『邪黒廃屋の執念』

 死蔵しくら幸女ゆきめという女からふみが届いた。当然その文はによって送られてきたものだった。私はその幸女という女を知らなかった。死蔵という姓にも聞き覚えはない。その上奇妙きみょうだったのは、この文が『新羅戯あららぎ刀剣店とうけんてん』に送られてきたものではなく、私、つまり月島つきしま零士れいしという人間個人にてて送られてきたものだということだった。無論、そうした内容の文が届いたところで、普通は不思議ではない。私は今でこそ刀屋の店主として暮らしているが、元々は退魔師たいましであり、その仕事は今も続けているからだ。だが、死蔵からの文には退魔の用件は書かれていなかった。書かれていたのはただ一行、『蛇黒じゃこく廃屋はいおくにいらしてくださいませ』というものだった。

 この頃の私は商いが順調になってきていた。というのも、新たな従業員をやとったせいであった。元々は私の太刀筋の師匠である、新羅戯髑髏どくろという男が残した店に住み着き、そっくり残っていた刀を売るだけの生活をしていた。しかしながら、私のむかし馴染なじみであり、『木哭寺きこくじ』という寺で巫女みこをしている木哭空栖からすは、巫女の顔とは別にかたなぎとしての一面も持ち合わせており、その繋がりで、つい最近、一人のかたな鍛冶かじを紹介されることとなったのだ。これは珍しいことに、むすめであった。もっとも、数十年前に『新羅戯刀剣店』に刀をおろしていたのは篠橋しのばしあきらという名の女鍛冶士であったため、女の叩いた刀を売るのはこの店の伝統でんとうと言えたかもしれぬ。ともかく私はその娘を迎え入れた。架島かじま霧奈きりなという名の女で、この女は刀剣に対してかなりの情熱を持っていた。歳は十六で、あまりに刀剣のことにしか気が向いていないので、私は異性として意識することを早々にやめていた。そこには、空栖に「決して手を出すな」と言われていることも少なからず影響していたが、それ以上に、彼女の真摯しんしな姿勢に感銘かんめいを受けたのだ。しかし、それ故に霧奈に対して必要以上に情を持つこととなった。私は『新羅戯刀剣店』にあるいくつかの部屋のうち、私の自室と店先以外を霧奈にくれてやった。そして、大金をはたいてそこに鍛冶場かじばこしらえた。そこで思う存分刀を作らせることにした。材料費も私が提供した。そして出来上がった刀は私の店に並ぶ。霧奈は少々刀に傾倒しがちだったが、それでも義理ぎりがたく、また礼儀をわきまえている良い娘だった。私の身の回りの世話を進んでやったし、鍛冶に気が乗らない時は客呼びなどをして店を繁盛させた。俗に言う看板娘というやつだ。そのせいで、普段は虫も殺さぬような中年男が刃物を買いに来る始末となり、店は繁盛した。「零士様には足を向けて寝られませんから」と言いながらも寝相の悪さで常に私に足を向けて寝るところを除けば、まことに良い娘だった。

「霧奈、ちょっといいかい」店が一段落したところで、鍛冶場に顔を出した。霧奈は極度に短いはかまに白足袋たびを身に付け、胸にはさらしを巻いて、長い髪の毛を頭の後ろで一つに縛った状態だった。鍛冶をする時は霧奈はいつもこの状態だった。普段の私なら目のやり場に困るか凝視するかの二択だが、霧奈に至っては、人前ではその恰好はしないように、という老婆心ろうばしん芽生めばえさせるだけだった。「はい、零士様」「ああ、すまん、作業中か。あとでいいよ」「いえ、もう片付けているところですから」「じゃあしばらく待とう」私は柱に寄りかかって、その作業を眺めた。空栖のする刀研ぎは、基本的に和紙しか使わない。あれは対妖刀たいようとうと呼ばれる特殊な刀に対するだからだ。一方で、霧奈の鍛冶は物理的だった。鉄鎚てっついくろがねをひたすらに鍛える。水に差して冷やし、また鍛える。に入れてき、また鍛える。その繰り返しである。それは普段、もっと物理現象を超越した、曖昧あいまい模糊もこで区別の付かぬ生活をしている私にとっては、興味深かった。「すみません、お待たせしました」「いや、構わんよ。店先においで」「はい」と言って霧奈はついてこようとする。「ああいや、着替えてから来るんだ」「私はこのままでも構いませんが」「構う。露出が多い」霧奈はしばし理解出来ずにぼけっとしていたが、やがてへそ鎖骨さこつを二本の手で隠し、自室へと向かって行った。辛うじて恥じらう乙女心は持ち合わせていたようだった。私は店先に戻り、煙管きせるに火を落とす。穏便おんびんな生活が板についてきたという実感があった。

