『境界橋の問答』

 刀のことは鍛冶士かじしに聞くのが一番であるが、対妖刀たいようとうとか霊刀れいとうのことは巫女に聞くのが一番であることを私は物心がついた頃からよく知っていた。何故なら私は物心ついた童子どうじの頃から『木哭寺きこくじ』という寺に暮らす木哭空栖からすという巫女みこ馴染なじみがあり、また同じようにその母親である木哭涼梅すずめ殿とも馴染みがあった。やはりこれを私は物心がついた頃から知っているのだが、巫女という生き物は総じて処女であり、男を知らぬ場合がほとんどである。だから当然、母親と言っても涼梅殿は私が若かりし頃からとても若く見え、空栖とは姉妹ほどしか歳が離れていないように見えたものだ。現在はどこぞの男と恋に落ち、純潔を失ったことで、巫女のおきてやぶり、死んだと聞く。巫女は普通の人間とは違うので、当然、葬式そうしきなども行われない。が、彼女には随分と世話になった記憶もあったし、墓参りくらいしても罰は当たらんだろう、と思うようになった。私は涼梅殿の訃報ふほうを聞いてから実に数ヶ月間そのことを失念していたのだが、『竹鏡たけかがみ』という忌刀きとうを手に入れ、そのことを空栖に尋ねるために『木哭寺きこくじ』に向かうついでに、涼梅殿への供物やら、香典こうでんやらを持っていくことにした。それらは全て空栖の手に残るものなので、もはや空栖にくれてやるのと同義ではあるのだが、心情的には、真にとむらいの気持ちだった。

 私は久方ひさかたぶりに『木哭寺きこくじ』へ向かっていた。ついでに、私が営んでいる『新羅戯あららぎ刀剣店とうけんてん』で鍛冶士をしている、架島かじま霧奈きりなという娘も連れてきていた。この娘は元々、巫女の空栖の紹介で預かったものだった。私が『木哭寺きこくじ』へ用を済ませに行くことを伝えると、「ひとりでお店には出たくありませんし、空栖さんにもお会いしたいので、お連れくださいませんか」と言われ、ほいほい連れて行くことにしたのだった。

 私は『木哭寺きこくじ』にある九十九十九段の階段を、霧奈と一緒に、五百段ほど余分に上った。これは普段私がちょろまかしているを精算するためだった。「零士様は普段からこうして、実際の段数より多く階段を上っておられるのですか」事情を知らぬ霧奈は、まるで私を聖人か何かと勘違いしているようだった。「ああそうだよ」と、私はさりげなく言う。「こうして私が多く上ることで、どこぞの腰の弱い老人やらが楽をすることが出来るだろう。そのための措置そちだよ」そう嘘を付け加えることも忘れなかった。「零士様、流石です。素晴らしいお考えです」霧奈は晴れやかな表情で言った。毎日金槌かなづちを振るっているだけあって、霧奈の体力は私の比ではなく、千段以上の階段を上っても、汗一つかいていない様子だった。

 ようやく『木哭寺きこくじ』に到着すると、空栖はやはりいつものように、境内けいだいほうきを手に掃除そうじをしているところだった。私たちに気付くと、「やあ」と、普段通りに手をあげた。「ご無沙汰ぶさたです」と、霧奈は私にするのと比べてやや友好的な、ともすれば友人に対する挨拶に似た態度を取った。それもそのはず、空栖は十五、六歳にしか見えぬ風貌ふうぼうをしていた。十六歳の霧奈がそのような、友人にするような態度を取るのも不思議はなかった。「霧奈、零士に変なことはされていないかい」「とんでもないです。零士様は本当に素晴らしいお方で、最近もですね、」と、霧奈は頼んでもいないのに蕩々とうとうと私の利点りてん列挙れっきょしはじめた。それをふんふんと聞きながら、空栖は如何いかがわしげな視線を私に向けた。私が霧奈をたぶらかしているとでも思っているようだ。心外だったので、私は小銭をいくらか賽銭箱さいせんばこに入れて、さっさと寺の中へと入ってしまうことにした。

