『黒澤温泉街の蟒蛇』

 私が営む『新羅戯あららぎ刀剣店とうけんてん』で鍛冶士かじしをしている架島かじま霧奈きりなを連れて、由緒ゆいしょ正しき温泉街である『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』にやってきたのは、主に慰安いあんが目的であった。『竹鏡たけかがみ』というめい忌刀きとうふところに忍ばせてからというもの、しかし私はまったく危険に晒されることなく、平穏無事な人生を歩んでいた。刀屋としての仕事も順調であったし、退魔師たいましとしてもいくつかの仕事をこなしていた。霧奈の鍛冶士としての仕事も順調であり、また彼女の造る『匕霧あいぎり』という短刀も、もはや『新羅戯あららぎ刀剣店とうけんてん』の目玉商品になり得ていた。普通、刀などというものは売れなくなって久しい世の中だったが、短刀とか小刀とかならまだまだ需要じゅようがあったようで、そうしたものの販売に特化した私の店は、周辺ではそれなりの知名度を誇るようになっていた。『境界橋きょうかいばし』で決死の覚悟を決めたは良かったが、結局のところ、月日は平穏無事に流れ、私と霧奈の付き合いも、もう一年を越えようとしていた頃だった。

「良いのでしょうか、私のようなものが零士様にこんな素敵なお宿に連れてきていただいて」と、『頭髪亭とうはつてい』という宿の部屋に入ったと思うと、霧奈はすぐに申し訳なさそうに言った。「私は零士様に甘えてただ毎日刀をこしらえているだけでございます。それなのに、慰安旅行になど連れてきていただけるなんて」「無礼講ぶれいこうと言っただろう」私はぴしゃりと霧奈に言いつける。「少なくとも霧奈は私の店の売り上げに多大なる貢献こうけんをしているんだ。堂々としていればいい」「ですが」「それともまだ足りんか」「そんな」「賃金の値上げ要求なら聞こう」「まさか」「なら大人しく私の厚意に甘えるといい」「はぃ」消え入りそうな声で霧奈は観念すると、少しだけ微笑んだ。やはり家族のように感じている霧奈のこと、旅先の宿で二人きりになろうと、よこしまな気持ちにはならないものだった。やはり娘を想う父の気持ちに近い。だがどうだろう、霧奈の方は普段の鍛冶士としての服装をやめ、どこか町娘らしい、あるいは流行りの服装に身を包んでいた。風が届けた噂によれば、霧奈は私に店主以上の感情を抱いているというが、まあ大抵、風の言うことは冗談なのだから本気にしないのがきちだろう。私はさっそく荷物をまとめると、浴場に向かう。『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』に来る理由など、温泉に浸かる以外にないのだから。

 私と霧奈は異性同士であるので当然浴場の前で二手ふたてに別れた。「ゆっくり浸かるといい」「あがったらお待ちしておりますので」「いいから好きに入るといい。私も長風呂になる。先に上がったら部屋に帰っていていいぞ」霧奈に再三さいさん釘を刺し、私は脱衣場で着流しを脱いだ。私の体には、すみやらのろいやら刀傷かたなきずやらじんやらが至るところに染みついていて、公衆浴場なんかでは入浴を断られることもある。だが『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』ではそうした差別は存在しなかった。だからこそ、由緒正しき温泉街と言えたかもしれぬ。私は手ぬぐいをひとつ持ち、がらりと戸を開けて湯気の立つ浴場に入る。中には二、三の客が散見さんけんされた。今は丁度、閑古期かんこきに当たっていたので、客は少なかった。もっとも、以前私が訪れた時に比べると、それなりに盛況ではあるようだった。

