『酒月の夜』

 闇夜やみよ酒月さかづきが出たので、今宵こよいは酒を飲む夜だった。こういう日は決まって人が集まる。私は刀屋を早々に閉めた。営業時間など決めていなかったから、いつ閉めても私の自由だった。私は酒屋に向かった。酒月の出る夜は、酒が飛ぶように売れる。あんじょう酒屋の前には人がむらがっていた。人に限らず、妖類も数種見られた。「おおい、日本酒だ」私が声を上げると、売り子の一人が手を挙げる。「日本酒はこちらでございます」大した盛況ぶりだった。私は一升瓶いっしょうびんを二本買って、銭をあらかたぶちまける。一度家に戻り、酒を置くと、今度は乾物かんぶつ屋へ向かう。こちらも大した盛況ぶりだった。「おや新羅戯あららぎのご主人」店主が人の良い笑顔を浮かべた。「今夜は良い酒月ですねえ」「ああそうだな。烏賊いか腸詰ちょうづめだ」「へいかしこまりました」ここは独自に腸詰を作成していた。外来種だがこれが美味うまい。「確かに。釣りはいらんからな」私は少し多めに銭をぶちまける。気が大きくなるのは酒月の良いところだ。「こいつはすいません」害のない笑顔は心が清くなるようだった。

 準備を整えたあと、私は煙管きせるかしていた。大抵の場合において、酒盛りの舞台は私の家になることが多い。戸を叩く音がしたので「いるぞ」と答えると、戸ががらりと開いて、『木哭寺きこくじ』という寺で巫女みこをしている、私のむかし馴染なじみである木哭空栖からすがやってきた。「外を見たか」「ああ。酒月だ」「一杯やろう」空栖は背中に風呂敷ふろしきを抱えていた。「それは何だ」と尋ねると、空栖は家に上がって、風呂敷を広げた。中には御神酒おみきが恐ろしい量はいっていた。それにつまみがいくつもあった。「巫女は酒が飲めんからな」空栖は嬉々ききとして御神酒の瓶を畳の上に並べる。「冬籠とうろうはどうした」「まだ来ない。来るか分からん」「来るさ」そう決まっているだろうとでも言うようだった。そして案の定、また戸を叩く音があった。「冬籠だ」空栖は足取り軽く戸を開ける。『五月雨さみだれ薬局やっきょく』という薬屋をいとなむ、私の友人で昔馴染みの冬籠という男が、大きな瓶を抱えて待っていた。それは瓶というより、もはやかめつぼに近い。「どうだ、自家製のまむし酒だ」からからと冬籠が笑う。「入るぞ」「ああ」「さて飲みの夜だ」一番嬉しそうなのは空栖だった。

 私と空栖と冬籠は、幼い頃に同じ学舎がくしゃで学んだ同級だった。当時はそれ以外にも何人か仲間がいたのだが、この歳になっても同じようにつるんでいるのはこの三人だけだった。空栖は母親の跡を継いで『木哭寺きこくじ』を管理している。冬籠は学舎を出たあと、薬師くすしの元で数年修行をし、その後『五月雨さみだれ薬局やっきょく』を継いだ。私はと言えば、様々な職業を経たあと、太刀筋たちすじの師匠である新羅戯髑髏どくろから『新羅戯あららぎ刀剣とうけんてん』という刀屋を継いでいた。この店をいつまで続けるかは決めていないが、今のところ安定した稼ぎをたもっているので、続けている。「冬籠に会うのは一年以上ぶりじゃないか」空栖が言う。「そうだったか。まあ、俺は外に出ないからな」「私も薬には縁がないからな」空栖は御神酒の蓋を開け、そのまま瓶で手に持つ。私と冬籠は、まずは日本酒をさかずきに開けた。「では乾杯と行こう」音頭おんどは空栖が取った。どこかから音楽が聞こえてきた。酒月の夜は、誰でも陽気になる。

