第10話 魔人転生
現れたのは、一時間ほど前にイリヤの眼前で奈落に落ちたバルドだった。見た目だけは。
閉じられていたソレの瞳がゆっくりと開かれる。そこに眼球は無かった。ただ濃密なまでに死を想起させる蒼光が、満ちていた。
「生まれ変わった気分だ。いや、生まれ変わったのだな私は」
ソレから発された声も、もはや人に出せる物では無かった。
「平伏せよ」
魂すら軋ませる、言霊そのもので構成された言葉が発された瞬間。トゥエルは思わず片膝をついていた。言霊の強制力に肉体が屈服しかけているのだ。
「ほぅ。耐えるか、女」
だが、額に汗を滲ませながらもイリヤは不動であった。かつてバルドであったモノに向けて巨剣を構え、不敵な笑みを浮かべている。
「少し見ない間に随分変わったわね。口調とか全然違うけど、自覚ある?」
「ただ、知っただけだ。何も知らぬ子供と、多くの事を知った大人では話し方も変わる物だろう」
「ふぅん。で、私たちに何か用かしら? その様子だと部下たちの敵討ちとか、もうどうでもいいんじゃない?」
「弱肉強食は星の摂理だ。だが、貴様は違うだろう? 異星の侵略者よ。私は遺跡の管理者と取引をしたのだ。力を与えられる代わりに、人類の脅威たる貴様を滅ぼせとな」
「そうかしら? 私たち、仲良くできると思うのだけど――」
――ヒュゴッ!
会話の途中で一切の予備動作無く投擲された巨剣。それを追いかけるように、イリヤが凄まじい勢いで地面を蹴りつけて弾丸のように飛び出した。
当たればそれでよし、躱されたとしても己自身が二の矢となる。巨剣を軽々と振り回すイリヤの剛腕で殴られれば無事には済まないだろう。それがただの人間であれば――。
「止まれ。不敬である」
あり得るのだろうか。無機物であるはずの剣そのものが、止まれというソレの言葉だけで動きを停止し、ガランという音をたてて地に落ちる。
その様子に瞠目しつつも、イリヤは右腕を引き絞られた弓弦の様に撓めたまま飛び込み、右拳を思い切りソレの顔面に叩きつけた。
「今、なにかしたか?」
「硬ったい!」
およそ人体を殴ったとは思えぬ衝撃がイリヤの右腕を痺れさせる。殴打の瞬間、ソレの顔面が硬質の質感を伴った金属に変化していたのだ。肉体の硬度すらも操作可能とするソレはもはや、人では無く魔人と形容する方が正しいだろう。
「パンチというものはこう撃つのだ。フンッ!」
「がッ――ぐぅっ……」
まるで手本を示すかの如く、姿勢を低くしてすくい上げるように放たれた魔人バルドの拳がイリヤの腹部に突き刺さった。
内臓全てが破裂したかと錯覚するほどの衝撃と激痛に、イリヤが身体をくの字に曲げて苦鳴を漏らす。痛みを堪えつつも後方へと飛び退り、距離を取ろうとしたイリヤであったが、一瞬で距離を詰めた魔人が再びその拳をイリヤに叩き込んでいた。
――ズドムッ!
「がはぁっ! ごぶっ……」
先ほどに倍する衝撃を腹部に受けたイリヤが凄まじい速度で弾き飛ばされ、洞窟の岩壁に叩きつけられて夥しい量の血を吐いた。岩壁に蜘蛛の巣状の亀裂が生まれる程の威力だ。レザースーツに腹部にくっきりと、拳の形が残るさまが、その破壊力を物語っている。
「くっ……姉さん」
なんとか魔人による言霊の影響から抜け出したトゥエルが立ち上がるが、魔人はトゥエルに一瞥を向けただけで、殴り飛ばしたイリヤを追う。
姉と読んではいるが、魔人にはトゥエルがサキュバスではないことがわかっていた。そもそもサキュバスに雄性体は存在しないのだ。魔人からすれば戦闘力も無いに等しく、サキュバスでなければ相手にする意味も無い。つまりはどうでもよいのだ。トゥエルの事など。
――ボグッ! ドゴォッ! ドヌヅッ!