「お待たせいたしました」

 霧奈は相変わらず丈の短い服装を好んだ。他人からの見てくれよりも、自身の動きやすさを重視しているようだ。まだ十分に露出が多いようにも思えたが、目をつむることにした。「まあ座りなさい」「失礼いたします」「作業は順調かい」「零士様のおかげ様で順調でございます」「それは良かった」「あの」おずおずと、霧奈は私を上目使いで見る。女の本能だろうか。他の男の前でそんな目使いをしていないかとやきもきした。「不躾ぶしつけですが、私の刀、売れ行きがよろしくないのでしょうか」「は」私は間の抜けた声を出した。「何を言っている」「零士様が面と向かってお話をするなど、きっとそのようなことであろうと思いまして。申し訳ございません。こんなに優遇ゆうぐうしていただいているのに、満足いただける刀もつくれないなどと。鍛冶士失格でございます」「いやそういうわけではないんだが」彼女の欠点は私に足を向けて眠ることの他に、この極度の自己評価の低さがあった。彼女のこしらえる刀は実際、全く素晴らしい出来で、この刀の売れ行きが良いものだから、私は霧奈に好き放題させていた。中でも小刀こがたなを造らせるとこれがよく売れる。『匕霧あいぎり』と銘を付けた小刀は、本来は懐刀ふところがたなとしての用途を見込んで売り始めたのだが、なんの拍子ひょうしにか、主婦層で鹿として噂が出回り、包丁として定着した。値をつり上げても売れるので、今では週に一振ひとふり造らせていた。多少なり、刀を包丁として使われることに嫌な気はしないのかとそれとなくただしたことがあるが、霧奈は「使い方は使用者にゆだねるべきですので」と正しい言葉を吐くだけだった。「まあなんだ」私は記憶を辿たどり話を元に戻す。「霧奈の刀には私も客も満足している。それに関して、いらぬ心配はしなくて良い」「左様でございますか。ありがとうございます」土下座の寸前というくらいの勢いで、霧奈は頭を下げた。「しかし、それでは一体お話というのは」「久しく文が届いてな」「文ですか」「それが呼び出しのようなのだ」霧奈は私が退魔師であるのを知っていた。「そうでございましたか」「どうも調べたところ、呼び出された場所がちと遠くてな」「それは」「西の方だ。鳥居坂とりいざかを知っているか」「はい。常世とこよ狭間はざまとを繋ぐ坂でございますね」「うむ。それよりもう少し手前側にある、蛇黒じゃこく廃屋はいおくという長屋ながやがあるんだが、そこから呼び出しがあった」「それはそれは」「なので、その間、そうだな、五日ほど店を開けるから、お前が代わりに管理をしていてくれ」「はい。はい、えっ」一度頭を下げたあと、不思議そうに霧奈は私を見上げた。「管理ですか」「店に出ずっぱりになってすまないと思うが、五日間、刀売りの仕事に専念せんねんしてくれ。何か問題があったら、五月雨さみだれ薬局やっきょくにいる麻倉あさくら冬籠とうろうという男を訪ねるといい。空栖とも知り合いであるから、きっと力になってくれるだろう」「あの」「大丈夫だ安心しろ。霧奈、お前には十分に店を一人で任せられる。お前は刀鍛治として一流だが、同時に、商人あきんどとしてのさいもある」「いえ私は」「安心しろ」「ですが」「お前は大丈夫だ。今回のことで少しは自信をつけるといい」「その」「刀屋なんて一日に一本も売れなくたって不思議じゃないんだ。五日間一本も売れなくても責めはせん。安心しろ。なんなら店主は工房にいると書き置きしておいてもいい。頼んだぞ」「はいぃ」最後には観念かんねんしたように、霧奈は言葉を振り絞った。この一件で自信がつけば良いと思い、私は久しく、地に足の着いた刀屋から、一介いっかい流浪るろうにんとして、依頼先へ出向くことにした。