「丁度休憩でもしようと思っていたところだ」と、霧奈を連れて空栖がついてくる。「いつもの部屋で良かろう。今日は何の用だ?」「何、ちょっとした調べ物だよ。あとは、涼梅殿の弔いだ」「掟破りの死には、仏壇ぶつだんも墓もないぞ」「それでもたましい所在しょざいくらいはあるだろう」私たち三人は、連れ添って空栖の私室へと向かう。「まあゆっくりして行くといい。今日はなんだ、店は休みか」「定休日はない。今日は臨時休業にした」「気楽でいいな」空栖はうらやましそうに言った。寺には休みがないので、羨むのも当然と言えば当然だった。

 私が持ってきた香典は空栖のふところへ、供物として買って来た菓子の類は、すぐに本日のちゃけになった。茶の準備をする空栖と、それを手伝う霧奈に取り残され、私は一人、私室で待つことにした。その際、懐に忍ばせておいた『竹鏡たけかがみ』を取り出して、刀身とうしんいてみる。やはりこの忌刀きとうとやらは、刀身が竹で出来ているようだった。丁度、霊刀である『龍樹りゅうじゅ』が樹木じゅもくで出来ているのと同じようにだ。なるほどあるいは、しろがねくろがねと比べて、植物にこそ霊的な事象は宿やどりやすいのかもしれなかった。私が目にしたことのある霊刀と言えば、私の刀剣の師匠である新羅戯髑髏どくろが所持していた『天城あまぎ』と、『七朽森しちくちもり』で暮らす乙女が使った『影束かげつか』だけであった。あれらももしやすると、刀身は植物から作られていたかもしれぬ。あるいは、『影束』というだけあって、『』が原料になっているとも限らない。

「おおう、待たせたなあ」軽快な様子で、空栖はふすまの戸を足でがらりと開けた。「さて、一杯やるか」盆の上には菓子や茶の他に、御神酒おみきも乗っていた。巫女が飲むことを許されている唯一の酒類だ。「どうして昼間から酒なんだ」「なんだ、今日は刀研ぎじゃあないんだろう」「それはそうだがな」「なら酔っても構わんだろう。何、一瓶くらいで酔うようなことはない」後ろから、木のうつわに菓子類を詰めて持った霧奈もついてくる。「お待たせ致しました」霧奈はまったくもって礼儀正しい娘だった。何故このような天真爛漫てんしんらんまん自由奔放じゆうほんぽうな女が巫女で、このように礼儀正しく清楚せいそな娘が鍛冶士なのか、世の仕組みというのはなかなかに理解しがたいものがあった。普通逆だろう。

 私と霧奈は茶を、空栖は御神酒を持って、乾杯することになった。「で」と、空栖は問う。「何やら調べ物と言っていたな」「ああ、これなんだが」私は懐から、また『竹鏡たけかがみ』を取り出した。「こいつのことを知りたい」「ふうん」空栖は『竹鏡』を手に取ると、すっと鞘から引き抜く。刀研ぎをしているだけあって、霧奈同様、刀がよく似合う。あるいは、この中で一番刀が似合うかもしれなかった。「妙だな」「何がだ」「対妖刀というわけではなさそうだし、短刀だから霊刀か何かだろうと思ったが、そういうわけでもなさそうだ」流石は巫女である、区別がつくらしい。あるいは見る目があるとでも言うのか。「こいつをどこで見つけた」「新羅戯家の蔵からだ。霧奈が見つけてくれた」「ふうん」空栖は興味深そうにそれを眺めて、鞘に納めた。「知りたい、とは言うが、零士のことだ、大方見当はついているんだろう」と、空栖は御神酒を引っかけながら言う。「まあそうだな。だが、それを説明するには、夢の話をしないといかん」「夢か。他人の夢の話ほど聞くのが億劫おっくうなことはないな」「私も同感だ」「私は零士様の夢のお話でしたら是非お聞きしたいです」と、控えめに霧奈が口を挟む。「それに、私もこの『竹鏡たけかがみ』の何たるかを伺いたいので」「だろうと思って今日は霧奈も連れてきたんだ」私は茶を飲み、菓子をひとつつまんでから、頭の中で先日見た、うるし蜘蛛ぐも予知夢よちむについての話を、空栖と霧奈に語ることになった。

