第7話「先生の家」
団地に置きっぱなしの自転車を諦め、いつかのカブトムシを捕りに来たルートを下った。
雨粒が跳ね回る音が強くなり、時々雷鳴が唸るように聞こえる。
テッちゃんは息を切らしながら、ずり落ちて来る女の子の体を何度も背負い直した。
「ごめん、テッちゃん。大丈夫?」
「はは、全くオタク使いの荒いヤツだよ、お前は。はぁはぁ...良いから...足元照らせ」
「うん」
そのやり取りのあと、僕もテッちゃんも押し黙って歩いた。
日が落ちた丘は、まるで深い森のようだった。
左右に生い茂る雑木林は奥が見えなくて、どこまでも続いていそうに思える。
足元から這い上がってきそうな闇をペンライトの光で払い除けながら、アスファルトの上を雨水の薄膜が流れていくのをひたすらに見つめた。
とても時間が長く感じる。
汗なのか、雨なのか、判らないほど、Tシャツがへばりついて気持ちが悪い。
この先にハイランドクリニックがある。そのことが真っ黒な海に差した灯台の明かりのように思えた。
ハイランドクリニックは、僕らの住む丘にたった一つの小さな病院だ。
70歳くらいのおばあちゃん先生で、僕もテッちゃんも小さい頃から診てもらってる。いわゆるかかりつけっていうやつだ。
並木道の片隅に立つ白い建物は、綺麗に手入れされた植木に囲まれ、街灯に照らされていた。
「やっと着いたぁ...もう駄目だぁ」
テッちゃんが急に膝をついたので、背中の女の子が「ん...」と声を漏らした。
「ちょっとテッちゃん。病人いるんだから」と僕が言うと、彼は「俺のことももっと心配しろよ」と笑った。
街灯の明かりでほんのり照らされた彼女は、相変わらず固く目を閉じて、苦しそうに眉間にしわを寄せていた。
「大丈夫かな、この子」
「だいぶ濡れたしな。早いとこ診てもらわねーと」
クリニックの入り口のドアはカーテンが引かれ、奥にうっすら見える受付は真っ暗だった。
「裏へ回るぞ、純平」
「うん」
建物の裏手にある玄関口へ回り込んだ。クリニックは、先生の家を増築して作られているのだ。
ドア横のインターホンを鳴らしてみた。
1度押し、2度押しても、中から反応はない。
「すいませーん! 先生!」
テッちゃんが玄関のドアをドンドンと叩く。
「先生! 隅野です! 急患なんです!」
僕も一緒に叩いた。
雨の音が強くなる。
濡れた前髪からぽたぽたと雫が垂れていった。
「いないのかな...」
僕がそう呟いた時、ふいに頭上でボッボッと雨粒が弾ける音がした。
「何の騒ぎだい? 今は休診中だよ」
後ろから声がした。
驚いて振り向くと、僕と同じくらいの背の女性が傘を差し出していた。いや猫背を伸ばしたら、本当は僕より高いかもしれないけど。
垂れた瞳に、魔女のようなワシ鼻。後ろで結いた白髪の頭の上には、丸眼鏡が乗せられている。
「先生...」
先生の顔を見たら、急に鼻の奥がジーンと熱くなった。
僕らは、口々に「大変なんです!」とか「今すぐ診てやってください!」とか、胸の重りを吐き出すように言った。
先生は、垂れた瞳をピクリとも動かさず、「まぁ落ちつきな。とにかく中にお入り。風邪を引くよ」と言うと、僕らを家の中へ招き入れた。
何度も通った場所だけど、家の方に入れてもらうのは初めてだった。
先生が玄関の明かりをつけると、奥に廊下が続いているのが見えた。
それから靴箱の上に模型がいくつも置いてあるのに気づいた。模型は、宇宙船のプラモデルのようだ。円盤や筒状のもの、戦闘機のような形をしたものなど、大小様々な宇宙船が並んでいる。
「誰のかな」
「先生、実は宇宙オタクなんじゃね?」
ひそひそ話していると「とっと上がりな」と先生に言われ、僕らは水を吸った靴と靴下を慌てて脱いだ。
スタスタと奥へ進む先生の後について廊下を進みながら、ダイニングやリビングを通りすぎる。やわらかな木のかおりがする空間。誰かがいる様子はなく、こもった雨音だけが聞こえていた。
先生が廊下の壁にある扉を開けると、そこは見慣れた診察室に繋がっていた。
「ここへ寝かしな」
「はっ、はい」
テッちゃんが診察台に腰かけ、女の子を降ろす。
「どこの小学校の子だい? 見かけない顔だね」
「「小学校?」」
先生に聞かれ、僕らは診察台の女の子を見た。
横になった彼女は、もうウェットスーツのような姿ではなかった。薄いレモン色のTシャツと、水色のショートパンツ。ランドセルを背負ったら、学校にいてもおかしくない。
しかも、どういうわけか彼女の服はどこも濡れていないのだった。
「ああ...えっと...」
「いっ、いとこです!...こいつの」
「は?」
( 誰のいとこだって? )とテッちゃんに目で文句を言うと、彼も目で( 話合わせろ )という顔をした。
僕は、仕方なく何度も首を縦に振ってみせる。
「...ふむ。そうかい」
先生は納得したのかしてないのか、それだけ言って、女の子のおでこに手を当てたり、心音を聞いたりした。
それから銀色のスタンドに点滴を引っかけ、彼女の白い腕に針を刺した。
「どう...ですか...?」
「大丈夫。熱中症にかかってるが、大事にはならないよ」
僕の質問に、先生は、ほんの少しだけ目尻にシワを寄せて答えた。
「良かったぁ...そうですか...」
「はぁー...どうなるかと思ったよな、ほんと」
