第7話 吸精淫魔

 エレーナは、弟の事が嫌いだった。


 両親が死んだのは、自分が10歳、弟が5歳の時だ。以来ずっと、ただ一人で自らの時間を削って幼い弟の世話をしてきた。

 母が恋しい、父に会いたいと夜毎泣き続ける弟に、自分だって会いたいのだと何度叫び返したいと思っただろうか。いっそ同じ様に泣き叫び、手を上げてしまえていれば楽だったのかもしれない。


 死の間際、手を握るエレーナに何度も謝り、幼い弟を、ケントを頼むと死んでいった両親。エレーナは、その約束をたがえる事など出来なかった。

 だからずっと、鬱屈した感情を押し殺しながら生きてきた。表面上は明るく振る舞い、中の良い姉弟だと自分の心に暗示をかけて。


 弟は自分の時間を奪う嫌な奴だ。でも家族だから大事にしないといけない。たった一人の家族なのだから、たとえどれだけ手間を掛けさせられてきた弟でも、大事にしなければいけないのだ。


 でも、そんな風に無意識に弟を責めてしまう自分の事が、エレーナは一番嫌いだった。


 ある時、17歳になったエレーナは、隣村へ買い物に出掛けた。古くなっていた農場の器具が壊れ、それは隣村に行かなければ手に入らなかったからだ。

 

 そこでエレーナは素敵な男性と出会い、互いに思いあう間柄となった。しかし逢瀬を重ねる度に、重苦しい感情が胸の内に溜まっていった。


 やがて、エレーナは覚悟を決め、弟に結婚の話をした。もう貴方の世話は出来ないと。姉としての役割を果たせないと。その事を告げた瞬間に、エレーナは思った。また両親を亡くした時のように泣くのだろうか。何処にもいかないでと縋られるのだろうか。嫌だな……。そう思いながら、下を向いていた視線を上げて弟の顔を見た時。エレーナは気付いた。


 弟は笑いながら泣いていた。苦労を掛けた姉がようやく幸せになれるのだと、己を責めながら泣き笑いしていた。

 

 弟はもう五歳の何もわからない幼子では無かったのだ。エレーナの中ではいつまでも幼子であったケントは、いつのまにか背も伸び、少年ながらもたくましく成長していたのである。


 だからこれは罰なのかもしれない。


 姉の幸せを涙を流して喜ぶ弟を、邪魔者だと疎んじていた自分への罰なのだ。この身を犠牲にして弟や村を救えるのなら、それも悪くない。そうやって無理やり自分を納得させていたエレーナ。


 けれど、連れてこられた洞窟の中で、大勢のけだものたちの視線に犯された時、エレーナは心の底から恐怖した。


 汚される事にでは無い。壊される事にでもない。もう二度と、大切な弟や新たに家族になってくれる婚約者に会えなくなる。頭ではわかっていたそれを、完全に理解してしまったからだ。


