『狂夜堂の孤独』

 それは、地上から八尺はっしゃくほどの高さで雪が止まる日のことだった。そういう日は空に天井てんじょうが出来たようになって、が差し込まなくなってしまう。この辺りではそうした日のことを『雪ヶ夜せつがや』と呼んでいた。年に一度あるかどうかという天災てんさいだ。これに見舞われると、時間はほとんど止まってしまう。朝と夜が来ないために、腹も減らず、眠気も来ず、疲れもない。ほとんど時間の停止に等しかった。八尺うえの雪をくことは難しく、穿うがったところでそこから雪が雪崩なだれて地面をおおってしまう。だからそうした日には、私たちはひっそりと雪がやみ、溶けるのを待つのが普通だった。こよみも止まり、この日だけは歴史の全てが凍結とうけつされる。『雪ヶ夜せつがや』の期間は雪の気まぐれによる。私はその間、はじめ一日は煙管きせるかしたり、私が太刀筋の師匠から受け継いだ刀屋にある売り物の日本刀をはしから手入れしたりしていたのだが、二日目を迎えた頃から時間感覚が狂ってしまって、このままでは気まで狂うと思うようになり、着の身着のまま、散歩に出かけることにした。

 私の知る限りでは、最北にある『夢川原ゆめがわら』という土地では毎日雪が降っている。しかしながら、この『雪ヶ夜せつがや』の期間中は、あそこだけ雪が降らない。だから『夢川原ゆめがわら』だけは常に時間が正常に経過している。地域による時間経過の差はわずかなものだが、これを熟知してきょを転々とすることで、寿命を長引かせたり、逆に早熟そうじゅくしたりすることが出来る。私も少しは貫禄かんろくをつけに『夢川原ゆめがわら』に行こうかとも思ったのだが、歩いて行くには三日はかかる。その間に雪が止んでしまうかもしれぬ。仕方なし、私はあまり行ったことのない方角へ歩いてみた。その日の私は、着流しをただ着ているだけだった。道具は持たず、刀も持たなかった。まったくの散歩であった。

 空に雪でふたをした世界はどうにも窮屈きゅうくつで、それならいっそ建物たてものにいた方がましなんじゃないかと、三時間ほど歩いたところで考えた。私はつっと茶屋に寄る。小腹が空いていたわけではないし、疲労したわけでもない。喉すら渇かない。まるで夢中むちゅうのような肉体であった。「何に致しますか」と茶屋の娘がいたので、「三色の団子と、玉露ぎょくろ」と言う。娘は「お代は結構です。雪ヶ夜ですから」と、大抵の飲食店が口にする台詞せりふを言った。私は自分が金を持っていないことにも今更ながらに気付いたが、特に何も言わなかった。

 腹は減っていなくとも、まあ団子くらいなら食うことが出来た。それをたいらげ、茶を飲み干し、土産みやげ用に団子をもういくつか包んでもらった。「そちらに詰めましょうか」と娘が言って、私はようやく帯に『忘布ぼうふ』という特殊な布を畳んで挟んでいたことに気付いた。この『忘布ぼうふ』というのは、何かを携帯するのに非常に便利だが、持っている本人がどうしても存在を忘れるという妙な代物しろものだった。私は勧められるままに団子を『忘布』に包んで、腰からぶら下げる。重さも同時に忘れてしまうので、何も持っていないのと変わらなかった。

 茶屋からさらに奥へ向かうと、一軒の大きな建物があった。見たことのない建物で、随分ずいぶんと綺麗だった。縦にも長く、二階から上は雪に埋もれてしまっていた。『雪ヶ夜せつがや』であると、大抵のことはゆるされる。何故ならみな暇をしているからだ。この夜に起きたことは、ほとんどが忘れられる。戸を叩くと奥からすぐに人がやってきて、それを開けた。「どちらさまですか」と、白い着物の女が言った。「散歩の途中なのですが、入ってもよろしいですか」「ええどうぞ」女は私をこころよく受け入れた。そこには『狂夜堂きょうやどう』という札が掛かっていた。

 室内はこれもまた妙だった。赤い絨毯じゅうたんかれていて、金の装飾がされた家具が多くあった。西洋趣味だ。「こちらは」と訊ねると、「狂夜堂というお屋敷です」と答えがある。「ご主人は」「わたくしです」女は言った。「夜伽よとぎ静香しずかと申します」丁寧なお辞儀だったので、私もそれを返す。「ここは最近出来たお屋敷ですか」私が訊ねると、彼女はすっと私の対面の椅子に腰掛けて、室内をぐるりと見渡した。「ここは天井日てんじょうびの間だけ息を吹き返します」「天井日」「雪が地面まで降らない日のことです」「ああ。この辺ではそう言うんですか」「明日には終わるでしょう」「何故分かるんですか?」「もう、何千という天井日を過ごしてきましたから」静香さんはそう言って、ふふ、と笑った。

