『妖狐の愛』

 手負ておいの妖狐ようこ背負せおい、林の中を疾走しっそうしていた。妖狐は死にかけていた。後ろに、めすねこがついてきている。半妖はんようたぐいであって、それだけに体力は多かった。「ついてきているか」「はい」切羽せっぱつまった口調だった。元運び屋であったことが幸いして、最短の地理には人並み以上に精通せいつうしていた。転がるように林のがけを流れ、地上に降り立った。そのまま友人でありむかし馴染なじみである麻倉あさくら冬籠とうろうという男の家に転がり込んだ。そこは『五月雨さみだれ薬局やっきょく』という薬屋だった。「冬籠、いるか」私が大声を出すと、奥の戸が開いて、冬籠が姿を見せた。「おう」冬籠は私と、二匹の半妖の姿を見て、一瞬口を閉じた。しかしすぐに「中にれろ」とぼそりと言った。「暖簾のれんを下げておいてくれ」私に指示を出したので、私は化け猫に妖狐を預けて、暖簾を下げ、玄関を施錠せじょうした。少なくとも、あやかしたちは私と冬籠の関係性を知らぬことだろう。しばらくは姿が隠せると、私はひとまず安堵あんどすることが出来た。


 ◇◆◇


 ことの起こりは明け方だった。狐のれが私の店に押しかけて来た。私は諸事情あって、現在は刀屋をいとなんでいた。先代の店主である新羅戯あららぎ髑髏どくろという男は客をごのみしない性質だったので、その精神を受け継ぎ、狐が来ようと私は拒絶きょぜつするつもりはなかった。「なあ店主、一月ひとつきほど前に、狐が刀ァ買いに」声でおどす類の連中であるようだった。私は煙管きせるかしながら、「知らんなぁ」とのんびりと言った。「私はついこの間店をいだばかりで、まだあまり馴染なじんでいないんだ」「なら、先代はいねえのか」「生憎あいにく行方ゆくえをくらましていてね。生きているかも分からん」「なら、帳簿ちょうぼあらためたい」「そりゃ個人情報ってやつだ。断る」「ここらで刀屋つったら」狐は大声を出した。連中は三匹だった。刀屋の利点は、対妖刀たいようとうをすぐわきに置いていても危険視されないところにある。私はすぐにでも刀を抜いて、狐を殺そうかとも思ったが、狐には義理があった。『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』で私は面屋の露店の店主に助けてもらったのだ。そもそも退魔師たいましとして生活している頃は対妖刀にて妖類ようるいほふっていたために、徒手空拳としゅくうけんで殺すと殺人になることを忘れていたのだ。もしあの面屋の店主の機転がなければ、今頃私は牢屋ろうやで暮らしていたことだろう。だから私はぐっとこらえる。情は決して私だけのために作用するのではない。同じ種族全体に関わるものだ。狐に助けてもらった私は、この無礼ぶれいな狐たちに対しても、精一杯の対応を心掛けた。

「待て」

 私の声に、狐たちが足を止める。

「お前は狐と言ったから知らんと言ったが、半妖はんようなら見た。妖狐ようこだ」

「おおそうだ」頭の悪そうな狐は、機嫌を直し、ぽんと手を叩いた。「そうか、お前、見分けが付くか」

「狐と妖狐違いくらいはすぐに分かるさ」

「なら、知っているんだな」

「ああ。確か五万で、刀を、いや、ちょっと待て」私は帳簿をひっくり返す。「名前までは分からんが、妖狐が五万円の刀を買ったな。めい衆祁しゅうぎだ。これで満足か」

「やっぱりそうだったか」

「五万てえとそこそこか」

なまくらってわけでもなさそうだ」

 狐たちが店先でこんこんと群れているのを、煙管を噴かしながらぼんやりと眺めた。「それで、用が済んだらどいてくれるか。邪魔で仕方がない」

「いや店主、先ほどは声をあらげてすまなかったな。我々の見分けがつくとは、あんた、人間にしては見どころがある」

「そいつはどうも」順応性が高いところは、私としても、狐にしては見どころがある、と言いたいところだった。「それで、他に何か聞きたいことは」私が言うと、一番話の分かりそうな狐が言った。「それなんですがね」