 全てを諦め、いっそ隙をみて死んでしまおうかと決意しかけた時、にわかに洞窟の中が騒がしくなり――エレーナの意識はふつりと途絶えた。



 そうして次に目覚めた時、彼女の瞳に映ったのは、結婚を告げたあの時のように泣き笑いを浮かべた、大切な弟の顔だった。


 ※


「姉ちゃん……。姉ちゃん! 無事でよかった……ぐすっ……ひぐっ……」

「ケン……ト。どうして……ここに? 貴方も捕まってしまったの?」


 エレーナは未だ、あの洞窟に囚われたままだと勘違いしていた。突然の睡眠と覚醒だ。無理も無いだろう。


「違うよ。ハンターに依頼したんだ。トゥエル兄ちゃんとイリヤ姉ちゃんが助けてくれたんだ! もう安心だよ、姉ちゃん」

「初めましてエレーナさん。ケント君から依頼を受けて、貴女を救出しました。とはいえお疲れでしょう。今から自宅までお連れしますので、まずはゆっくりと休んで下さい」


 茫洋としたエレーナの瞳が、弟の横に立つトゥエルに向いた。弟とさして変わらない年恰好に見えるが……その瞳には、弟には無い確かな自信が溢れていた。


「すいません……詳しくお話を聞きたいのですが……今は少し……」

「大丈夫。今日はゆっくりと休んで下さい。貴女が休んでいる間に厄介事を片付けておきますので、どうぞいい夢を」


 再びまどろみ始めたエレーナを連れて、トゥエルは車を走らせてベゾフの村へと戻る。

 寝室のベッドにエレーナを寝かせた後、荒らされた室内を片付け始めたケントに、トゥエルはまるで買い物に行くかのように告げた。


「姉さんを迎えに行くついでにちょっと遺跡を荒らしてくるよ。明日には戻るかな」

「イリヤ姉ちゃんは大丈夫なの? ホントなら俺たちを送る前に加勢に行った方が良かったんじゃ……」

「むしろ怒られるね。姉さんが言ってたろ? 全部私がやるって」

「あれ、冗談じゃなかったんだ……ハンターってスゲェんだなぁ」

「姉さんがおかしいだけさ。大体のハンターは酒場にいたような人達くらいだと思った方がいいよ」

「なるほどなぁ」


 単身で軽装甲車輛タンク・バンに戻ったトゥエルは再び、赤錆剣団が野営していた洞窟へと車輛を走らせる。宿場街での応急処置のおかげか、車の機嫌は悪くはないようだ。


 すでに陽は落ちかけていた。時刻は夕刻、イリヤが洞窟内に入ってからもう二時間ほどの時間が経過している。ハンドルを握りながら、トゥエルは片目の視界と洞窟内のナノマシンを共有させた。流石にケントたちと共にいる時は流石に洞窟内のナノマシンとは視界共有を切っていたようだ。


 洞窟内の様子は激変していた。


 先ほどトゥエルが覗き見ていた、噎せかえるような淫臭に塗れた魔宴の様子は影もカタチも無く、視界には節くれだった倒木のような物体がいくつも映っている。よくみれば、それらはすべて干からびた人間であった。


「二時間で食い尽くしちゃったのか。大分お腹空かせてたしなぁ……姉さんは――っと、シャワー中か」


 野盗団の男達が持ち込んだものだろう携帯用シャワー室で汚れを落とすイリヤらしき人影。トゥエルのナノマシンが、目隠しの天幕内に入り込んでいく。


 この世のモノとはとても思えぬ、神秘的とすらいえる女体がそこにはあった。

 

 水滴を弾く肌は新雪のように滑らかで、毛穴には汚れの一つも見て取れない。斬られた筈の右腕は、僅かな傷跡すら無く元通りになっている。


 濡れた銀髪から滴る雫が、息を呑むほどに妖艶な鎖骨を経由して、重力など知らぬとばかりにそそり立つ双丘の間を流れ落ち、うっすらと割れた腹筋の溝から神秘のデルタ地帯へと誘われる様に吸い込まれていく。


 真の美とは何か。歴史上の数多の芸術家たちが生涯をかけて追い求め、それでもなお辿り着く事が出来ぬ筈の答えがそこにはあった。


「栄養補給も万全だな。うまい具合にもうすぐ夜だし、遺跡を調査しつつ頭目たちを狩るには丁度いいか」


 仕事のパートナーとして姉の体調をチェックする為だ。べつにやましい事は何もない。そんな風に己が心に言い聞かせながら独りごちるトゥエル。大分無理があった。


 ※


「お待たせ、姉さん」

「別に待ってないわよ。丁度シャワーからあがった所だし。でしょ?」

「なな……何の事かな? それより姉さん、エレーナさんとケントは無事に家まで届けたよ。サクッと残りを始末して遺跡を軽く調査しよう」

「ふふっ……。わかったわ。残りの奴らでも満たしたいしね」


 しどろもどろになった弟に、意味ありげに微笑むイリヤ。知っていてからかっているのだ。バレていないと思っているのはトゥエルだけである。


「それで、どういう遺跡なの?」


 黒革のレザースーツを纏い、洞窟外に放置されていた愛剣を回収してきたイリヤがトゥエルに尋ねる。野盗団の男達はもちろん、トゥエルですら持ち運ことが不可能な重さの一振りだ。男達の精で飢えを満たしたイリヤは、その超重量の金属塊を片手で軽々と振るって素振りを始めた。


「ロスト・エイジ時代の物なのは間違いないね。入ろうとするとナノマシンの活動が阻害されるし、機密データを扱う何かの研究施設かも─―って近い近い! 危ないなぁもう」


 ブゥンと空気を切り裂いて振り回される鉄塊の風圧がトゥエルの髪をブワリと逆立てる。なにせ柄頭から剣先までニメートル近くはある代物だ。遺跡内の狭い通路でまともに使えるのかも疑問である。