「ガハッ……おげぇっ……うっぶ――ゲボッ……」
壁にめり込んだイリヤの柔らかな腹に、何度も何度も執拗に……左右の拳を連続で抉り込ませていく魔人。酔いしれているのだ。先ほどまではとても敵わぬと、微かな希望に賭けて逃げるしかなかった女を圧倒的な力で蹂躙する事に。
重い殴打を受ける度に、腎臓や脾臓が破裂し大量の血が消化器官を逆流して口許から溢れ出す。筋肉の塊である子宮は破裂はしないまでも、女の急所そのものへのダメージは猛烈な吐き気を伴う。
ズドン! 殴られた下腹部に拳が全て埋め込まれ、腹腔内をグチャグチャにしていく。更に続けて左右のフックが突き刺さり、わき腹からの衝撃に再生しかけていた腎臓が再び破裂する。
44人分もの精気を喰らい尽くしたイリヤは凄まじい再生力を持っている。だが、それ故に、苦しみは長引くのだ。今のイリヤは魔人バルドの愉悦を満足させる為だけのサンドバッグと化していた。
だから気付かなかった。
いつのまにかトゥエルの姿が、洞窟内から消えていた事に――。
「ふむ。随分と頑丈なのだな。
「げふっ……。すっかり私に夢中ね。がはっ……。でも、殴るだけでいいのかしら? うふふ……」
壁に叩きつけられたまま、殴り続けられているイリヤの瞳が妖しく輝く。
「効かぬぞ。だが、それほど望むのであれば……ククク、貴様の望み通りにしてやろう」
先ほどの言葉通り、雄性体に対し絶対的な効果を発揮するイリヤの魅了をたやすく跳ね除けたバルドは、イリヤの細い首筋を鷲掴みにすると、そのまま軽々と彼女を持ち上げ、背後の岩地に叩きつける。
――ドガァッ!
「がふっ!」
砕けた岩盤の上で衝撃に息を詰まらせるイリヤ。その眼前で、バルドの姿が急激に変容しはじめた。
「これが私に与えられた真の力よ。どの様な生物にも負けぬ最強の姿だ」
ボコボコと全身の筋肉が盛り上がって服ははじけ飛び、体毛は消え、肌は白く変色してつるつるとした質感を具え始めた。骨格すらも大きく頑丈に膨れ上がり、頭部や四肢はより攻撃的に鋭角さを帯びていく。
「フシュ―……。チカラガ……アフレルヨウダ。オオカタ、ワタシヲユウワクシ、エナジーヲスイトルツモリデアッタノダロウ? サキニイッテオク。フカノウダ」
もはや人間であった頃の面影は何一つ残していない。化け物と成り果てたバルドの姿がそこにはあった。
身の丈およそ三メートル。異形の筋肉で全身を覆われた、目も鼻も無く、ずらりと並んだ牙をむき出しにした深海に棲まうサメの如き頭部の巨人。その背中からは、ぬめぬめとした粘液に覆われた十数本の触手が生えてウネウネと蠢いている。
「悪趣味な見た目ね。さっきの方がまだイケメンだったわよ」
「ツヨガリモ、ソコマデユケバタイシタモノダ」
発声器官すら変化したのか、くぐもった甲高い声はひどく聞き取りづらい。
怪巨人と化したバルドは、倒れたまま息も絶え絶えのイリヤのレザースーツに手を掛けると、丈夫な合成繊維で造られた筈のそれをビリビリと大きく引き裂いた。
ぶるんと大きな乳肉がまろびだし、扇情的な形状の黒いショーツがバルドの眼に晒される。男であれば誰しも目を奪われるだろうその光景ですら、変容したバルドの心には微かな波風すらも立てていなかった。
「まるで初めて女を抱くように急ぐのね。ゆっくり愉しんでもいいのよ?」
「ククク……ダクノデハナイ。キサマヲゼツボウニオトシ、ココロモカラダモ、クダイテヤロウ」
聖域を隠す黒き薄布を引き千切り、かつてバルドであった化け物は、その肉体に相応しい兇器の狙いをぴたりと定め――深々と貫く。
「――――ッ!」
声なき絶叫がイリヤの喉から迸った。
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