 ◇◆◇


「この傷薬を嫌というほどぶっかけろ」

 冬籠は化け猫に向かって、盛大に傷薬を投げた。大小さまざまなもので、容器も瓶やら缶やらたくさんあった。化け猫は感謝と謝罪の言葉を次々に口にしながら、それを妖狐の体に塗りたくった。私たちのいる場所は囲炉裏いろりの間だった。普段冬籠が使っているらしい布団の上には妖狐が寝かされ、それに覆いかぶさる勢いで化け猫が看病かんびょうにあたっていた。私は戸のすぐ前にいて、冬籠はよっと私の隣に腰かけた。

「また面倒事を背負い込んだな、零士」あきれたように、冬籠は言う。「これでお前の尻をぬぐうのは何度目だと思う」「薬代は払う」「そういう問題じゃあねえんだぜ」まあしかし、と冬籠は言って、二人を眺めた。「あいつら、駆け落ちか」「ああ」私は傷の手当も手伝わずに、二匹の半妖をながめながら、冬籠に事の顛末てんまつを語らなければならなかった。そのために、便宜上べんぎじょう、二匹の名を説明した。妖狐の雄は、九福このふく、化け猫の雌は竜胆りんどうという名だった。半妖はせいを持たないため、それが名前の全てだった。


 ◇◆◇


「ほう、婚約こんやく破棄はきね」

 狐の連中が言うには、この店で刀を買って行った妖狐には許嫁いいなずけがいたという。それも結婚を間近まぢかひかえていた。その話を聞いてすぐに、私はつい数週間前にあった曇天どんてんを思い出した。五日間も続いた曇天である。これはやはり伝統でんとう通りに妖狐の嫁入りが行われたのだ。しかしその時に婿むことなるべき妖狐が逃げ出したため、大騒ぎとなった。そして依然いぜん婿となるべきだった妖狐は逃走中であった。手負いとなった妖狐はどこから手に入れたのかそれなりに斬れる刀を持っていた。妖狐は人間とはえんがないから、逃げるにしても逃げ込む先がない。妖類の中で、おにと狐と河童かっぱはかなりの勢力を持っている。そんな狐が探し回っているのだから、逃走中の妖狐をかくまうような愚かな妖類はいない。今はしらみつぶしに、関係のありそうな人間を調査しているということだった。

「それで私のところに来たわけだ」私は話をひととおり理解してから、そう言った。「ええ、ですんで、旦那のところに戻ってきやしなかったかと」話をしているうちに私が退魔師だということが判明したからか、狐は急に下手したてに出るようになった。「もちろん、分からんのでしたらそれで結構でございます。私どもも、が刀を買っただけの客をかくまうなんてことがあり得ないことは、分かっておりますので」私は紫煙しえんをぽっかりとくゆらせる。「そうお前さんの中で結論が出るんなら話は早い。どうすりゃいいかは分かるだろう」「へい、このまま回れ右で、外へ」「ついでに何か買って行くか」「他にも回らなきゃならねえところがありますんで、すいませんが」「これからどちらへ行く」「今、通りをじゅんりに回っておりますんで、次は烏屋とりやへ。その次は水飴みずあめ屋へ行こうかと」「南だな」「へい」「大変そうだな。これであぶらげでも買うといい」会計用のざるから小銭をつかんで、狐連中に投げてやる。「詳しい話を聞けて良かった」「いいんですか旦那」「どうやら血祭ちまつり沙汰ざたになったのは、うちの先代が刀を売ったせいらしい。迷惑料だ。それで足りるか」「そんな滅相めっそうもございませんが、すいません、ありがたく」「気にするな」豪気ごうき商人あきんどを演出し、狐連中が店を出て、完全に気配が消えたのを確認したあと、私は住居の中に入った。そこには、深手ふかでを負った妖狐と、息を殺している化け猫の姿があった。私はそれを出来るだけ迅速じんそくに、人目につかぬように、冬籠のところへ運びこむ必要があった。