「当たらない様に振ってるから大丈夫よ。研究施設ね……。あまり金目の物は無さそうね」

「なんの研究かにもよるけどね。今の時代じゃそもそも研究データを有効に使えるところが無いからね。あと数千年待てば高値が付くんじゃない?」

「大分先ね。じゃあ良さそうな物があれば回収して数千年寝かせましょうか」

「姉さん忘れっぽいからなぁ……」


 冗談とも本気ともつかぬ掛け合いをしながら、二人が遺跡の入り口が埋もれていた洞窟の奥へと歩き出したその時、カサリという僅かな物音が洞窟内に響いた。


「あら! 凄いわトゥエル。この人まだ生きてる」

「スキャナーで確認したよ。僅かだけど生命反応あり、かなり強い人だったのかな?」

「確か副団長って呼ばれてたわ」


 干からびたミイラと化した40人余りの男たち、その中でただ一人、ライナスだけがいまだその命を保っていた。


「あ……あ……」


 イリヤによって精気を残らず搾り取られ、それでもなお、その強靭な生命力故に僅かに永らえていたライナスの、枯れ枝の如き右腕がわずかに動いた。まるでイリヤを差し示すかのように。


「その生命力に免じて、末期の言葉を聞いて上げましょうか。何か言いたいのかしら?」


 ライナスの口許に顔を近づけ、その言葉を待つ。恨み言か、はたまた悔恨の嘆きか。ライナスのカサカサに乾いた唇から出た言葉は、そのいずれでも無かった。


「あ……さ……吸精淫魔サキュバス――」


 イリヤとトゥエルの瞳が見開かれた。


「へぇ……未だ知っている者が居たとはね。でも残念、半分正解で半分外れよ」

「……子供の……頃……読んだ……古き書物……けふっ……こふっ」

「待ちなさい――はい、経口補水液よ。精気は戻らずとも、喉は滑らかになるでしょう」

 

 ライナスの言葉に興味を抱いたのか。イリヤが荷物から水筒を持ち出してハンカチにしみ込ませ、男の口に含ませた。


「けふっ……んっ――すまない」

「貴方、正気に戻ってるわね。死の間際といえど私の魅了チャームから抜け出すとは中々ね。顔が良ければキープしたい所だわ」

 

 トゥエルは二人のやり取りはを黙ったまま見つめていた。姉の正体に半ばとはいえ迫ったのは、男が初めての存在だったからだ。その言葉には姉と同じ様に興味があった。


「口伝を纏めた伝承録のようなものだった……架空の物語だとばかり……」

「それはどこに?」

「アースラースの街……私の故郷……カタストロフ以前……遥か星辰の彼方より……来たりし美しき悪魔……」

「凄いわね。五千年を経ても真実の欠片が残っていたなんて……。それで、他に言い残したい事は?」

「青臭い……憧れだった……一度でいいから吸精淫魔サキュバスを抱きたい……と――あり……がとう」


 感謝の言葉と共に、ライナスは動かくなった。僅かに残されていた灯が今、消えたのだ。そのミイラの如き顔に、微笑を浮かべたまま――。


「死んだね。悪人の癖に夢を叶えて死ぬなんて良い身分だ」

「ふふ、良いじゃない。別に。私はこういう男たち嫌いじゃないわ。自分のやりたいように生きて死ぬ。少しだけ羨ましいかもね」

「姉さんは優しすぎるだけだよ」

「違うわ。私にとっては善人も悪人も等しくエサでしかないの。ただ、一生懸命に生きているのが愛おしいだけ。所詮私は化け物だから」

「でも――いや、何でもない。そんな事より遺跡に行こう。アースラースの街にも今度行ってみよう」

「ええ、そうね」


 文明崩壊カタストロフ以前、遥か星々の彼方までをも支配していた人類種の中に、他生物の精気を糧とする一つの種族がいた。

 とある恒星系に住まうその種族は、あらゆる知的生命の雄性体に対し、絶対的なまでの能力を有していたといわれている。 

 故に、僅かな共存の期間を経て、かの種族は残るすべての人類種と敵対する事になった。


 吸精淫魔サキュバス

 遥か伝説の彼方に消え去った筈の、異星生命体。種の片割れである雌性体すべての敵意によって滅ぼされ、その行為によって全ての種族を二分した絶滅戦争を引き起こす事になった、文明崩壊カタストロフの引き金である。

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