「お前たち、そろそろ身を固めたらどうだ」と、空栖が言った。「私は巫女だから、結婚は出来ん。だがお前たちはただの男だろう。嫁を持て」「酒を飲んで結婚の話をするとは、まるで老人のようだ」冬籠が呆れたように言う。「俺にはお前が童子わっぱにしか見えんから、どうにも調子が狂う」「だから心配しとるんだがな」空栖は溜息をついた。「零士はどうだ」「さて。恋愛にはいつも真面目なつもりなんだがね」「女を泣かせるばかりではなくたまには喜ばせてやったらどうだ」「いつもよろこばせてはやってるんだ」「巫女の前でそういう口を利くな」空栖から烏賊の乾物が飛んできた。胸に当たったそれを拾い上げて、私はしばらく噛んでいた。このようなくだらないやりとりを、もう何年も続けている。

「もつ煮が食いたいなぁ」空栖はふらっと立ち上がり、ふらふらと部屋を出た。勝手へ行ったようだった。「おい零士、もつ煮が食べたいぞ。もつはあるか」「ない」「もつ煮が食べたいなぁ」「あったとして、今から煮ても大した味にはならんだろう」「どうしても食べたい」「買ってくれば良いだろう」「巫女は金がない」「鬱陶うっとうしい女だなこいつは」私は立ち上がり、金庫を開けて、札を何枚か取り出した。「そう言われると私も食べたくなった。買ってきてくれ」「わかった」空栖は若干酔いが回ってきているようだった。巫女なだけあって酒に耐性たいせいがない。耐性がないくせに好き物だから始末が悪い。一人で買い物に行かせるのは不安があったが、襲われる心配はないだろう。巫女であるし、今宵こよいは酒月であった。「大丈夫か」と冬籠が言う。「大丈夫だろう、酒月の夜なんだから」「そうじゃなく、あいつに一人で使いなんて出来るのか。まだ子どもだぞ」「何を言ってるんだ。同い年だぞ」「ああ、そうか、そうだった。つい忘れるな」冬籠はくっくと笑う。

 冬籠がけた蝮酒をすくって猪口ちょこそそいだ。「自家製なのか」「薬膳酒やくぜんしゅつくるついでにな、試してみたんだ。安心しろ、野生の蝮だ」よく見ると、蛇本体の他に、卵も入っていた。どろどろにかっていて、完全にふやけている。口を付けると、刺激が舌の上に広がった。「おお、こいつはな」「だろう。俺にもくれ」二人で酒を飲みながら、ただただ乾物を口にする。「ところで空栖が言ったことだが、お前、嫁を取る気はないのか」と、冬籠は自分のことを棚に上げて老人のようなことを言う。「ないな」「お前もこうして店を構えるようになったんだ。嫁を取っても不自由はさせんだろう」「そう言えばお前に言っていないことがあった」「なんだ」「以前は狐騒動で、話す機会がなくてな」「だからなんだ」「私には息子がいるらしい」冬籠は蝮酒を盛大に口から噴き出した。乾物と障子しょうじが使い物にならなくなる。「馬鹿か」冬籠が言う。「お前は馬鹿だ」二度目だった。私はもう一度冬籠の猪口に蝮酒を注いだ。「いやすまん」「冗談ならまだいいが」「もう五歳は過ぎているはずだ」もう一度冬籠は酒を噴き出した。今度は私の顔面に浴びせられた。「鹿」冬籠は少し大きな声で言った。何も言い返せる立場ではないので、叱責しっせきを甘んじて受けることにした。

「もつ煮だぞおう」空栖は取っ手のついた寸胴ずんどうを持って帰ってきた。わんで買ってくると思っていたのに、鍋ごと買ってきたらしい。「おおう、濡れてるなあ」何がおかしいのか、空栖はけらけらと笑っていた。「おい空栖、聞いたか」冬籠が寸胴を奪い取って、それを座布団の上に置く。私は椀と箸をそれぞれ持ってきた。冬籠から私に子どもがいるという説明を聞いたあと、空栖は腕を組み目を閉じうんうんと頷いたあとで、「まあ、新しい命が生まれたんだから、良しとせにゃあな」と、意外にも含蓄がんちくのある言葉をれた。そのあとで、「しかし、妻に取らぬというなら、援助えんじょはしてやらないといかんな」と、もっともらしいことを言った。「で、そいつはどこの女だ」冬籠が言うので、「以前お前から聞いた、『幽除ゆうじょかね』のある場所だ。『夢川原ゆめがわら』だよ」と答える。「ああ、それもめぐり合わせか」「その幽除の鐘は、どうも私の息子の母が建てたものらしいぞ」「お前の息子の母とは、つまりお前の妻か」「いや、どうだろうな」「認知するつもりがないのか」「どちらでも良いんだが、向こうは向こうで今は食事処を構えているようだしな。それに、『剪定宮せんていぐう』という宿の店主が、祖父代わりのようなことをしているようなのだ。その輪を今さら壊すのも気が引ける」「子は、それを知っているのか」「知らんようだ。その店主から、まだ言うなと口止めされているしな」「まあ、まあ。とにかく新しい生命の誕生を祝おう」既にもつ煮は取り分けられていて、「さあ乾杯をしよう」という空栖の音頭に、二度目の乾杯をした。空栖はもう容量の限界近くに来ている気がしたが、本人は止める気がないようだ。