 夢の中の話なので非常に断片的だんぺんてきな説明ではあったが、私はなんとか、『うるし蜘蛛ぐも』と『忌刀きとう』と『境界橋きょうかいばし』についての説明をした。記憶も曖昧な夢の話を全て終える頃には、急須きゅうすの中身は二度も入れ替えられていた。出涸でがらしを出さないところを見るに、ちゃんと客人として扱われてはいるようだった。

「ふむ、忌刀か」話を聞き終えると、空栖はうんうんと頷いた。「霧奈、聞いたことあるか」「私は聞いたことないですけど」と、霧奈は首を振る。「当然、零士もないんだろう」「ああ、初耳だ。刀の種類なんぞ、日本刀、対妖刀、霊刀くらいしか知らん」「まあ読んで字のごとく、まわしい刀のことだよ」空栖はすっくと立ち上がると、私たちにしばらく待っているよう告げて、部屋を出た。「忌まわしい刀と空栖さんは言っていました。零士様がお持ちの霊刀で折った方が良いのではありませんか」霧奈が不安げに問う。「だが夢では懐に持っておけというお告げがあった。予知夢に従うのは世の道理だ」「しかし、刀屋として生活するのに、懐刀をする必要はないのではありませんか」「かもしれんが、私は刀屋ではない側面も持ち合わせているからな」それは何も、退魔師としてだけの一面ではなかった。

 空栖は今度は丁寧に襖を開けると、黒いうるしこしらえられたつやのある鞘を持つ短刀を私に差し出した。「なんだこれは」「これも忌刀のひとつだよ」紫色の紐に、朱色のけがある。「かざがたなのように美しいな」「本来、忌刀とはそういうものだ」「抜いても良いか」「ああ」空栖の了承を得て、私は忌刀を引き抜いた。はがねの白とはまた違う、透き通るように美しい白色の刀身が現れた。「美しいな」「だろう。『白縫しらぬい』というのがその忌刀の名だ」「火を知らぬと書く『不知火しらぬい』か」「いや、しろうと書いて『白縫しらぬい』だ。その刀身は、数多くの『白』が縫われているんだよ」私は少し気味が悪くなり、刀を鞘に仕舞った。

『白』と言えば、すぐに純白や潔白が思い浮かぶだろう。『白』は概念そのものだ。『色』にしてみても、概念そのものが存在としてある。『色』というものは、応用が利く。例えば『白』は別称を『九十九つくも』とも言うが、『付喪神つくも』という言葉があるように、『つくも』という言葉には霊的な作用がある。言葉とは常にそうした作用と共にある。意味のない言葉がないように、言葉には常に意味がある。果たしてその『白』を縫って造られた刀身など、どれほどまでの作用を持つのか。私は妙にそれが気味悪くなった。

「ほう、流石の零士も忌刀の禍々まがまがしさくらいは分かるようだな」と言って、空栖はけたけたと笑った。「その通りだ、忌刀はすなわち、禍々しさだ。その禍々しさを懐に忍ばせると、心は穏やかではなくなる。しかしその分、疑心ぎしんに近くなれる。不安な状況下で、常に自分を守ってくれるものは何か分かるか、零士。それは力や自信なんかじゃない、疑心さ」空栖は含蓄がんちくある言葉をれたあと、すぐに御神酒を口に入れた。「疑心は言い換えれば恐怖心さ。恐怖心があれば、下手は打たない。死を怖れるものだけが、死を感じ取れる。死を怖れないものは、死を知覚せずに死ぬ。意味が分かるか」「分かる」私ははっきりとした口調で言って、右手で『白縫しらぬい』を差し出した。「分かる」もう一度言った。「はは、大丈夫か零士、顔が青ざめているぞ」「毒気を抜かれた」それは事実だった。こんなにも多くの『白』と会って、平気でいられるはずがなかったのだ。「申し訳ありません」と、霧奈がすかさず口を挟む。「私には、空栖さんや零士様の言う、疑心や毒気というものが分かりません」「そりゃあそうだ」と、空栖はまたも楽しそうに言う。「霧奈は若いからな、それに純真だ。例えば霧奈、失って怖いものはあるかい」「失って怖いものですか。そうですね、今の生活でしょうか」「うん。しかし今の生活を失っても、もしかしたら霧奈はその鍛冶の腕で生きていける」「かもしれません」「そして一人で生きて行った先に、また失いたくない生活を得る」「はい」「ところが、私たちのように大人になると」私には空栖は大人には見えなかったが、何も口を挟んだりはしなかった。「失うことよりも、なくなることへの申し訳なさがつのるわけだな」「申し訳なさですか」「例えば私と零士は仲が良いわけだが、どちらかが死んだ時、死んでしまった者への悲しみよりも、残された方の悲しみについて考える」私の感情と一字一句同じことを、空栖は言う。「大人になるに従って増えることは、失って怖いものだと思うかもしれない。家族や、恋人や、子ども。そうした、守りたいものが増えるから臆病になると思うかもしれない。だが案外そうではなくて、大人になるに従って増えるのは、という経験なんだよ、霧奈」私はそのとき、はっきりと、空栖をうやまった。特に、私と空栖と、麻倉あさくら冬籠とうろうという三人のむかし馴染なじみに共通する知り合いである、麻倉春未はるみという女性を失った経験のある私たちは、その恐ろしさを深く知っていた。「失うという経験、ですか」「そうだ。人は死ぬ。だが、人が死ぬ恐怖を知ることが出来るのは、残された方だけだ。死んだ者に、残された者を気遣う余力はない。忌刀とはね、そういうものを思い起こさせるためにあるんだ」なるほど、それはなんとも忌々いまいましい刀だ。それは例えば、決死の覚悟で向かった戦場にて、家族のことを思い起こさせるような恐ろしさだった。