 ◇◆◇


蛇黒じゃこく廃屋はいおく』という場所を私は詳しく知らなかったが、どうやら過去にさかえた長屋の跡地であるようだった。跡地と言ってもまだそこに住んでいる者は多く、そこは人類じんるい妖類ようるい霊類れいるいが混ざって暮らしているようだった。

 どうやら外観は、私が以前に傷心旅行で出向いた『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』で行った場所に似ていた。しかしながら実態じったいとしては、温泉街自体は活気かっきあふれた良い場所であったのだが、その下方かほうにあった、性乱の限りを尽くしたような場所によく似ていた。あの辺に地名があったかどうかはついぞ聞いていなかったが、確か『大腿亭だいたいてい』という宿の周辺であったようだった。それはすなわち、性の部位を意味していた。そういう意味では、この『蛇黒じゃこく廃屋はいおく』もそれと似たようなものと言えるだろう。蛇は過半数が性に対して積極的であり、また欲求に素直である。私が今まで相手どってきた蛇と言えば、処女喰らいの大蛇と、つい先ほど思い出した、恐らくこれも巡り合わせだろうが、『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』で母子ぼしに乱暴を働いていた蛇、そして私に付きまとった過去のある蛇女の三種類だった。大蛇と蛇は殺してしまったが、蛇女は殺せなかったので、悪魔に対処してもらった過去がある。蛇は普通、殺してしまった方が良い。蛇は奇妙な存在で、やはり元は人間であるから、殺すのが少々心苦しい。一方で、殺さなければならない。改心する蛇という生き物はいない。蛇は改心しないから蛇である。舌が二股ふたまたに分かれているのもそのような理由からだ。人間の舌は一枚だから、それを考えれば自ずと分かる。だがしかし、私は蛇と言えど女を殺せなかった。まったく最近の私の生活の起点は、蛇女に惚れられたことから始まっていると言えたかもしれない。蛇女に惚れられ、それから逃げるうちとある教会に逃げ込んで、そこで出会った修道女と恋をし、死別し、その傷心旅行として向かった先の『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』で、また別の蛇と会った。蛇女というより、という概念がいねんからみつかれているのかもしれない。まあそれは私の罪だ。蛇を殺せなかった人間が蛇にまとわり付かれるのは自然の摂理せつりだろう。だが蛇女は、西洋の悪魔がどうにかしてくれていたはずだった。それでもやはり『蛇黒じゃこく廃屋はいおく』という名前に、私は蛇女のを意識せずにはいられなかった。

 廃屋とは言え生き物が住み、長屋のようにしていくつもの一軒家が横に並んでいた。私はその中でも中心にあると思われた、比較的大きな屋敷の戸を叩いた。この『蛇黒じゃこく廃屋はいおく』は、もしかしたらこの屋敷から左右に伸びて行ったのかもしれない。末端になればなるほど、家の造りは粗末だった。「はい」中から出て来たのは、普通の人間の男だった。しかしこの一帯では、この男は裕福な層なのだろう。比較する他が貧困を極めているからだ。「失礼。私は月島つきしま零士れいしと申します」「はあ」「死蔵しくら幸女ゆきめという人物から文が届きまして、ここへ来るように言われたのですが、生憎と家に表札が掛かっておりませんね。ですから、ここらで一番大きい屋敷で、そこに住んでる顔の利きそうなお宅を伺いました」多少なり自尊心と自負があるらしく、男は少々得意そうだった。「私は飛角ひかくというんだが、確かにこの死蔵って名前は知っているね」「それはありがたい。是非教えていただきたい」「もちろんそいつは構わんよ。ただね、幸女って名前は知らんのだ」「というと」「いやね、死蔵って家は、この蛇黒廃屋でもにいる男でね。そいつはもう終わりの一族だったんだ。死蔵ってのはね、名前で分かる通り縁起えんぎが悪いだろう。縁起が悪けりゃ嫁は取れん。そうすりゃ一族は続かない。挙げ句、死蔵姓は終わりを告げることになったんだ。確か末端まったん小屋ごやに住んでるはずだよ」「末端小屋」「読んで字のごとくさ。こっちからね、北の方にいって、一番端にある家さ。そこに、死蔵終蔵しゅうぞうって男が住んでる。もうしばらく見てないが、生きてるはずだ」「その男は何を」「仕事かい。あいつの仕事はやみばらいだよ」飛角はそれから、久しぶりの客人である私を引き留めようとしたが、妙な胸騒ぎの中、私は断りを入れて、蛇黒廃屋を北へ向けて歩き出した。