 日本人たるもの風呂に浸かる前に体を洗い、身を清めるのが普通だった。きちんと整理された室内浴場の他に、ここには露天風呂もあった。私は身を清め終えると、先に露天風呂へと向かった。そこは幸いにも誰も先客がいなかった。手ぬぐいを頭の上でり、首から上だけを出してゆっくりと浸かった。極楽ごくらくとは恐らくこのことを言うのだろう。あるいはここにこそ、人が望む天国はあるのかもしれない。私は大きな溜息を、日頃の鬱憤うっぷんと共に吐き出した。無論、鬱憤というのは、仕事のことでも霧奈のことでもない。ただ漠然ばくぜんとしたあせりや、将来に来るであろう大事件のことであった。

 私が永遠とも思える時間を経過していると、露天風呂への戸ががらりと開き、別の客の気配が這入はいってくる。私はそちらに視線も向けず、風呂浸かりに忙しかった。ちゃぷんと音がして隣に男が浸かる。姿も見ずに男と言ったのはここが男湯だからであった。顔についた水分を拭おうと頭から手ぬぐいを取って顔に押しつけていると、「お兄さん」と声がした。「はい」私は手ぬぐいから顔を出さずに答える。くぐもった声だったはずだ。「ご旅行ですか」「ええ、店の慰安旅行でね。社員旅行と言っても良いかもしれません」正確には私の店は会社ではなかったが差違はないはずだ。「おたくさんは」と私が手ぬぐいを頭に再び折りながら尋ねたとき、私はやっとその声の主を見ることになった。そして同時に、。そこにいたのは、蟒蛇うわばみというくらいだから、蛇や大蛇に比べて知能が高く、まむしつちに比べて体が大きい。そこにいたのは、ややほとんど人間と同じような形の生き物だった。だが、口から漏れる舌は先で二股に分かれていたし、眼球はするどく細まっていた。

「おや、驚かれましたね」

「あんた、

「ええ、ご存じでしたか」

左様さようです。まさかこんなところで月島つきしまさんにお会いするとは」

 蟒蛇は私を知っているようだった。そして私も蟒蛇を知っている。初めて会うのに、知っていた。例えるなら蟒蛇というのは、麒麟きりんりゅうとかと同じような、会ったことがなくても姿を知っている存在の一つだった。初対面だが、すぐに蟒蛇だと分かった。発される雰囲気やら気圧きあつがその証左しょうさであった。「私をご存じですか」と、私は言った。初対面に関わらず私を月島と言ったのだから。「そりゃもう」蟒蛇はあくまでも穏やかに続ける。「娘を殺した男だ」ここで弁解べんかいのしようはいくらでもあったはずだが、私はここしばらくおびえていた、いつか来るはずの決断についてばかり考えていた。そのため、ここは腹をくくる決断を下したのだ。「それについては、本当に悪かったと思っている」「かもしれませんねえ」意外にも、蟒蛇は大人しかった。

 私は蟒蛇と露天風呂に浸かりながら、世間話に花を咲かせる結果となってしまった。

「ほんの偶然ですよ」蟒蛇は言った。「あるいは偶然なんてものはないんでしょうか」「それはめぐり合わせだ」「そうですね、巡り合わせです。小生しょうせいは本当は偶然などというものを信じてはいないのですよ」あくまでも蟒蛇は物腰柔らかな態度だった。「だからここで月島さんに会ったのも、何かの縁だ」「でしょうな」「あなたを殺したいんです」蟒蛇はおっとりとした口調のまま言った。「あなたと関係を持った、私の娘である蛇女は、名前を円佳まどかと言いました」「初耳だ」「それはそれは、また憎いことをおっしゃる。余計に殺したくなりました」蟒蛇はくっくと笑う。「あの子はねえ月島さん、大変な覚悟を持った女だった」「元は人間だったと聞く」「そうです。一度人の道を踏み外して蛇女になったのです。それをあなたが殺した」「結果的にはそうなったのかもしれない」「みのらぬ恋をさせるのは罪だとは思いませんか、月島さん」その問いはすぐに答えられるたぐいのものではなかった。「分からん」「罪です。しかし栄誉えいよでもあった。一度蛇女にちた女を、再び人間にしようというくらい、あなたは円佳を夢中にさせました。それは栄誉でもあったんですよ」「私があのままめとれば良かったと言うのか」「その気がないんなら、最初から手を出すべきじゃなかったんですよ」蟒蛇はもっともなことを言った。「月島さん、男はね、もっと優しくなきゃいけない。女は勝手ですよ、だからね、それを受け入れるくらい優しくなきゃいけない。一度惚れさせたんなら、自分の都合など忘れて、女に好き放題させるくらいの度量がなきゃいけません」「私に、蛇女との交際を認めろとおっしゃるわけか」「いやそうじゃない。手を出すなら出す、出さないなら無縁でいるべきだった。いくらねえ、いくら女が言い寄ってきても、ぜんなんて本当は食っちゃいけないんですよ。そりゃあねえ月島さん、その飯をきちんと食べきる覚悟がなけりゃあしちゃいけないことなんです。男はね、据え膳を食うことを一夜いちやあやまちと思うかもしれない。違うんだなあ、一度はしを付けたらね、次から次に出てくる料理も全部食ってやらにゃなりません。それをしなかったあんたは、罪深い」蟒蛇は、蛇の総大将であるだけあって、細い目で私をぎっと睨んだ。その睨みの強さは、果たして蛙でない私でも怯えてしまうほどだった。