 ◇◆◇


「なるほど、お人好しだ」

 冬籠の評価には反論出来なかった。冬籠の薬は良く効くらしく、九福の呼吸は落ち着いていた。私も実際のところ、彼からの詳しい話はほとんど聞いていない。口が利けなかったのだから仕方がないだろう。「それにしても妖類にも利く薬があるんだな」と私が言うと、「怪我人に区別はない」と冬籠は言った。私は、『狂夜堂きょうやどう』で聞いた、ひとあやかしれいも元は同じだという言説を思い出していた。

 竜胆は、九福の呼吸が落ち着いたことでほっとしたのか、ようやく私たちに顔を向けた。私はさほど化け猫に対して積極的な男ではなかったが、しんのあるをした雌であることは分かった。そうした眼は嫌いではなかった。「おい化け猫」冬籠はぶっきらぼうに言う。「金の心配はいらんぞ、この男が払う。だから礼もいらん。俺はあきないをしただけだ」「それはそうだがもうちょっと言い方があるだろう」冬籠は明らかにこの状況を楽しんでいた。元々、退屈を極めている男だ。刺激が足りず、困惑していたところだったのだろう。生命を賭けた面倒事など、こいつの好きそうな事柄である。大人しいくせに、どうにもやんちゃの抜けない性格をしている。「何から何まですみません」竜胆は言った。「お礼は必ず致しますので」「そんなものはいらんと言ったろう。それより面白そうだ、事の顛末を語ってもらおう」冬籠が言うと、竜胆はすっと九福を見たが、観念したように頭を下げた。「駆け落ちなのです」「それは聞いた。何故そうなったかだ」「話せば長くなるのですが」「構わんぞ、傷がえるまで時間がかかるだろうからな」私はもはや喋らずに、耳を傾けることに集中した。竜胆の言葉を理解し、記憶することに一切の神経を集めることにしたのだ。


 ◇◆◇


「頑張ろうね」

 なけなしの金で、九福は『新羅戯刀剣店』にて、『衆祁しゅうぎ』という名の刀を買った。何日も掛けて刀を選んだ。妖狐にも扱えるもので、とにかく斬れ味が良く、軽いものが良かった。だが一番は、『衆祁』という銘が気に入った。これから駆け落ちをしようとする二匹にとって、と韻を踏む刀は縁起が良い。店主の親父は客を選り好みしなかった。九福は竜胆の言葉に、「ああ。きっとだ」と答えた。「これで俺も」覚悟は決まっていた。無論、元から血祭沙汰にするつもりはなかった。これは覚悟だ。お守りのようなものだった。「数日したら曇天が来る」店の外で、九福は竜胆に言った。「そうしたら、嫁入りだ。家から鳥居坂まで行って、狭間までお披露目をしにいく。五日かけて鳥居坂まで行ったら、それから四日間祝言しゅうげんげて、最終日にちぎりをわす。俺はそこで抜け出して、戻ってくる。そうしたら山奥で暮らそう」ずっとり上げていた計画の内容をまんで復唱ふくしょうした。竜胆もそれに頷いた。「うん。私、待ってるから」竜胆はたもとから小さな小判こばんを取り出した。現在では流通りゅうつうしていない、妖具ようぐとしての小判だった。「これ、お守り」「お守りか」まじまじと小判を見つめながら、九福が言う。「絶対に戻ってくるからな」「うん、待ってる」二匹は刀屋の前で愛を語り、そして別れた。