 死蔵という姓も、終蔵という名も聞いたことはないが、闇払いに関しては私は多少なりの知恵があった。退魔師と似たような性質の職業であるが、決定的に違うのは、それが対象にするものだった。私のような退魔師は、対妖刀たいようとうもちいて妖類をほふる。他に、対霊杖たいれいじょうなどを用いて霊類を屠る者もいる。要するに、武具を使って殺すのだ。しかしながら闇払いは、ちた場所を洗う。例えば私の体には無数のじゅつやらじんやら紋章やらがあるが、そうしたものを洗い流すのも闇払いの仕事だった。彼らはほとんど殺生せっしょうをしない。純粋な力量で言えば退魔師とほぼ変わらないが、けがれをはらうことにのみ熱心になる。私は文に書かれていた死蔵幸女という人物よりも、死蔵終蔵という闇払いに興味を持ち始めていた。

 北へ向かい、そこで私は長屋の集団から一つだけ孤立した小屋を見つけた。そこがまさに、死蔵終蔵の家だった。引き戸には元々は硝子がらすがはめ込まれていたのだろうが、もう見る影もない。かわらは七割ほどしか残っておらず、壁は朽ち果てていた。戸を叩くこともはばかられ、私は外から「」と少し大きな声を上げた。しばらくして、「どなたさんだ」と声があった。「月島零士と申します」「ああ」戸ががらりと開いて、人相にんそうの悪い男が現れた。眼球は白濁はくだくしていて、どこを見ているか分からない。「まあ入れや」足下あしもとを見たが、履き物は一切なかった。室内は外界と同様かそれ以上に、汚れ切っている。私が躊躇ちゅうちょしていると、死蔵は「土足どそくで構わん」と言った。畳は汚れきっていた。しかし、死蔵自体はあまり汚れている風はない。私がそのまま家を上がる。玄関から続く申し訳程度の廊下と、かわやがあった。そして六畳ほどの部屋がある。ここは他の場所と比べて清潔だった。いっそ、別空間と言っても良かった。万年床まんねんどこが敷かれている。「そこで下足を脱いでくんな」死蔵は部屋に入るなりそう言った。部屋に入ることに躊躇ためらいはなかったので、私は履いてきていたブーツを脱いだ。

 死蔵は布団の上にあぐらをかいた。「ここは洗ってあるからよ」闇払いから発されるという言葉は、一切の穢れなき浄化された空間という意味だった。そこではいかなる現象も起こらず、ただ物理現象にのみ乗っ取られる。「失礼します」「あんた、月島と言ったなあ」「月島零士です」つい先ほど名乗った名前をもう一度口にする。「どんな用件だい」「死蔵幸女という名に覚えはありますか」「ああ。あれは俺の女房さ」死蔵は白濁した眼球で、恐らく私を見ているようだった。「つい最近に結婚したのさ」「結婚ですか」「ああ。そして死んだ」「死んだ」私は部屋を見回す。「詳しく話していただけませんか」「ちょいと辛い話だ」死蔵は懐から煙草の箱を取り出した。外来製品だった。

 ある日、死蔵終蔵が家先で煙草を飲んでいると、一人の女が通りかかった。その女はろくな衣類を身に着けておらず、布を一枚腰に巻き付けていただけだったそうだ。死蔵は闇払いとしてのめいを受けた時から、異性を異性として認識することをやめていた。だからといって、全人類を平等に扱うつもりもなかった。「おい女」死蔵はその女を呼びとめた。あまりにみすぼらしく、死蔵自身よりもまずしそうに見えた。「はい」「お前はどうしてそんなにみすぼらしい」死蔵が尋ねると、女は「私は元は人間をめた身だったのです。しかしゆえあって、また人間に戻りました。ですから何も持っていないのです」「そうか。男物でよければ服くらいめぐんでやろう」死蔵はその女を家に上げた。そして服を着せて、飯を恵んでやった。その女は器用な女で、飯を作ることも、衣類にぎを当てることも出来た。死蔵はそれを気に入り、女をしばらく家に置くことにした。