「だからと言って今日は殺しませんよ。今日は私も慰安でね」蟒蛇は風呂から立ち上がる。見れば足も二本あるし、妙に生白い肌をしていた。舌がおかしいことと、目玉が黄色いことを抜かせば、ただの優男やさおとこのようにも見えた。「しかしこれは縁が絡んだ結果ですよ月島さん。もう逃がしはしません。近いうちに、あんたに鉄槌てっついを食らわせにゃなりません。お覚悟を」「私の言い分を聞くつもりはないのか。お前が知らぬ真実もあるぞ」「ありませんね」「蛇はやはり狡賢ずるがしこいのだな」「そうとも限りません」足だけ風呂に浸けたままで、蟒蛇は続ける。「蛇は理不尽かもしれません。蛇は自分勝手かもしれません。蛇は許されざる生き方かもしれません。でもねえ月島さん、蛇は罰するだけだ、復讐はしない。しかし例えば、同じ目にわせるという狡猾こうかつさくらいは持ち合わせています。月島さん、家族のように思っている娘はいませんか」



 私は怒りに任せて言葉をつむいだ。その気圧は退魔師としての気圧だったが、流石の蟒蛇でも、多少の恐れを感じたようだった。「ええ、ええ、そうでしょう、小生しょうせいは知りませんが、あなたにはそういう風に、大切にしている女がいるかもしれない。その女が、どこの馬の骨ともしらん男に恋をしたとして、その男も乗り気になって関係を持った。ところが関係を深めようとした途端に男は手の平を返した。ねえ月島さん、それが許せますか」「私は、」私はなんと答えるべきだったのか。例えば私が蛇女にしたのと同じように、霧奈を誑かし、あまつさえ死に追いやった人間がいたとしたら、私はどうするのだろう。「まあ今日のところは良いでしょう。先ほど申し上げた通り、小生しょうせいも本日は慰安に来ただけです。それと墓参りにね」「墓参りというと」「この宿の下方かほうに『大腿亭だいたいてい』という宿があるんですがね、その付近に住んでいた仲間の蛇が、一年ほど前に通り魔に殺されたんです。一周忌いっしゅうきなんでね、来たんですよ」「あんた一匹でか」「まあそりゃあ月島さん、蛇にも位がありますから、下っ端の蛇は『大腿亭だいたいてい』やら『爪先亭つまさきてい』に泊まっています」「なるほどな」「蛇の墓参りなんておかしいと思いますか」「いや。しかし蛇ほどの生き物が通り魔ごときに殺されるか」私は言う。本当は全てを知っていたのだ。真実は私の中にあった。あるいは私だけが、大蛇だいじゃの死の真相を知っていると言っても良かった。「分かりません。並の男じゃないでしょう。ただね、その蛇は随分と悪事を働いていたようです。素人さんにたくさん迷惑も掛けていたようでね。だから形だけ墓参りには来ましたが、そこまで惜しんでるわけじゃないんですよ、希薄きはくなようですがね。だって蛇は、死ねば人間になりますから。死んだあとは、別の生き物なんですよ。いや、死に物ですかね」蟒蛇はやっと風呂から足を上げて、手ぬぐいで体を拭いた。「ねえ月島さん、少なくとも私らは、『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』にいる間はあんたに手を出しません。ですが、ここを離れたら覚悟しておいた方が良い」「死んだら別の死に物じゃなかったのかい」「仲間意識と家族意識は違うでしょう、月島さん」私は何も言い返さなかった。蟒蛇の言っていることは、もしかしたら正しいのかもしれないと思い始めていたからだ。