 ◇◆◇


「そもそも家柄いえがらが分からん」

 冬籠の言い方に、竜胆は少しだけ驚いたようだった。「すみません」と謝って、「九福さんは、八神やがみ様の御子息ごしそくで。八神様というのは、狐族の中でも有数の権力者で、九福様はその三男さんなんに当たります」と言った。「相手はどうだ」「こちらは六尾むつび様のところのご息女そくじょ幻美まほみ様で、八神様と六尾様のご家族が縁者になるということで、それは盛大なお嫁入りになることでした」竜胆は言いながら、言葉を少しずつにごしていった。客観的に見て、自分が悪いことをしているという自覚はあったのだろう。「まあ大体話は分かった。狐連中が血眼ちまなこになって探しているのも無理はない」「そうでございます」竜胆はまた息を吐いた。「ですが、どうにもこうにも。止められないのです」「そりゃあそうだ」冬籠が言う。「理性で止められるんなら、そんなもんは恋じゃあない」いいことを言うじゃないか、と、二人の話を聞きながら思った。「そんじゃあ続きを話してくれ。語り手がお前さんなんだから、次に会ったのは隠れ家だろう」


 ◇◆◇


「竜胆っ」

 山奥の隠れ家で二人は落ち合った。竜胆は一人、孤独な十日間を過ごしていた。駆け落ちすることを決めてから、竜胆は実家を捨てていた。隠れ家は、狐族の中でも変わり者とされている者に協力して用意してもらったものだった。神通力じんつうりきを持つ狐で、人里に降りて暮らす、良家りょうけの出身である狐だった。狐族の前時代的な風習を嫌っていたために、今回の駆け落ちを協力してくれたのだった。

「九福」

 二匹は落ち合ってすぐに抱き合った。ここでずっと暮らすというわけではない。一時的にこちらで身を隠し、しばらく後に神隠しにう予定だった。神隠しは神が起こすものであるが、神通力を持つ者でも起こすことが出来る。それらは一介いっかいの狐ではどうにも出来ぬ事象であった。神隠しさえ成功すれば、二匹は狐たちからの追及ついきゅうを逃れることが出来るはずであった。


 ◇◆◇


「ところで今も追手はあるのか」

 冬籠が疑問を口にした。私は「まだ数匹で追っているらしいぞ」と答える。竜胆の顔が青ざめた。「武器を持っていたのでしょうか」「いや、武器は持っていなかった。そもそも狐は武器を重んじないだろう。代々として、まじないの種族だ」それは妖類を知る上での常識だった。鬼はちからの種族、狐はまじないの種族、河童はかずの種族だ。だからもともと、武器による好戦というものを好まない。結果として武器の扱いにうとく、また武器による攻撃に弱かった。「知らんかったな」私の説明を聞いて、冬籠が言った。「じゃあ何故この妖狐は刀なんぞ買ったんだ。妖狐ということは、半人はんじん半妖はんようだろうが、体躯たいく的に刀に適しているようには思わんが」「それは、」竜胆が言いかけた時、布団の中の九福が動いた。「九福っ」「ああ、目が覚めた。俺から話すよ。それはですね、薬師くすしさん」九福が口を開いた。「俺は人と狐の子ですが、母は人と鬼の子なんですよ」「なるほど、再混血クォーターか。これは珍しいな」冬籠は素直に驚いた。私も驚いていた。

 話を聞いた限りでは、九福の父である八神という狐は、これは純血の狐だろう。しかしながら、往々おうおうにして権力者はめかけを持つ。その妾のうちの一人が、人間だったのだろう。しかしその人間はただの人間ではなく、鬼との混血ハーフだったのだ。「四分の一を鬼と人、半分を狐の血でまかなっているわけだ」私が言うと、九福はずっと上半身を起こして、壁に身を預けた。「薬師さんに刀屋さん、ずいぶん世話になりましたね」面構えは立派だった。性格にも男気があるんだろうが、とにかくつらが良い狐だった。六尾というところの幻美という狐の娘も、竜胆も、色男にれるのは仕方がない。もっとも、私は生憎あいにくとそうした修羅場とは縁がなかったので、苦悩は理解出来なかった。「助けてくだすったことにはお礼を言います。しかしこれ以上迷惑は掛けられない。俺たちは会わなきゃならねえ狐がいるんで」「馬鹿が、一晩ひとばんは安静にしていろ」冬籠が冷めた声で言った。「会わなきゃいけねえ狐がいるんならお前が動かず、ここに連れてこい。猫娘、お前がだ」「私がですか」「無茶を言わんでください薬師さん」「無茶はどっちだ。お前らをかくまうのも、俺を面倒事に巻き込むのも構わんが、一度俺の薬を使ったら、治るまでは死んでも動かさんぞ」冬籠は私には一度も言ったことのない出任でまかせを言う。どうせ、この面倒事を最後まで見届けたいだけだ。「狐の居所の目星はついてるのか」「分かりません。ですが、今日落ち合う手筈てはずになっているんです」「はあ」冬籠は馬鹿にしたような声を出した。「だっていうのにどうして斬られたりしたんだ」「落ち合う手筈になっていたからですよ」九福は痛みに耐えながら、語り出した。