僕らは、ずっと肺に溜めていた息を吐くみたいに言った。
「一晩ここで安静にしてもらうよ。あんたたちも体拭いてからお帰り」
「はい。ありがとうございます」
先生が自宅の方へ行くのを見計らって、テッちゃんが小声でささやく。
「おい。あれ、どういうことだ?」
「俺にもわかんないよ」
すっかり冷えきった体を拭きながら、寝ている女の子を改めて見た。バスタオルが重たくなるくらい僕らは濡れているのに、彼女はやっぱり少しも濡れていないみたいだ。
そこへ先生が戻ってきた。おぼんに湯呑みを2つ乗せている。
「温まるよ。飲みな」
「あ、頂きます」
2人で熱い日本茶をふぅふぅしながら飲んだ。身体の内側から、じんわり温まってくる。
先生は、僕らの様子を何も言わずじっと眺めていた。
しばらく無言が続いた。
そういえば、先生と診察以外で話をしたことはなかった。
「あの...今日はどこへ行ってたんですか?」
「水神様にお参りしにね」
「水神様...?」
この近くに水神なんて名前の神社あっただろうか。団地の近くに水ノ宮神社ならあるけど。
先生は、一言「お稲荷様さ」とだけ答えた。
えっとお稲荷様って何だっけ。
やばい。会話が続かない。
「...先生は、1人で住んでるんですか?」
質問を変えてみる。
「そうさ。バカ息子がここを出て行ってからはね」
先生は、少し遠い目をして言った。
「もしかして玄関のプラモ、息子さんのですか? かっこいいなと思って」
今度は、テッちゃんが聞いた。
先生は頷いて「大学の研究室で宇宙関係の研究をしてるよ」と言った。
「まじっすか! 宇宙の?」
「すっげー」
身近に宇宙の研究をしている人がいるなんて思わなかった。そういう人は、アイシュタインとかホーキング博士とかみたいに本やテレビの中にしかいないものだと思っていたからだ。
僕らは、会ってみたいとお願いしてみたけど、先生は首を振った。
「残念だけどね、あの子はここには帰ってきやしないよ。研究ばっかりなのさ。盆ぐらい帰ってきたらいいのにねぇ...」
「そうですか...」
「さぁ、そろそろお帰り。お母さん、心配するよ」
診察室の時計は、午後7時になろうとしていた。
「あ、もうこんな時間かよ。帰ろう、純平」
「うん」
僕が相変わらず眠っている女の子を見ていると、先生は「心配いらないよ。明日またここへ来なさい」と言った。
「はい...。今日はごめんなさい。いきなり、その...来ちゃって」
「気にしなくていい。あたしの個人的な動機だよ」
先生は、そう言って微笑んだ。
それがどんな動機なのか分からなかったけど、お腹が空いて何も考えられなかった。
いつの間にか雨は止んでいた。アスファルトのくぼみにできた水たまりを避けながら、家路を歩く。
「しかし、今日は色んなことありすぎたな...。雨男に、宇宙船。それから謎の少女。今年は、オカ研史上、最高の夏になりそう...」とテッちゃんが言いかけたところで、彼のお腹がグーと鳴ったので、2人でげらげら笑った。
「お腹空いたね」
「な。明日また様子見に行こう」
「うん。また明日」
僕らは、互いに手をあげ、それぞれの家に帰った。
その後、お風呂に入っても、ご飯を食べても、うたた寝しかけて、その度母さんに叱られた。
それなのに、いざ自分の部屋に戻ると、なかなか寝付けなかった。
カーテンの隙間から、向かいのテッちゃんの部屋を覗いてみたけど、もう明かりはついていない。女の子を背負って丘を歩いたんだもの。当然だ。
そのまま勉強机に座っていたら、ふとノートがないことに気づいた。
そうだ。デイパックの中だ。
慌てて取り出してみると、幸い濡れておらずほっとした。
いつか冒険に行けるようにと、去年の誕生日に買ってもらった防水加工のリュックが、やっと役に立ち、僕は嬉しくなった。
ノートをめくると、バズーカ砲を突き出したロボットの姿がある。
そういえば、あの宇宙船にも同じようなものがついていたっけ。
形を思い出しながら、宇宙船をスケッチしてみる。
そうだ。ずんぐりした球体の後ろに、バズーカ砲のような太い突起物がついていた。
自分で描いてみても、やっぱりオタマジャクシみたいだ。こんなヘンテコな形で、宇宙をうまく飛べるんだろうかと、僕はクスっと笑った。
「もっとかっこよくしてやる」
宇宙船のスケッチから、僕の考えたロボットへ矢印を引っ張り、そこに「変形」と書き加える。ロボットの方は、オタマジャクシからヒントを得て、カエルっぽく緑色に塗った。
そしてカエルロボのキャノピーの中に、例の女の子を描き、今度は「宇宙人?」と書き添えた。
あの女の子は、どうしているだろうか。少しは元気になっただろうか。
そんなこと考えているうち、眠くなってきた。
耐えきれず、僕は布団へ倒れ込んだ。
まぶしい。日除けのカーテンが開けられ、夏の日差しが容赦なく注ぎ込まれてくる。母さんの仕業だ。
「まだ寝かしてよ」
文句を言いながら顔を上げると、おぼろげな視界に健康的で血色のいい脚が映った。その脚は、床を蹴っては、僕の勉強机の椅子をくるくると回転させている。
「ねぇ。この宇宙人ってもしかして私?」
長いまつげを携えた大きな瞳。女の子は、ノートを開きながら、僕を見下ろした。
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