 女は元は妖類ようるいであった。ある理由で人間を辞め、妖類として生きていた。しかしそれをばっされ、もう一度人間として生きることを決めた。しかし、一度ちた人間が真人間に戻るのはそう簡単なものではない。女は体一つ、それ以外に何も持たなかったのだ。財産を失い、大半の記憶も失い、名前も失った。「どうしてそこまでして人間に戻りたがった」死蔵が訪ねると、「愛した男がいたのです」「そいつの名は」「」「どんなやつだ」「分からないのです。ただ、とても愛していました。しかし私は一度人間を堕ちた身。人間の男を誘惑し、子を身籠みごもろうともしましたが、それを受け入れてもらえるはずはありません。その男に罪はありません。真人間の道を外れた私が悪かったのです。だから、もう一度真人間として改めようと思ったのです。彼に釣り合うために」「そんなに良い男だったのか」「分かりません。けれど愛してしまいました」死蔵は少し、その女を不憫ふびんに思った。しかし死蔵はその摂理を知っている。名前のせいで一族を滅びさせることとなった死蔵は、世の不条理ふじょうりと、その正しさを知っていた。

「私を嫌な男だと思いますか」

 話の途中で私が尋ねると、

「いや、それが普通だ。恨みはしない」

 と、死蔵は答えた。

 死蔵と女はしばらく生活を共にした。女は、死蔵が闇払いであることを知らなかった。しかししばらく生活を共にするうちに、どうやら普通の人間とは違うことに気付いたらしい。「終蔵様は何をされていらっしゃるのですか」女の問いかけに、死蔵は素直に「闇払いだ」と答えた。「であれば、私の罪を浄化出来るのですか」「いや、俺が洗えるのは、場所だけだ」「そうですか」「お前は誰に罰を受けた」「悪魔です」「悪魔か。西洋の鎖札くさりふだのようなものだな。そいつは穏やかじゃねえな」「私が悪いのです。恋に盲目もうもくになり、人間を付け回しました。悪さをしたら罰されるのは当然です」それは女の本心であるようで、闇払いの死蔵としても、女の心が確かに浄化されつつあるのを理解していたようだった。

 死蔵はその女を受け入れ始めた。恋や愛というものとは違うが、人間としてただ受け入れることを決めた。「なあ、俺の嫁にならねえか」共に暮らし始めて季節が二つまわった頃、死蔵は女に言った。女はそれを受け入れることにした。名前しか覚えていない私にもう一度会うことは難しいと考えたことに加え、そもそも死蔵終蔵という男に、すでかれていたからだった。「こんな女でよろしいのですか」「ああ。ただ、俺の姓は死蔵という。縁起が悪い。それだけはよく考えてくれ」「私には名前がありません」女は死蔵の手をぎゅっと握った。「ですから、今日からと名乗ります。死蔵の人間は皆、これから幸せな名前をつけて行けば良いのです。そうすれば、姓の縁起の悪さなど打ち消してしまえましょう」死蔵と女は結ばれ、夫婦になった。その日に、死蔵幸女は誕生した。