 私は今一度、『竹鏡たけかがみ』を手に取った。すっと鞘を凪ぐと、めいの通り、鏡のようにみがかれた竹の刀身が見える。

「もしかしたら、おきなの竹かもしれんな」と、空栖は言った。「どこで造られたか分からんが、忌刀にしても耐える素材だ、そんじょそこらの竹じゃなかろう」「翁というと、史実のあの翁か」「ああそうだ、伽久夜かぐやの竹だよ」月より伝来したという竹だ。霊樹れいじゅになぞらえるなら、霊竹れいちくと言ったところか。「しかし零士、お前は実に運の悪い男だ。私にこの忌刀の話をしたことで、お前はこの忌刀に、師匠、霧奈、そして私の思い出を植え付けたことになる」「そうなるな」「どういうことでしょうか」と霧奈が問うた。「つまりね霧奈、私が死の危険に晒された時、この忌刀があるおかげで、死にたくないという気持ちになるのだ。この忌刀が懐にあることで、思い出が思い起こされてしまう」私が言うと、霧奈は「良いことではありませんか」と純粋な回答をする。「なりふり構えないというのは、時に億劫なものなんだ」「しかし、心強くもある」空栖が口を挟んだ。「往々おうおうにして、忌刀はめぐり合うものだ。零士、何か決断をせまられているんじゃないか」と、『木哭寺きこくじ』の巫女は何でもお見通しの様子だった。「そうだ」「まあ、『うるし蜘蛛ぐも』もさることながら、『境界橋きょうかいばし』が予知夢に出てくるなら、そういうことなんだろうなあ」「なあ空栖、『境界橋きょうかいばし』ってのは何だ」「そりゃあ、今だよ」空栖は不明瞭ふめいりょうなことを言った。「今?」「そうさ、今まさに、零士は『境界橋きょうかいばし』に立っているんだ」「ここは寺だぞ」「鹿」言い捨てられてしまう。「そういうことを言ってるんじゃあない、もっと概念的な話だ。今の零士は、『境界橋きょうかいばし』という橋の上にいてだな、これを渡ったら、もう戻れないという状況にあるのだ」「決断を迫られてるということか」「そう言っているじゃあないか」空になった御神酒の瓶を振りながら、空栖は言う。「なんぞ心当たりでもあるのか」「まあ、ないことはない」「女か」「ううん、いや、」私は頭を抱えてみる。女が主題かと言うと、そうでもない気もする。が、一概にそうとも言えない。「もしや話が見えていないのは私だけでしょうか」と、心配そうに霧奈が言った。「いや安心しな霧奈、私も見えていない」「空栖さんが一番詳しそうに聞こえましたけれど」「私が知っているのは知識だけだ。零士の身の上に何が起きているのかは知らん」「はあ」霧奈はちょっと安心したように頷いた。「それでは零士様、改めてお伺いしたいのですが、一体何が起きているのでしょうか」