 私は蟒蛇が行ってしまってから、しばらく自問するように風呂に浸かっていた。しかし体と一緒に思考も煮詰まってしまいそうになったので、さっと体を拭いて風呂を出た。流石に蟒蛇以外の蛇は同じ宿にはいないようで、私は用心ようじんしながらも、少しほっとした気持ちで脱衣場で服を着て、浴場を出た。出てすぐのところには、長い髪を乾かすのに忙しい霧奈の姿があった。「待たなくて良いと言ったろう」「お部屋で行き違いになるのも心細いと思ったものですから」起きている霧奈が髪を下ろしているのを見るのはなんとも珍しかった。霧奈はいつも私が入ったあとに風呂に入るので、私は霧奈の風呂上がりを見ることはほとんどない。「案外綺麗な髪質なのだな」過酷な鍛冶場にいるとは思えないほどつややかな髪質だった。そう言えば、『うるし蜘蛛ぐも』が刷毛はけにしたがっていた覚えがある。それほど良質なのだろう。「これは生まれつきのようで。父と母には健康で良質な体を与えられました」「そうか。私も父からは健康そのものの体をもらったものだ」私は霧奈を連れて、部屋には帰らず、そのまま『頭髪亭とうはつてい』の外に出た。「どちらへ」「ちょっと散歩でもしよう。何、下方までは行かんよ」「下方には何があるのでしょう」「何もないよ」あるいは霧奈の知らない世界しか存在していないはずだった。