 一升瓶を二本空にして、私と冬籠は蝮酒はちびちびと飲み進めていた。「生きることは楽しいか」冬籠が尋ねた。空栖はもうほとんど酔っていて、にやけながらうつらうつらとしていた。「考えたことがないな」「こんな日には、俺は考える。生きることは楽しいのかどうか」「そりゃあ、今こうして酒を飲んで、美味いもんを食っているのは楽しい」「それでいいのかもしれんな」冬籠はしみじみと言う。「姉が死んでからというもの、俺の人生は奈落ならく一途いっとだ。しかし、お前とつるんでいるのはたまに楽しいと思える。以前の狐騒動も、まあそこそこ楽しかった。こんな夜のために、わざわざ酒を漬けることもある。お前が知らぬ、俺個人にだけ起こる不思議な出来事もいくつかある。それでいいのかもしれん。明日のことも考えずに、ただなんとか生きていく人生も、悪くはないかもしれん」冬籠は空栖の、まだ半分ほど残っている御神酒のうち一本を開けて、一気に飲み干した。「がらにないことを言った」「いや、そんなことはない。立派だ。お前はなぁ、冬籠、素晴らしい考え方だと思うぞお」酔いどれの巫女は軽く手を叩きながら言った。「立派な男に成長したなあ」「零士、そろそろ布団を敷いてやれ」「そうだな」「いやっ、私はまだまだ飲むぞお。もつ煮も食べる」「明日また続きをしよう」そうする気はなかったが、空栖にはとてもこの手がよく通じた。「明日か。今日じゃなくてか」「そうだ。それか、一刻いっこくほど寝るといい。酒月が沈む前に起きたら、また続きを飲もう」「私が寝ている間、零士も冬籠も、ちゃんと起きていてくれるか」「ああ、もちろん。そうだな、冬籠」「当たり前じゃないか」冬籠は力強く頷いた。「分かった。なら、寝る」「ああ。寝ろ」私にとっては十四、五にしか見えず、冬籠にとっては五歳ほどの童子にしか見えぬ空栖だ。酒を飲んで眠そうにしていると、どうも寝かしつけてやろうという気になった。

「お前はいまだに、色んな女と関係を持っているようだ」私たちはぬるい蝮酒を飲みながら、こちらもぬるくなったもつ煮をつまんでいた。「そうだな」「俺は別に、お前の女癖の悪さを、うらやましいとも思わんし、ねたましいとも思わん」「そうか」「ただ、たまに考える。もしが生きていたら、俺たちの人生はどうだったかと」冬籠は、、と呼ぶのをやめていた。「姉さんがお前とそのまま結ばれていたかもしれん」「春未はるみが生きていたら、きっとそうなったろう」「俺もそう思う。お前と姉さんの恋は本当だったと思うし、今でもそう願っている」「私もそうありたい」「だがもう生きていない。だというのに、俺もお前も、必要以上に姉さんの幻影げんえいしばられていやしないか」「果たしてそうだろうか」「俺は少なくとも、姉さん以上の女性を知らん」「それは」私はふっと考えをよぎらせる。幾人いくにんか、もしかしたら春未の素晴らしさを超えるかと思える女性と出会ったような気もした。それでも私は、いつも春未を最終的に考えてしまう。私の左手薬指には、桜の輪がってあった。それは春未を思い出すためのまじないだった。「そうだな、私ももしかしたら、知らんかもしれん」「いっそ姉さんとお前が夫婦になっていれば、俺もふんぎりがついたかもしれん」私はその闇に触れることを今まで良しとしていなかった。冬籠から話さぬ限り、その秘部に触れないようにしていた。冬籠の、春未への愛は、きっと姉弟の関係を超えていたのだ。むしろ、私よりもさらに尊い純愛だったかもしれない。「お前は今も、自身の姉が好きなのか」「ああ、そうさ」冬籠は言う。「だから今でも死にたくなるのさ。そして俺はずっと、目薬を差そうとしない。そういうことさ」冬籠は今でも、春未の幽霊を見る。それを抑える目薬を差さぬのは、愛故であるのだ。