 それに対する答えをどうしたものかと私は考えてみた。あの『うるし蜘蛛ぐも』が言っていた予知を考えるのなら、私は近々、蟒蛇うわばみに居場所を突き止められることだろう。しかしそれは私の都合ではどうにも出来ぬことだ。私が決めなければならないことは何なのか。恐らく、それと戦う覚悟か、逃げる覚悟か、と言ったところだろう。

「恐らく近々ちかぢか、死に直面することになる」私は思ったことをそのまま口にした。「だが退魔師たいましとして、私は悪事を働く妖類は退治せねばならん。それに、悪事云々うんぬんを抜きにしても、自分の命を守らねばならん。他に、守らねばならん店も、霧奈という家族もいる。だから、今までと同じように、命を粗末そまつにして、ちゃらんぽらんと生きるわけには行かん」

「か、家族」

 ぽかんと口を開け、霧奈は放心したかと思うと、あっという間に泣き出した。「女を泣かすなよ」空栖が呆れたように言った。「今のは私のせいではないだろう」「まあ続きを話せ」「まあ、だから、それらのためにだな、私は戦う覚悟を決めねばならんわけだ」「なるほどな」空栖は霧奈の頭を撫でながら、溜息をついた。「いつだ」「分からん。が、近いうちだろう」「しばらく霧奈は預かっておいた方が良いかもしれんな」「いやです」泣きながら、霧奈は言う。「私は零士様のおそばにおります」「なあ零士」呆れっぱなしの顔で空栖が私をにらむ。「どうしてお前はこう女に好かれる」「知らん」「私はお前を良い男だと思ったことは一度もないぞ」「そいつは奇遇きぐうだな」「純な女は危険な男にかれるものなのかねえ」困ったように、空栖は霧奈を抱き留めた。「分かったよ、霧奈にはまじないをかけておいてやろう。巻き添えを食らって死ぬんじゃないよ」「なんだそのまじないとやらは。私にもかけてくれ」「本人には効かんよ。巻き添えを食らわんための呪いだからな」

 私は『竹鏡たけかがみ』をもう一度見つめる。確かに言われてみると、普通の刀のようにずっしりとした重さはなく、持ち運びやすそうだった。それが忌刀としての役割なのかもしれない。私は『竹鏡たけかがみ』を懐にそっと仕舞う。「なあ零士、『境界橋きょうかいばし』を超える覚悟は出来たのか」「もしその橋が、戦う覚悟であるなら、超える」「そうか、気張きばれよ」空栖は笑って言う。「何かあったら私か冬籠を頼れ。大いなる決断なのだから、戦争になるかもしれん。いくら対妖刀を持つ退魔師とは言え、死ぬ時は死ぬからな」縁起えんぎでもないことを言っている気もしたが、ありがたい忠告ちゅうこくだった。「そのときは遠慮なく頼る」「そうしてくれ」「で、霧奈にかけるまじないとやらはどれくらいかかる」「すぐに終わるさ。茶でも飲んでいろ」「そうだな」私は何に感激しているのか、いまだにのどを引きずって泣いている霧奈をぼけっと見ながら、茶を飲んでいた。そしてふと気になることを見つけ、空栖に尋ねる。

「そう言えば、この『白縫しらぬい』は誰の忌刀だ」

「ああ、母上だよ」

「涼梅殿か」

「巫女は各々おのおの、それぞれの忌刀を持つ」

「なんのために」

「男とちぎらぬためさ」

「ああ」

 男と交わったために死ぬことになった涼梅殿は、きっとこの忌刀を懐に忍ばせておかなかったのだろう。もし肌身離さず忌刀を持っていたのなら、空栖のことを思い出し、死ぬことを思いとどまったかもしれなかった。それが出来なかったのは、意志の弱さか、あるいは巡り合わせだったのだろうか。

「お前も忌刀を持っているのか」私が尋ねると、空栖は巫女装束の胸のところを叩いた。「無論持っている」「どれちょっと見せてくれ」「それは出来んな」「何故だ」「一度でも肌から離してみろ、それでは忌刀の意味がない」まったくその通りだと思った。私は今後一切、『竹鏡たけかがみ』を肌から離さない決意を固める。もし忌刀が思い出や疑心だというのなら、それを手放すなど、骨頂こっちょうだった。

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