「彼女は今どこに」

 話を聞き終え、私が尋ねると、死蔵は一言、「死んだよ」と言った。「だが、気にむな。お前さんとは関係がねえことだ。ただのやまいさ。こんな悪い環境で暮らしていて、それでいてただの人間なら、死んじまうのも不思議はねえ」「ああ、つまり、この部屋が妙に綺麗なのは」「病にした幸女のために洗ったんだが、まああまり効果はなかった。定命ていめいだったんだろう。寿命とはまた違う、命の終わりのり方だ」死蔵は再び煙草を新しく口にくわえた。「病床びょうしょうせってから、幸女が文を出したいと言ってな。あんたにびたかったんだそうだ。出した文の相手がもしここに来たら、このことを話して欲しいと言われた」「そうでしたか」「お前さん、幸女に覚えはあるのかい」きっと覚えがあった。恐らく彼女は、私を追い回していただろう。教会で悪魔に処分を頼んだあと、蛇女は人間界から追放されることを嫌い、蛇女を辞めることを選んだのだ。それを、私と釣り合う女になるために、だと言っていた。それは私をなんと罪深くさせるための所業だったのだろう。「幸女さんは、元は蛇女でした」「そうか」全てをさとったように、死蔵は頷いた。「蛇女と結婚しようなんて人間はいねえ。だから、お前さんは悪くはねえ。幸女は俺と夫婦になって幸せになった。だから、お前さんは何も深く考える必要はねえ」「はい」その理不尽りふじんの正しさを私は分かっていた。人間には釣り合いがある。金持ちと貧民の結婚が周囲から受け入れられぬのと同様、不細工と美人の結婚が周囲から受け入れられぬのと同様、また、人間と蛇の結婚は受け入れがたい。つい最近、そんな摂理せつりを、狐たちから学んだばかりだった。

「お前さん、仕事は」死蔵の問いに、「退魔師です」と答えた。「俺と似たようなもんだな」「はい」「それを聞いてまた不思議が増えた。退魔師なのに、どうして幸女を殺さなかった」「女は殺せないのです」「情があったからじゃないのか」果たしてどっちだったのだろう。情があったから殺せなかったのか。それとも、女だから殺せなかったのか。「分かりません」「しばらく考えろ」死蔵は私に煙草を投げた。もっぱら煙管を噴かしている私には、あまり馴染みのないものだった。火傷しそうな短さだ。「吸え」命令され、口に咥えると、死蔵が先端に火をともした。「俺はまた一人だ」「そうみたいですね」「一人でいるのは辛くなかった。元から人間は一人だ。だけどどうしてだろうな、一度誰かを手に入れると、そいつが胸に住みつく。そいつと離れると、ぽっかり穴が開く。最初から持ってなかったもんがなくなっただけなのに、生きているのが辛くなる」「でもあなたはこれからも生きるのですよね」「そう、俺は生きるんだ。幸女は言った、死蔵姓を途絶えさせることないようにとな。勝手を言いやがる。覚えきれねえほど、幸せそうな名前を考えて死んで行きやがった。くだらねえ」

 私は、同じ妖類とは言え、家柄と種族の違いを乗り越えて駆け落ちした、妖狐と化け猫を思い出していた。あの二匹の覚悟というのは、私たち人間を上回っていたのだろうか。蛇女、つまり幸女の覚悟も、また人間の愛を上回っていたのだろうか。

「また、新しい女を愛せると思いますか」それは春未を失った私と同じ境遇にいる死蔵に対して、残酷なまでの質問であることを理解した上での問い掛けだった。死蔵は一度頷いてから、煙草を一本吸い終えるまで黙っていた。そしてぽつりと、「お前も誰か死なせたのか」「随分ずいぶんと昔に」「なら、俺より先達せんだつだな。逆に問うよ。新しい女を愛せそうか」「愛してみようと、今、思いました」「それはどうしてだ」「私がふらふらとしていることで、幸女さんを人間に再びおとしめ、死なせることになったのでしょう。ならば、これからは一人の女を愛して、それを生涯しょうがいつらぬくべきなのではないか、と思ったのです」「そうかもしれねえ」死蔵はまた新しい煙草を放った。私はそれを拾い上げて、口に咥える。清い、洗われた部屋に、紫煙しえんが立ち込める。愛した女を失った男二人の、ただよどんだ空間だった。お互い、人間と異なる異質のものに対して働きかける職業であった。それ故に、この物理法則だけしか存在しない洗われた部屋の中では、ひどく呼吸がしづらく、恐らくそれは、死蔵も同じであっただろう。

「今日は泊まっていっても良いですか」

 この、物理法則以外何も起きない部屋の居心地を気に入って、私はそう言った。

「好きにしろ」

 死蔵はそう言ってから、ふと思い立ったように、こう言った。

「その代わり、煙草と酒を買ってこい。そうしたら、幸女の昔話を聞かせてくれ」

 私はこころよく頷いた。自分と同じ境遇の人間というものに、そう言えば私は久しく会っていなかった。そして死蔵終蔵との出会いは、私にとって、強い転機てんきと成り得た。

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