 どうやら彼女は俗に言う幽霊のようだったが、普通の幽霊とは少し毛色が違った。私はそれに気づいた時、すわ目薬をらねばならぬと思ったのだが、どうにもこの女は幽霊は幽霊でも、生霊せいれいに分類される。あるいは、この建物、『狂夜堂きょうやどう』に付随ふずいする、ある種地縛霊じばくれいのようなものだった。「ということは私は霊体の中にいるということですか」「そういうことになります」静香さんは言う。私はどうもこの女性に、人間らしからぬところを感じていた。「失礼ですがあなたはいつから常世とこよにいらっしゃるのでしょうか」「始まりからです」人間が生まれた時からだ、ということだった。

 まだ、生物にさかいのなかった頃だ。人類と、妖類ようるいと、霊類れいるいの区別がなかった頃。私たちが暮らす常世は大抵は人間が支配しているが、これは単純に知能と物量の問題であった。『鳥居坂とりいざか』と呼ばれる坂の先に向かうと、狭間はざまと呼ばれる、妖類の住処に通じる。『夢川原ゆめがわら』と呼ばれるという土地をさらに北へ向かうと彼世あのよに通じる。そうした場所に住んでいるのが妖類や霊類で、それ以外は基本的に常世に住みつくことはない。一時的に借家しゃくやで暮らすこともあるだろうし、人家じんかを奪うこともあるだろう。しかし本拠地は常に、狭間や彼世にある。だというのに、この女性は、常世にずっと暮らしているという。「当時はその区別がなかったのですか」そう尋ねると、「しかし根底こんていは皆、人なのですよ」と言った。「妖怪ようかいや、鬼や、ものなども、元は人間なのです。あなたは妖類を殺したことはありますか」「何度もあります」私は素直に答える。「妖類を浄化じょうかせずに殺したことはありますか」私は思い浮かべた。その回数は基本的には少なかったが、一番最近に殺した妖類で、対妖刀を使わなかったものは、『黒澤温泉街くろさわおんせんがい』で会った蛇だった。母子家庭に忍び込み、母を暴力で押さえつけた悪い蛇だった。あれはその後に人の姿となって死んだ。むくろは人体であった。「妖類を浄化せずに殺すと、人間になると?」「そうです。そして人間は死ぬと霊類になります。このような循環じゅんかんの中において、ひとあやかしれいはあまり変わりません。もっとも、輪廻りんねから外れてしまったり、罪に対して罰をんだ場合、妖は死体にはなりません。人も霊にはなりません」「それは、悪魔あくま鎖札くさりふだのことですか」私が問うと、「ものりなのですね」と静香さんは言った。「あれも人と妖と霊の間を揺蕩たゆたう、とても不安定な存在です。どれにもぞくさず、どれでもある。妖怪であるという考え方が一番あるでしょうけれど、霊でもあります」彼女の言葉はしんせまっていた。私は思わず知的欲求心を刺激される。「あなたはそのうちどれに属するのですか」「人と霊の間を揺蕩たゆたっています」彼女は微笑ほほえんだ。

 ふっと場面が切り替わる。まるで映像を見ているようだった。机の上に料理が並んでいた。「お食べになりますか」「すみません、今のは」「現象げんしょう省略しょうりゃくしました」静香さんはこともなげに言う。「私はもう何千年とこの狂夜堂で暮らしています」「何故死なないのですか」「封印ふういんされているのです」静香さんは銀のさじを取った。「どうぞ恰好かっこうだけでも」私も真似をして、銀叉ぎんさを持った。「封印というのは」「私は悪い女なのです」「そうなのですか」「何十という男性をたぶらかし、何十という家庭を壊しました」「それは、それは悪い女性かもしれない」私は言葉を選ぶ。何故か彼女の前では恐縮してしまった。「そうでしょう」「私もよく女性を泣かせます」「悪い人ね」静香さんはまた微笑む。皿の上には私の知らぬ料理が乗っていた。肉料理だった。「こうした食材はどこにあるのですか」「天井日には、必ずどなたかが狂夜堂を訪れます。昨晩もいらっしゃいました。私はその方々から、何かを頂きます。そして次の天井日まで、ただ時間を揺蕩います」「この屋敷の時間は経過しないのですか」「天井日の間は経過します。それ以外はまったく」「だからお若いのですね」「常世の経過で数えれば、もう、千歳を過ぎています」また静香さんは上品に笑った。