頭髪亭とうはつてい』から少しくだり、『眼球亭がんきゅうてい』の辺りをうろついていると、私はようやく目当ての露店を見つけることが出来た。狐面の露店であって、そこの店主は狐だった。彼は私と縁のある狐で、私を見るなり「おや、お兄さんじゃありませんか」と言った。「やあしばらく」「はあ、お兄さん、あんたは悪い人だ。また違う女を連れている」「こいつはそういうんじゃないよ」私は軽く霧奈の紹介をした。主に、部下や家族としての紹介の仕方だった。「へえ、鍛冶士さんですか。その若さでなんとまあ立派だ」「とんでもありません。私はまだまだ修行中の身です」「私はね、釘糸ていしというしがないお面屋です。もし良かったらどうですか、お安くしときますよ」「なら、値下げの代わりにひとつ聞きたい」「はいなんでしょう」私は百円払い、狐から二つ面をもらった。黄色い狐面と、白い女狐めぎつねの面だった。「今、この辺りに蛇がいるらしいな」「おやおや、耳ざといお方だ」狐は私に顔を近づけると、さっと耳打ちした。「蟒蛇うわばみ様のことでしょう」「、か」「あたしらは妖類ですからね、同じ妖類のくらいの高いお方は、敬称をつけるのが習わしです」「そうか、そういうものなんだろうなあ」「そう言えば蟒蛇様は『頭髪亭とうはつてい』に泊まっておいででしたな」「そうなんだ。そして、会ったんだがね」「へい」「殺害予告を受けたよ」「こりゃまた」狐は驚いたように目を丸くしたかと思うと、くっくと笑った。「いやあ、お兄さん、飽きない人だ。どうしてそう騒動に巻き込まれたがるんです」「因縁いんねんなんだ。もう、二年、いや三年も前のことだ。私はちょっとしたことから蛇女と関係を持った。今になって、その清算せいさんせまられている」「はあ、なるほど。蛇は鬼ほど身内の繋がりを表面的には重視しませんが、しかし筋を通さないのが嫌いな種族ですからね」しかる通りだった。蛇の姿を見れば一目いちもく瞭然りょうぜんであろう、なんたって、筋を通すために生まれたような体なのだから。「ところでお兄さん、鈴子すずこには会われましたか」「いや」そう言えば以前、鈴子と会えと言われていたことを思い出した。「是非ぜひ会って行っておくんなさい。あれから一年以上経っていますがね、まだ誰かを待っているようですよ」「いや、しかしなあ」「どうしました」「つい今し方、その蟒蛇から正論を吐かれたばかりだ」「というと」「その気がないなら手を出すんじゃない、と」「ああ、なるほどねえ」狐はしみじみと言ったかと思うと、顔の前で手を振った。「ですが、手を出さなきゃ本当に自分に合うかどうかなんて分かりゃしませんよ。蟒蛇様の言うことはごもっともだが、そりゃ理想論りそうろんってもんです、お兄さん。蛇ってのはね、一途いちずなんですよ。誰かをしつこく付け狙うにしても、誰かを奴隷のように扱うにしても、一途なんです。それも良いかもしれませんがね、あたしゃ自分が傷ついても、お互いを傷付けても、本当に自分が一生愛するに足るのかどうかを見極めるために、手を出すこともまた自然なんじゃないかと思うんですよ」「まあ、狐の意見も一理いちりあるな」「どっちが正しいとか、どっちが間違っているとか、あたしゃね、もう疲れました。当事者同士で納得が行ってりゃあ、それでいいんですよ。周囲がとやかく言うことじゃあないんです」「私もそう思う」「だったらいいじゃありませんか」狐はそう言って、微笑んだ。「時にお嬢さん、あんたは顔が赤すぎる。どうかしましたか」「ひっ、いえ、私はそんな」「色恋いろこい沙汰ざたに抵抗力がないと見えますな」「色恋沙汰など、私のような若輩じゃくはい者にはまだ早すぎますので」「いくつだって変わりはしませんよ、人を愛することに資格などいりません。まして許可だってね」恋愛事情にうとい霧奈は、どうも私と狐の会話を聞いているだけで顔を赤くした様子だった。私の恋愛遍歴へんれき垣間かいまたからだろうか。あるいは色々と、意識してしまうことがあったのかもしれない。

 私は霧奈を一度宿の部屋に戻し、その足で再び温泉街を下ることにした。鈴子という名の少女は、一年ほど前にった娘だった。母親ともども悪質な蛇に隷属れいぞくさせられていて、過酷かこくな幼少期を送っていた。それを私が救ってやったのだ。もう一年も経ったのかという気持ちと、まだ一年しか経っていないのかという気持ちが同居した、不思議な感情だった。

大腿亭だいたいてい』を目指して歩いていた私だったが、しかし『肋骨亭ろっこつてい』という宿の付近で、私はちりんという鈴の音を聞いた。思わず私は左手の手首に巻かれた鈴の紋章もんしょうを見た。これは鈴子との思い出だった。ちりんちりんと音は大きくなり、ついに私は「零士様」という声を聞いた。

「鈴子」

 視線を巡らすと、霧奈と同じか、それより少し年上に見える女がいた。左手首に鈴を巻いていて、女狐めぎつねの面を被っている。それは思い出深い面であった。一年前、私が鈴子にやった面であった。「零士様ですね」「ああ、私だよ」「お久しぶりでございます」鈴子は妙にしっとりとした女になっていた。「鈴子だな」「そうでございます」「しばらくだった」「またえる日を心よりお待ちしておりました」「この辺に住んでいるのか」私はぐるりと視線を巡らす。やはり『大腿亭だいたいてい』までは程遠かった。「ええ。今は『肋骨亭ろっこつてい』で働かせていただいております」「仕事中か」「いえ、今日はお休みでした」「そうか。それも巡り合わせだろう」「巡り合わせですか」「そうだよ。少し散歩でもしようか」「嬉しい」鈴子は私の腕にからみついて、体を寄せ付けた。若い女の発する甘い匂いが私の鼻腔びこうをついた。

