揺れると、手首にはめられた時計の中へ透明に輝く何かが戻っていった。

 

「──ナノロボット……」


 僕がアオイを見上げて言うと、彼女はうなずいた。

 その顔は、僕に安心を思いださせる。


「アレが私たちと同じように見えるかは分からなかったけど……」と言ったアオイの瞳は、わずかに揺れていた。

 

 僕が逃げることを考えたとき、彼女はナノロボットを張りめぐらせ、周囲を誰もいない風景に偽装していたのだ。

 なんだか急に自分が情けなくなる。


「ぶはっ! あ、あ、あ、雨男!」


 たった今、息をすることを思い出したらしいテッちゃんが悲鳴をあげた。


「雨男……。さっき純平もそう呼んでいたわね。ねぇ、アレが何か知ってるの?」


 アオイが僕とテッちゃんの顔を交互に見る。


「知ってるっていうか……うんとね」



 給水塔の前の階段に座りこみ、僕とテッちゃんが知っていることを話した。


「水のような体をした怪物? 全く科学的じゃありマセン。夢でも見たんじゃないデスカ?」


 遅れてやってきたフロッディが呆れたように言ったので、テッちゃんは「そんなわけないだろ! 全員が見たんだぞ!」とムキになった。


「そのような生物は、私たちが来た300年後の未来においても、確認された記録はありマセン」


 フロッディの毅然とした言い方に、テッちゃんが「ぐう」と唸る。


「ただ……博士たちが見た存在を信じるわけじゃありマセンが、奇妙な点はありマス」

「奇妙な点?」


 僕がたずねると、フロッディはアマガエルのようなくりっとした黒目で周囲を見渡して「ハイ」とうなずいた。


「今日の水ノ宮市の外気温は34℃。この丘の地表温度は最低でも20℃ほどはありマス。デスガ、なぜかこの給水塔の周囲においては、低いところで5℃ほどの場所もあるのデス。この猛暑において、この現象は明らかに異常デス」


 僕は、目の前で雨男の冷たい息がかかったことを思い出した。

 ぞわりと腕が粟立つのを感じる。


「雨男……あの怪物は、呼吸でもするように全身から冷気を出してたんだ」

「そういえば、やけにひんやりしたよな」とテッちゃんもうなずく。

「何かしらの生命活動とみて良さそうね。異常な温度低下は、あのせいだわ」とアオイが言った。

 それ聞いたテッちゃんが「ほら、みろ」と満足気な顔を向けたので、フロッディは四角くなった目をムッと吊り上げた。

 2人のやり取りがおかしかった僕は、アオイに笑いかけようとしたけれど、彼女はきりりとした眉をよせて考えこむ顔をしていた。

 

「大丈夫?」


 僕の声に気づいた彼女は「ああ。大丈夫」と少し笑ったきり、また難しい顔になった。

 意味がわからない僕は「そっか」とだけ返す。

 あんな怪物を見たんだもの。相当ショックを受けたのかもしれない。


「それよりも、ここにスラスターがあるとは本当デスカ?」


「これは世紀の遭遇だ!」などと熱弁するテッちゃんをさえぎるようにフロッディが聞いた。

 雨男と出遭ったことで、すっかり忘れていたことを思いだす。


「そうだ。この中は、まだ探せてないんだ……」


 僕は鉄格子の方を指さした。

 そこには仰々しい文字で書かれた立ち入り禁止の看板が打ちつけられ、その向こうには雨男が消えていった給水塔がそびえ立っている。


 まだあいつはそこにいる──。


 階段をかけ上がってきたときの勇ましさは、すっかりどこかへ消えてしまっていた。

 隣で同じように塔を見上げていたテッちゃんも息を呑んだようだった。


 「見てきマス」


 フロッディはそう言ったかと思うと、鉄格子の隙間へぴょんと飛びこみ、いとも簡単に給水塔の敷地に忍びこんでしまった。

 アオイが「フロッディ! 危ないわよ!」と叫んでも、彼は「ヘーキデスヨ」と聞く耳を持たない。

「頑固なやつ」とテッちゃんが言った。



 雨男に取って喰われるんじゃないか。そわそわして待っていた僕らをよそに、フロッディはあっさりと戻ってきた。


「やはりここにもありマセンネ」


 四角くなった黒目を八の字にする。


「あるとすれば、ここしかないと思ったんだけどな。ごめん」

「純平が謝ることないよ」とアオイが言った。


「この丘の上は、ほとんど見れたはずよね。あの怪物ともう一度遭遇したとき、次はどうなるか分からないし、この丘での捜索はもうやめた方がいいわ」

「う〜ん……。そうだなぁ」


 テッちゃんがうずうずする気持ちを押さえつけるようにボサボサ頭をかきながら唸った。

 僕も「さんせい」とうなずく。

 秘密基地にあまり来れなくなるのは残念だけど、アオイの言うことは最もだと思ったからだ。

 

 あいつは、お兄ちゃんたちが思うようなものではないかもしれないよ


 僕の頭の中では、団地で出会った悠という少年の言葉がこだましていた。


 間近で向き合ったから分かる。

 あいつは──

 “キケン”だ。


「けど、スラスターがこの丘にないとすると、捜索範囲が一気に広がるなぁ」とテッちゃんが途方に暮れたようにつぶやいた。


 僕は丘の下の景色を眺める。

 そこに広がるのは、水ノ宮市の町並みだ。

 箱型の建物がいくつも並ぶ団地、鎮守の森が茂る神社、僕らの通う小中学校、駅前の商店街、水面の輝きのように散りばめられた色とりどりの家々。遠くで小さな列車がゆっくりと走るのも見えた。

 僕は、僕の住む町の広さをこのとき初めて知った。

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