 ◇◆◇


釘糸ていし様だ」

 戸を叩く音に気付き、九福は隠れ家の戸を開けた。

 瞬間、血飛沫ちしぶきう。

「九福っ」竜胆の必至な声が飛ぶ。「大丈夫だ」後ろに飛び退いた九福は、立て掛けてあった『衆祁しゅうぎ』を拾い上げる。斬り付けられたのは左腕さわんだったようだ。利き腕でないことが幸いした。さやを捨てるようにして抜き取る。「畜生ちくしょうめっ」九福は片腕で『衆祁しゅうぎ』を振った。四分の一とは言え、鬼の子である。九福の太刀筋たちすじは、的確に追手の狐の腕をった。とどろく悲鳴。そのまま狐の腹部を蹴り飛ばす。「」傷ついた左手を伸ばし、竜胆の手を引くと、九福はそのまま走り出した。右手に刀を携え、左手で恋人を連れ去った。しかしまじないの種族である狐たちの情報伝達でんたつは早く、たちまち九福の居場所は周囲に伝わり、近くにいた狐たちがその場に集った。「そこをどかんかっ」九福は刀を振り乱す。鬼の子と言えど、手負いの上に、集団には弱い。まして今は守らねばならぬ者もいた。九福は逃走の最中で二匹を殺し、三匹に傷を負わせた。鬼の子は力の強さが異質である。また狐の狡賢ずるがしこさも持ち合わせていた。しかしながら、複数匹を同時に相手にし、無傷でいるわけにはいかない。竜胆を守る際に幾度いくどとなく傷つき、追手を落ち着かせる頃には、手負いの獣となり果てていた。

「九福、私が担ぐから」

「馬鹿を言うな、お前にそんな力はない」

「それじゃあ、誰か呼んでくる」

「待て、一匹になると危険だ」

「でも、じゃあ、

 追手を巻き、さあどうすると呼吸を整えていたところに、足音がした。力を振り絞り、刀を構える九福だった。何匹だ。足音を聞くに一匹だ。しかし一匹に居場所を知られれば、他の全てがやってくる。先手必勝だ。柄を握りしめ、好機を待った。そして九福は、陰影いんえいを頼りに、足音に向けて突きを放つ。

「おお」そんな間の抜けた声がしたと思うと、九福は腹部に激痛を感じた。突き出した刀、伸びきった腕は何の感触も得ず、どころか腹部には人体の肘が繰り出されていた。確認すると、前にいたのは人間だった。見覚えがある。いつぞかに刀屋で見た顔だった。「おや」不審そうな人間の声。「ふむ」肘を抜くと、九福はその場に倒れた。「これは早計そうけいだったな」そう言って人間は手を引く。「おや、どこかで見た顔だ」そして人間は九福を担いだ。「娘、お前はその刀を持ってついてきてくれ。何か事情がありそうだ。ひとまずうちで匿おう。急ぐぞ」