「鈴子を迎えに来てくださったのでしょう」「いや、ただの慰安旅行だよ」「なあんだ、がっかり」さほどがっかりしていない様子で、鈴子は言う。「お一人ですか」「いや、娘を連れてきた」「お子様ですか」「いやそうじゃないんだがね、まあ部下みたいなものだ。去年から色々あって、今は刀屋を営んでいるんだ」「まあ。それであまり遠くへは行かれなかったのですね。いついらっしゃるかと、首を長くしていたんですよ」鈴子の独自の解釈を無碍むげにすることもないだろう。私はそれに話を合わせた。「鈴子は、変わりなかったか」「ええ。零士様がいなくなったあと、色々なところでご厄介やっかいになりましたけれど、今は『肋骨亭ろっこつてい』に身を寄せています」「母上は」「半年ほど療養りょうようした後で、すっかり元気になりました。鈴子共々ともども、『肋骨亭ろっこつてい』で働いております。母は今日はお仕事の日ですので」「そうか」私は鈴子に腕を絡め取られたまま、『頭髪亭とうはつてい』の方に向かって歩いていた。なんとなく、『大腿亭だいたいてい』の方へは行きたくない心情が働いていたのだろう。「零士様は今日も『頭髪亭とうはつてい』にお泊まりですか」「知っていたら『肋骨亭ろっこつてい』でも良かったんだがな」「まあ嬉しい。でも、こんなところを見られたら、娘様が嫉妬しっとするんじゃありませんか」「そういう関係じゃないんだよ、私たちは」「向こうはそうは思っていないかもしれません」鈴子はまるで女みたいなことを言うようになった。いや、少女はいつも、女と同じなのかもしれない。「零士様」「なんだ」「一度だけ、鈴子を抱いて下さいませんか」を止め、鈴子は私にしなだれかかりながら言った。「鈴子が若いからでしょう、お宿に来るお客様から、一晩どうかと声を掛けて頂くことが多いのです。けれど鈴子は、零士様のことを忘れられないのです。今もずっと」「それはただのあこがれみたいなものだよ、鈴子」「零士様が、鈴子の恩人だからでしょうか」「そうだ」「それでも良いのです」鈴子は私から離れようとしない。「ねえ零士様、恋愛って難しいですね。私きっと、零士様に抱かれたとして、そのことをいつか本当に愛する人が現れた時に、後悔するかもしれません。でも、零士様に抱かれないまま他の誰かを愛した時、その愛を私は疑うかもしれません。本当は零士様といたかった。だけど、叶わないから他の男を選んだんだって、疑うかもしれません。だからね、一度だけ、抱いてください」「なるほど、疑心ぎしんか」私はそっと、胸に手を当てる。『竹鏡たけかがみ』という忌刀は、懐にあるままだった。「人間はどうして後悔していくのだろうな、鈴子」「何かを後悔していらっしゃるのですか、零士様」「私と関係を持った蛇女がな、死んだのだ」「零士様のせいですか」「かもしれん」「けれど、それを怖れて人と関わらない人生を、私は良いとは思えません」まるで大人みたいなことを言うようになったな、と思ったが、鈴子は既に大人に近い存在だった。あるいは大人なんて生き物は、この世界にはいないのかもしれなかった。「鈴子は後悔することが怖ろしいかい」「ええ。でも、怖がって何もしないでいるのは、生きていないような気がします」「かもしれんな」私は鈴子にみちびかれるまま、鈴子と母親の住む家に向かった。家は『肋骨亭ろっこつてい』のすぐ近くにあり、一年前に見た家に比べて、ひどく立派な平屋ひらやだった。