「失われたものと、誰かのものになったものでは、ふんぎりの付き方が違う」冬籠は言った。「姉さんは、失われた」「そうだな」「誰のものにもならずだ」「ああ」春未は純潔じゅんけつを保ったままこの世を去った。だから誰のものでもない。「なあ、飲みながら、夜道を歩かないか」私はからになった御神酒の瓶に蝮酒を詰めて、それを持って立ち上がる。「どこへ行く」「霊園れいえんへ行こう。春未にも酒月の分け前をやろう」「なるほど。確かにそうだな。姉さんは酒の良さを知らんままった」「そうして、手を合わせよう。墓参りの予行演習だ」「だが、空栖を置いていくとねるぞ」「なら、背負って行こう」「よし、俺がやるよ」冬籠は寝ている空栖を背負った。確かに、五歳の童子に見えている冬籠の方が、空栖を背負うには適していただろう。

 春未が埋められているのは、『滅奇めっき霊園れいえん』という墓所だった。そこにはやはり、酒月の夜だけあって、何人もが墓参りに来ていた。人魂ひとだまや、陽炎かげろうや、青火あおびがそこらじゅうでともっていて、暗くはなかった。麻倉家の墓を見つけ、私は蝮酒を墓にかけた。「私は春未が死んだ時、他の女と幸せになるように言われた。自分のことは忘れろと」「らしいな」「本心だったと思うか」「姉さんはそういう人だ」「そうだな」全ての酒をかけて、手を合わせる。「ん、まだ夜か」空栖が言う。「どこだここは」「滅奇霊園だよ」「そうか。春未さんの墓か」「酒をな」「降ろせ。私も手を合わせる」空栖はひょっと冬籠から降りて、墓の前にひざまずき、じっとまいった。春未と空栖は仲が良かった。空栖にとっては、掛け替えのない人間の一人なのだ。私や冬籠がそうするのと同じように、春未のことを想っている。むしろ、実の弟である冬籠が春未を姉として見ていなかったとするなら、空栖はこの世界で唯一、春未を姉としたっていた人物かもしれない。

「さて、帰って続きをしよう」空栖が言う。多少酔いが覚めているようだった。「しかし酒はもうほとんど終わっているぞ」「なんだ、御神酒はどうした」「お前が寝たあと、ほとんど飲んだよ」「そんなら帰り道に買って行けば良かろう」空栖は冬籠の腕を引き、「酒屋まで頼むぞ」と言いながら、また背中に乗った。「このまま木哭寺まで連れて行ってやろうか」「いや冬籠、それはやめておけ」「どうしてだ」「お前があの階段を上る頃には、酒月が終わるぞ」「何を言ってるんだ。あそこの階段は、たったの千段ぽっちだろう」「いや」私はついに、この罪を白状しなければならないことを悟った。「実は、そうだな。お前には黙っていたんだが、すまない。あそこを上るのが疲れるもんだから、実は一万段ほど、お前に貸しをつけている」「鹿」「すまん」「まあ、少しずつ返済するんだな」「ああ」私と冬籠は、とぼとぼと歩く。酒月はいつ出るか分からない。しかしながら、酒月が出た日は、誰しもが陽気になる。もう深夜だというのに、町には灯りが絶えない。すれ違う時に、酒の小瓶を、たまに店に来る親父から受け取った。私は封を開けて、空を見ながらあおった。美しい酒月だった。

 もし本当に私が春未を愛していたのなら、

 春未も私を愛してくれていたなら、

 最期の願いくらいは聞いてやるべきなんじゃないか。

 それを真面目な頭で、私は考えるようになった。

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