 ◇◆◇


「お前がとどめを刺したんじゃあないか」と冬籠が言う。「なるほど、お人好しなわけではなく、単に責任を取っているだけというわけか」「いや、もし仮にとどめを刺していなかったとしても、私は無勢の味方をする」「だろうな。まあようやく、話が繋がってきたな。それで今はうちに来ているとこういうわけだ」冬籠はうんうんと頷いていた。そして「なら、そろそろ追手がうちに来るんじゃないか」と呟いた。手負いの獣が薬を求めるのは当然の帰結きけつだろう。「私もそう思っていたところだ」と私は言った。「そんじゃあそろそろ帰らねえと」と、またも九福は無茶を言う。「駄目だよ、九福、大人しくしていないと」と、健気な竜胆が言う。どうにもこうにも、まとめ役がいない。「どうもこの狐は俺たちを信用していないようだな。ということはだ、零士。こいつらには話が通じていないようだぞ」「何の話がだ」「お前が退魔師たいましということを、この獣らは知らんのだろう」「私は先ほど聞きました」と竜胆が言う。だから多少なり落ち着いていたのだろう。反して九福はいくらか驚いた様子だったが、また精悍せいかんな顔を作り、「いくら退魔師と言ったって、そんなお方をやとう金はないですよ。刀を買うのに全部つぎ込んだ」と言う。「狐は意外と金がないんだな」「通貨が違いますからね」もっともだ、と私は思った。

「ごめんくだせえ」

 都合の良い狐たちだった。「しっ」と冬籠が指を立てる。「どうする」「やりすごそう」私の提案に、九福は首を振った。「傷は癒えた。戦わねえと」「すぐに傷が癒えるか馬鹿」「鬼の体は治りが早いんでね」「まあそうだが」冬籠は困ったように言う。言い返さないところを見ると、事実なのだろう。「だが、無理して戦う必要もなかろう」私の言い分に、九福は「それもそうなんだが」とこちらも前置きをした上で、「してるのは性分しょうぶんに合わねえし、何よりこれは、放っておけば釘糸様に降りかかるかもしれねえ火の粉なんだ。数の少ねえうちに叩いておきてえ」と言った。一見筋が通っているようには思える。「ごめんくだせえ」また声がした。「仕方ない、私が出るよ」膝に手を置いて立ち上がる。「店は壊すなよ」冬籠はただそう言うだけだった。

 店先に出ると、先ほど見た三匹の狐だった。「おや」私が言うと、三匹はさっと顔を見合わせた。「あれ、新羅戯の旦那」「店はそうだが、私の名前は月島つきしまだ」「そいつは失礼しました。一体全体、どうしてこちらに?」「ああ、ここは私の友人の店なんだ。昔馴染みが薬師をしていてな」「へえ、そいつはとんだ偶然で」「そうだな。私も驚いているところだ」「ところで旦那、不躾ぶしつけな質問で恐縮きょうしゅくなんですがね」「なんだ」「半妖の血は、流れてしばらくすると透明になる、なんてことを知っておいででしたか」私は押し黙った。「閲血えっけつの連中が狭間から降りてきましてね。調べたところ、どうも血が足跡のように垂れておりました。それを辿って、ここに着いた次第でして」「なるほど。表に出よう」しかし私はそれを後悔することになった。『五月雨さみだれ薬局やっきょく』の前には、二十匹はくだらない数の狐がひしめいていた。

「月島の旦那、俺たちは鬼とは違う。無害な人間に危害を加えるつもりはねえ」どうにも話の分かる狐だった。「それに見た所、旦那は丸腰だ。いくら退魔師でも、武器がなけりゃあどうにもならないでしょう」その上、なんとも物分りの良い狐だった。「お前さんの言う通りだ」「それに、妖狐を匿ったって旦那たちにうまみはねえはずだ。肩入れして狐族を敵に回すこたあないでしょう。幸い旦那は何もしていねえ。無関係ってことにしやしょう。九福様におどされたってことにして、処理しましょうや」「なるほどそれは良さそうだ」まったく私はあの妖狐とも化け猫とも無関係である。狐を敵に回すのは面倒だ。それに狐族には個別に恩義おんぎがある。九福に対して個別の恩義があるなら戦う義理もあるだろうが、私が恩義を持つのは、『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』の面屋の店主だけだ。であれば、筋が通っている方に肩入れするのが、筋だろう。筋だが。筋ではあるのだが。「しかし、頭では分かっているが、どうにもそれがすんなり受け入れられん自分がいる」「そいつはまたどうして」「うむ、最近、自分の嫌と思うことはするべきではない、という教訓を得たことがあってな」「狐を敵に回すとおっしゃっているわけですか」狐は後ろを振り返る。やはり二十はくだらない狐がいた。「旦那、あっしらも余裕がねえ。九福様を連れて帰らねえと大目玉おおめだまだ」「九福を連れ帰ったら、そのあとどうなる」「へえ、幻美さまとご結婚です」「そこに愛はあるのか」「そりゃあ分かりません」「その女は何をしてる」「お屋敷で九福様のお帰りをお待ちしております」「なるほどな」私は腹を決めた。待ち受ける愛は、情熱の愛情とは程遠い。私は愛の奴隷だ。ならば、手下を遣わして呑気に結婚相手が来るのを魚のように口を開いて待っている幻美などという女に立てる義理はない。