 私はそこで、鈴子と傷付け合った。

 空虚くうきょを埋めたかったのか、蟒蛇と出会った恐怖心を払いけたかったのか、単純な好奇心こうきしんなのか、生来せいらいの女好きが作用したのかは分からない。しかし、ここしばらく恋愛というものと疎遠そえんであった私は、鈴子を愛してみることにした。私は何も恋愛をばっされているわけではない。今までと同じように、誰か一人の女を愛してみようと思ったのだ。都合が良いと言うと鈴子は傷つくかもしれんが、美しく、可憐かれんで、そしてしんの強く育った鈴子は、恋愛に足る存在だった。思い出深い女でもある。こくな表現だが、彼女を愛せるかもしれないと、一縷いちるの望みに賭けた。

「零士様」鈴子は一糸いっしまとわぬ姿のまま私に抱きついた。「鈴子は幸せです」「私と一緒に暮らしてみるか」私は唐突な発言をした。自分でも、どうしてそんなにいたのかは分からなかった。「よろしいのですか」「家はある」「娘様がご一緒なのでは」「私はあれと恋仲こいなかになるつもりはないのだ」「好みではないのですか」「いや、とても丈夫で、真面目で見所のある娘だよ。ただ、そういうんじゃないんだ」私が言うと、鈴子は少しねたように、私の頬をつまんだ。「痛いよ鈴子」「そんなにその娘様のことが好きなんですね」「だから違うと言っているだろう」「いいえ、きっとそうなんです。はあ」鈴子は怒っているようだった。「せっかくのお誘いですけれど、私はここに残ります」「そうか」「そしてまた、温泉街に来る度に、鈴子を訪ねて下さい。その度に、私をその腕で抱き留めてください」鈴子は着物を着ながら、蕩々とうとうと語る。「ねえ零士様、私、分かってしまいました」「なんだ」「私は、零士様を救って差し上げたいのです」鈴子は不可解なことを言った。「私を零士様が救ってくださったように、今度は私が零士様を救って差し上げたい。けれど、どうも私ではその役目は不十分であるようです」「なんのことだい」「もし、的外れでしたらすみません。でも零士様は、昔、きっと心から愛した方がいらしたのでしょう。そして、その方を超える女性を、見つけられずにいるのではありませんか」

 鈴子は、もう女だった。

 全ての女は、どんなに歳を重ねた男よりも、大人である。

 私は鈴子の言葉に、今の自分の立ち位置を見た。

「心から愛した女を超える女、か」

 そうかもしれない。

 いや、きっとその通りだった。

 数多くの女と関係を持ち、夜を共にし、今度こそはと、彼女こそはと、私は何度も思ったはずだった。しかしその度に、心のどこかで、初恋の相手である春未はるみ幻影げんえいを見ていた。今、私が鈴子を愛そうとちかったのも、あるいは、春未を忘れるための代替品だいたいひんとしての見方ではなかっただろうか。「そうかもしれん」私が言うと、鈴子は私の頭をそっと抱き留めた。「鈴子の言う通りかもしれない。私は、自分を慰めるために、数多くの女と関係を持ち、真実の愛を上塗りしようとしているだけなのかもしれない」妙に、自分が饒舌じょうぜつになっているのが分かった。「もしかすると私は、孤独なのかもしれない。鈴子の言う通りだ。愛した女に先立さきだたれ、どうすることも出来ない。だから、代わりを探しているんだ。なんと残酷なことだろう」「いいのですよ、零士様。鈴子は怒っていません。だから零士様は、誰にでもお優しいのですね」「優しくなどあるはずがない」「私と母を救ってくださいました」「あれは蛇が気に入らなかっただけだ」「そうして、蛇をも救ったのです、零士様は」次第に心が浄化されていくようで、私はとても心地が悪かった。