 また場面が切り替わった。暖炉だんろが目の前にあって、私は革張りの長椅子ソファに腰かけていた。隣には静香さんがいた。「また省略ですか」「時間が勿体もったいないですから、不要な時間は省略するのです」「狂夜堂はいつもここにあるのですか」「いいえ、どこか別の場所へ」「私はもう、ここには来られないのですか」「そうかもしれませんし、偶然いらっしゃることもあるかもしれません。過去に一度、三十年経ってからもう一度いらっしゃったご老人がいました」「それでもあなたはこの姿のままなのですね」「あなた方が生きている間では、私の容貌ようぼうは変わらないでしょう。それでも少しずつ、老いてはいるのです」「なんだかあなたにかれてしまう」「そういう性質なのです。だから私は封印されました」「つらくはないのですか」「最初の百年は戸惑とまどいましたが、もう受け入れました。どうしてか、狂夜堂を訪れるのは、私好みの男性ですから」静香さんが私の胸に顔を埋める。「こうして、時折いらっしゃる男性に抱かれるのです。一年のうち、たった数日。それ以外の時間は、何も考えずに、この屋敷で暮らすのです」「私たちの時間経過とあなたの時間経過が別だということですか」「そう、天井日だけ、私は年を取る」「生きているのですね」「そして、あなたは今死んでいる」因果いんがなものだと思った。もし『雪ヶ夜せつがや』が平均して、一年のうち二日起こるとして、千年が経過しても、彼女は五年と半年ほどしか生きていない。それは気の長い話だった。彼女の容姿ようしを見る限り、まだ二十代であろうことは明らかだった。

 視点が瞬間的に切り替わり、私は天井を見上げていた。隣に静香さんが寝ている。私は寝台の上にいた。驚くほど柔らかい布団の上だ。「私たちは、もう体を重ねたのですか」私が尋ねると、静香さんはくすくすと笑う。「省略するのは不要な時間だけです」「良かった」「あなたは動じないのですね」「そうですか」「今まで狂夜堂にいらっしゃった方の中で、一番動じていません」「不思議なことに慣れすぎました」「悪いことだわ」しかし静香さんは笑っている。「今夜の私は、体の準備が整っているのですよ」「どういう意味ですか」「生命の可能性です」「子をはらむということですか」「それも良いかもしれないわ」「しかし、もし孕んだとしても、生まれてくるのは十月十日後。それは、常世で数えれば、百五十年は掛かりますよ」「子どもが欲しいの」静香さんは言った。「一人は寂しいわ」「誰かを連れ込むことは出来ないのですか」「天井日が終わると、狂夜堂は消えてしまいます。人でも、妖でも、霊でもない者では、一緒にはいられない」「それでも、あなたの血を引いた子なら、と」「そう」言われて、私は静香さんを抱いた。それは彼女の美貌びぼうによるものだったかもしれないし、彼女をあわれに思ったからかもしれない。「子が生まれる時には私はこの世にはいません」「霊にはなれるわ」行為の最中に、静香さんは言った。それも良いかもしれない、と私は考えた。私はひたすらに静香さんを抱いた。『雪ヶ夜せつがや』では、疲労は一切感じなかった。

 布団の上で寝転がっていたはずだったが、私は着物を着て立っていた。「もうお別れの時間です」静香さんと一緒に、玄関にいた。「私が来たことは、良いことでしたか」「はい」静香さんは微笑んで頷いた。「きっとあなたの子を宿すでしょう」私が玄関を開けようとすると、「それは」と静香さんが尋ねた。指を差された先にあったのは、『忘布ぼうふ』だった。「三色団子です」「まあ」「お好きですか」「ええ、とても」「すぐに天井日は終わりますか」「あと一時間ほどで」「では、それまで一緒に食べましょう」それは別れを辛くする行為だと分かっていた。彼女が他愛のない時間を省略するのも、説明ばかりするのも、情を移さないためだと理解していた。それでも私は彼女を誘い、彼女はそれを受け入れた。「きっとあなたを忘れることはないのでしょうね」静香さんは言う。「私もです」「いいえ、忘れるのです」「あなたは忘れないのでしょう」「私とあなたでは、過ごす時間が違います」「私は二人で過ごした女性を忘れません」「私よりも異性にだらしのない人がいるのね」静香さんはそう言って、目を伏せた。

 ふと目を開けると、私はいつも通り、刀屋の中にいた。手に煙管を持っている。ふっと外を見ると、日差しがあった。これは毎度に訪れる、人類共通の夢である。『雪ヶ夜せつがや』という、人類が見る共通の夢だ。果たしてそれは夢だったのか、それとも本当にあったことだったが、大したことではなかったのか。「おい、零士れいし」声がしてはっと顔を上げると、『木哭寺きこくじ』の巫女であり、私の昔馴染みである空栖だった。「おう、どうしたんだ」「何、下界げかいに降りる用事があったものでな、お前が店を開いたと言うんで、どんな店を構えているかと気になったわけだ」私はどうも、空栖が妙に成長したように見えた。「背が伸びたか」私が言うと、空栖は驚いたような、神妙そうな表情で私を見た。「なあ、そろそろ春未はるみさんの墓参りだぞ」空栖はそう言いながら、遠慮なく足袋たびを脱いで畳に上がる。墓参りの時期だったことはもちろん覚えていたが、改めて私はそれを意識した。「それで、私の背が伸びたと言ったな」「いや、こうして面と向かってみると、変わらんな。十五、六にしか見えん」「そうか、何よりだ」空栖は嬉しそうに笑った。まるで長い夢でも見ていたように、私は大きく伸びをした。「お前、また誰か女を泣かしたのだろう」空栖はまったく失礼なことを言って、私の膝を叩いた。

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