「生きてるか」

 冬籠が店から出てくる。

「とんだ挨拶だな」

「いや帰りが遅いもんでな。死んだかと思ったよ」

「見ての通りだ」

「おやおや、こいつは団体様だな。商売繁盛はんじょうだ」

「冬籠、手を貸せ。徒手空拳で二十対一では割に合わん。いくら相手が狐だとは言え骨が折れる」

「折れたら治してやる。徒手空拳なら、俺は手伝わん」

「そう言うな。下手を打てば死ぬ段になってきた」

「ごちゃごちゃ言ってねえでください旦那。分かりました、あっしらも覚悟を決めます。どの道、九福様を連れて帰らねえと、俺たちも命が危ういんでね」

 そいつらは狐の中でも下等だったのだろう、大した術が使える様子もなく、各々に武器を構えた。扇子せんすの使用が圧倒的だ。それに棒がちらほら見えた。対する私は徒手空拳である。蛇に比べると腕力は相当に劣る狐である。差し違える覚悟なら、二十匹は何とかなるだろうか。

「やれると思うか、冬籠。お前の見積はどうだ。俺は、死なずに済みそうか」

「いやに余裕がないな、零士。怖くて泣きそうなのか?」

「茶化している場合じゃない。どうだ、狐二十対、人一人。勝てると思うか。勝てないにせよ、生きていられると思うか」

「徒手空拳じゃあ、流石に無理だろうな」冬籠は無慈悲むじひなことを言う。「ただ、一つ忘れているぞ、零士」

「何をだ」

「その腰の布だ」

 言われて、私は腰に手をやった。私の腰には『忘布ぼうふ』という布が挟み込まれてあった。そして『忘布』を開いて思い出した。中から、刀がじゃらじゃらと出てくる。私は刀屋から妖狐を連れてくる際に、『花煙はなけむり』『夢祭ゆめまつり』『淵影ふちかげ』『龍樹りゅうじゅ』の四振りを包んできていたのだった。私はそのうち、『夢祭ゆめまつり』を後ろの冬籠に投げる。

「お前が使え」

「仕方ない、刀があるなら手伝うか」

「店を壊されたらたまらんからな。仕方あるまい」

 冬籠は『夢祭ゆめまつり』を抜いた。そして、ふところからびんを取り出し、私に投げる。

「なんだこれは」

秘薬ひやくだよ。半刻ほど、人を超えられる」

「副作用は」

「何、寿命が一日縮まるだけだ」

 後先考えぬのは私の悪いところだったが、背に腹は代えられぬ。それに、今死ぬかもしれぬ立場にあるなら、寿命の一日分くらい、大した問題ではなかった。丸薬がんやくひと飲みし、『花煙はなけむり』と『淵影ふちかげ』を抜いた。

 まるで風のように四肢ししが動き、

 夢のように、やいばくういた。


 ◇◆◇


「おや、こいつは死屍しし累々るいるいだ」

 流石の私でも二十匹の狐を相手にするのは疲れることだった。が、結果として、私と冬籠は、二十匹の狐を始末した。死する覚悟を持った狐は対妖刀にてほふり、腰が引けている者は日本刀で傷つけた。死に至るほどではない。激戦の末、ところどころについた傷跡や呪痕じゅこんに冬籠の薬を塗っていると、新手あらてかと思われる声がした。はっと顔を上げると、それはどこかで見たことのある狐だった。