 家を出て、『頭髪亭とうはつてい』へ向かう道中、鈴子はまた腕を組んでついてきた。しかし途中でさっと手を離した。私が不思議に思い顔を上げると、前方に霧奈が散歩しているのが見えた。「娘様というのは、あのお方でしょう」と鈴子が言った。「何故分かった。どうしてだ。私はあれの外見について何も言っていないぞ」「さあ。女の勘でございます」私はその女の勘というのが世の中で一番苦手だった。物理法則も経験も全てを凌駕りょうがして決定付けるのが女の勘というものだ。そしてそれは往々にしてよく当たる。占い師に女が多いことを考えれば当然の帰結きけつだった。

「あ、零士様」霧奈が私に気付き、駆け寄ってくる。「ああ、この方が先ほど仰っていたお知り合いのお方ですか」霧奈は礼儀正しく鈴子に向かって頭を下げた。「初めまして、鈴子と申します」「こちらこそ初めまして、架島霧奈と申します。零士様がお世話になっております」よく出来た挨拶だったので、私はそれを自分のことのようにほこらしく思った。「それでは零士様、また」鈴子は素っ気なくそう言って、さっと温泉街を下っていく。「もう、よろしかったのですか? 私、もしかして、お邪魔でしたでしょうか」「いや、そんなことはないよ」霧奈は普段通りの髪型をしていた。しかし温泉街の湯気ゆげに当てられているせいか、いつもよりも若干つやっぽく見えた。「そろそろ夕飯の時間だな」「そうですね。自分で準備しないというのもたまには良いものですね」霧奈は嬉しそうに言った。

 もしかしたら私は、対等である関係をこそ望んでいるのだろうか、と考えた。霧奈との関係は果たして対等とは言えなかったが、しかしそれは身分や年齢の問題であり、少なくとも異性間としての立場は、対等であるような気がしていた。少なくとも私が惚れられておらず、私も劣情をもよおさない関係は、対等と言えたのではないだろうか。

頭髪亭とうはつてい』に戻ると、丁度のところで下駄を履いている蟒蛇と会った。着流しや浴衣ではなく、きちんとした黒い着物を着ていた。家紋であろう蛇の紋章が金で塗られている。「おや月島さん、お帰りなさい」「どうも」「これから小生しょうせいは『大腿亭だいたいてい』でうたげです。死んだ大蛇だいじゃとむらいながらね」「そうか。なら、香典こうでんでも送ろうか」「いえ結構。今日はお互い忘れましょう。ただ、宿から帰ったらお気を付け下さいよ、小生しょうせいは一途ですからね」「ああ、聞いたよ」私と蟒蛇は別れ、私は黙々と部屋への廊下を踏んだ。「どなたですか」と霧奈が尋ねる。「蟒蛇だよ」「蟒蛇」「私を殺そうとしているのさ」「危険じゃありませんか」「宿にいる間は殺さぬようだ。まあ信じてみよう」私は懐に忍ばせた『竹鏡』に触れた。「なあ霧奈」「はい」「今更だが、別の部屋を取った方が良いんじゃないか」「何故ですか」「一緒に寝ることになるだろう」「何度か経験がありますから大丈夫です」霧奈はまったく取り合おうとしなかった。「いや、襲われるかもしれんぞ」「蟒蛇にですか」そうだ、と言いたかったが、宿にいる間は殺さぬと自分で言っておきながらそれを撤回するのもおかしな気がした。自分でも、何故急に部屋を分けようと言ったのか、分からなくなってしまった。仕方なく、「いや、私にだ」と思いつきを口にする。「零士様は、私を襲うのですか?」「かもしれん」霧奈はそれに答えぬまま歩いた。そして部屋に帰り、早々に膝をついたかと思うと、私に向かって礼儀正しく言った。「あの、そうですね、私もそういうことをされる覚悟は出来ておりますが、しかしながら、申し訳ないのですが、先に空栖からすさんにお伺いを立ててからでもよろしいでしょうか」と言った。

 それがなんと私を躊躇ちゅうちょさせる言葉であったか。私はすっかり毒気を抜かれたまま、霧奈に一切手を触れることなく、慰安旅行を終わらせることとなった。

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『月島零士の空暦』 福岡辰弥 @oieueo

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