「あんた」私が言うと、狐も私に気付いた様子で、「おや、いつかのお兄さんじゃありませんか」と言った。それこそまさに、私が『黒澤くろさわ温泉街おんせんがい』で出会った面屋の狐だった。今日は黒い着物を着ていた。「あの時は世話になったな。だが、あんたも敵かい」私が問うと「いえいえ、あっしは釘糸ていしと申しましてね。若い恋人を逃がしに来たんです」と言った。

「あんたが釘糸だったのか」「へえ、その通りです」「二匹は店の中だ。さあ」私が言うと、「ですがその前に、ちょっと始末をしときましょうか」と言って、釘糸は怪我をした狐たちに触れた。

 ふっとその存在が消える。

 対妖刀でぐのとは違う、霧散むさんとは異なる消え方だった。まるで、最初からそこにいなかったのではないかと錯覚さっかくするほど、痕跡こんせきなく消えた。「何をしたんだ」と私が尋ねると、「俗に言う、神隠しというやつです」と釘糸は答えた。

 家屋に入り、九福と竜胆に会うと、二匹はすぐに「」と涙ながらに声を荒げた。「小屋に行ったらいなかったものだから、匂いをつけてここまで来たよ。さあ、すぐに神隠しをしましょうかね」釘糸が二匹の前に立つと、九福は「すみませんちょっと」と言って、私と冬籠の前に膝をついた。「どうも助けていただいてありがとうございました」「助けたつもりはない」冬籠が言った。「店を守ったに過ぎん」「それでもありがとうございました」「そう思うんなら、猫娘を幸せにしてやるんだな」「はい。刀屋さんもありがとうございます」「私も助けたつもりはない。そして冬籠と同じ意見だ。竜胆を幸せにしてやるようにな」「ありがとうございます」そして二匹は一瞬のうちに、釘糸の神通力によって消えた。「二匹はどこに行ったんだ」私が尋ねると、「さあ。二匹一緒かもしれんし、別々の世界に行ったかもしれません」と適当なことを言った。「幸せになれるのか」「さあねえ。ただ、運命が二匹を結びつけるなら、同じ空間に行けるでしょう。二匹はそれに賭けまして。あっしはそれを助けた。それだけですよ」釘糸はそれだけ言うと、「そんじゃあ、用は済みましたんで、帰ります」と店を出た。私はそれを、店の前まで見送ることにした。「まだ面屋をやっているのか」「ええ。今も黒澤温泉街で」「仲間を殺してすまなかったな。あんたに恩義があるから、狐にはなるべく手を出したくなかったんだが」「いえいえ。お兄さん、あんたはやっぱり悪い人じゃない。殺し方を見りゃ分かります」「そうか」「お兄さんとお友達には迷惑が掛からんようにしておきます。その刀も折った方が良い。狐の匂いがつきすぎてますから」と、釘糸は『衆祁しゅうぎ』を指した。「そいじゃあ、また縁がありましたら」「どうしてそこまでしてくれる」「お兄さんは悪い人じゃありませんし、以前お面を買ってもらいましたからね」釘糸はそこまで言って、思い出したようにこう言った。「ただ、もしお兄さんがあっしに恩義を感じてくれましたんなら、また黒澤温泉街にお立ち寄りください。お兄さんと一緒にいた娘さんはね、きっと恋をしたんでしょう、随分成長しまして。お兄さん、あんたは罪な人ですよ」鈴子すずこだ。もうそんなに成長していたのか。「近いうち、必ず行くよ」私が言うと、釘糸は笑った。「お兄さん、あんたはやっぱり良い人だ。それじゃ、お達者で」風のようにふっと釘糸は消えた。何がどう幸せなのかは私には分からない。ただ、己の心に正しく生きることが、少なくとも幸せなのだろうと思ったのだ。

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