『七朽森の乙女』

 五日も暗雲あんうんが立ち込めているのに一向いっこうに雨が降らぬので、妖狐ようこ嫁入よめいりだろう。私は六年ほど住んでいた家を引き払って、今は刀屋をいとなんでいた。準備に半月ほど掛かったためにその期間休業していたのだが、ようやく店を再開することとなった。私の太刀筋たちすじの師匠からゆずり受けた店で、日本刀を主にあきなっていた。私はその店にそっくり残った日本刀をただ売るだけだったので、まったく努力することなく金を手に入れることが出来るようになったわけだ。もっとも、日本刀はそう毎日売れるものでもないので、暢気のんきに店を構えている必要もある。私は大抵、元の家から持ってきた本か、くうに浮かぶことばなんかをつまんでいたりした。私は師匠がのこしていった煙管きせるかすことにした。煙草たばこを飲むのは十年ぶりほどだった。煙管を噴かすと必然、視線が上を向くようになり、私がぼっと空を見ていると、空は五日間曇天どんてnを重んじていた。

 天気の日に雨が降ると狐が嫁に入るというが、曇天が五日続くと妖狐が嫁に入る。妖狐と言って思い出されるのは、つい最近にまさにこの店で見た、ねこを連れた妖狐だった。そいつはおすで、めすの化け猫を連れていた。五万円の日本刀を買っていったのを覚えているし、師匠が真面目に付けていたらしい帳簿ちょうぼにもそれが記載されていた。人間以外の名前は記載しない主義なのか、ただ『妖狐、五万、衆祁』と書かれている。『衆祁しゅうぎ』はめいだろう。私は暇潰ひまつぶしがてら、その帳簿をじっと眺めていた。とくに見知った名前はなかった。しかし一つ、妙な記載を見つけた。そこには『乙女、未払、三十年後、影束』とあった。『未払みばらい』とされている項目はそれ以外にない。帳簿は十件ごとに紙を替えていた。帳簿は全て合わせると五十枚つづりのものが三十二冊あり、その取引はかなり最初の頃にあった。紙の日付から見るに、三十年ほど前の取引であるようだ。そうして見ると、この三十年後、という表記が気になってくる。三十年後に支払われる予定だったのだろうか。とは言え、この乙女おとめというのが何なのかは分からない。私は寡聞かぶんにして乙女という種族があることを知らないし、それが名前か苗字かも分からない。第一、この店の主人になって数日なのだ、分かりようがない。

 は安定して私にふみを投げ入れる。今まで住んでいた住居と違って戸が閉まっていないものだから、影は窓から文を投げ入れるようになった。客もいない店中で文を開く。木の葉がさらさらとこぼれた。文字はただ少なく、『七朽森まで』とたった五文字に過ぎなかった。無論私は『七朽森しちくちもり』を知っている。ほとんどの名前というものには意味がある。七と朽と森が組み合わされば、誰であろうと七度ななど朽ちた森ということが分かるだろう。遠い昔、運び屋をしていた頃におとずれた記憶があった。その時は確か台風のを採取しに行ったのだった。台風の芽はひどく高値で売れた記憶があった。『七朽森しちくちもり』は高価な植物の宝庫だった。その代わりに、非常に危険な場所である。植物人間しょくぶつにんげんばかりがいる。食人植物しょくじんしょくぶつばかりがいる。わなばかりだ。おとりばかりだ。しかし文が来たなら行かねばならない。文は私を絶対的に動かそうとする。その命に従わなければ、私はいくつか大切なものを失うことになる。

 私は装備をととのえることにした。こんな生き方をしていながら、元来がんらい殺生せっしょうなどはあまり好まぬ私であるから、あまり物を斬る刀を好まない。私の持つ対妖刀たいようとうは名の通り妖類ようるいを斬るばかりで物体を斬らぬ。師匠から譲られた霊刀れいとうも、これは刀しか折らぬ性質を持っていた。しかして『七朽森しちくちもり』に関して言えば、ここは物質がほとんどだ。植物は物質であって、妖力ようりょく魔力まりょくを備えない。私は店の中にある刀から、良さそうなものを一振ひとふり抜き取った。『淵影ふちかげ』と銘があった。刀身が黒く、細身だった。他に比べると長く、軽い。私はそれと、『夢祭ゆめまつり』という小太刀こだちに、『龍樹りゅうじゅ』という短刀をたずさえ、他に鉄扇てっせん投擲とうてき用の苦無くないを数本しのばせた。師匠は恐らく、口では「ただ一つの太刀しか振れないよ」と言っていたが、本当は腕が立ったのだろう。こういう案件が日常的に舞い込んでいたのだろうから、それはもう腕利きの刀屋だったに違いない。消えた人間のことは、褒めちぎるに限る。

七朽森しちくちもり』は幸いなことに刀屋からはさほど離れてはいなかった。歩いて二時間ほどの場所だっただろう。私には数ヶ月前、『鳥居坂とりいざか』という場所に退魔の仕事に向かった際に、友人であり、『五月雨さみだれ薬局やっきょく』という店を営んでいる冬籠という男からもらった薬が大量にあったので、これは『忘布ぼうふ』という布に包んだ。大抵の大きさのものを包むと重量も大きさも忘れてほとんど片手で持てる大きさになる。私はそれを、おびではなくベルトに紐でくくりつける。珍しく私は藍染あいぞめの衣類を穿いていた。すこぶる丈夫で、馬に両裾りょうすそを別方向に引っ張らせても破れないという強度を持っていた。それを腰にぶらさげて、ベルトから降りる金具に刀を差せば両手は自由になる。ただ、『忘布ぼうふ』の難点はその存在そのものを忘却してしまいがちなことだった。まあ、まだ物忘れが激しくなるほど歳老いてはいないはずだったので、何とかなることだろう。

 数時間後、私は『七朽森しちくちもり』に来ていた。朽ちているというだけあって、森は緑がしげっていた。自然はもはや存在しない。そこにあるのは悪意や意志だった。いばられて、動くものを捕食しようとして止まぬ。ところどころに人骨じんこつが転がっていて、巨大な桃色の花は、「かしえき」を吐いている。吐かれた先にあったくきは一瞬にして溶けるが、数秒経ってまた同じ茎を形成する。俗に言う共依存きょういぞんだった。そこに私が割って入ろうとすれば、たちまち霧散むさんする。私は出来るだけここにいない存在として、ひっそりと振る舞う。

 手紙には『七朽森まで』と書かれていた。すでに私はその領域をおかしている。果たして私が目指すべき場所はどこまでかと思案しあんするが、一向に答えは見つからない。怪鳥かいちょうの鳴き声が空を満たしている。極彩色ごくさいしきの怪鳥だ。名前は知らないが、存在は知っていた。怪鳥を見上げ、その視界に、一点、家屋かおくが見つかった。木の上に建てられた家屋だった。丸太小屋と表現しても間違いではないだろう。木には階段がないところを見ると、どうも住んでいるのは人間であるようだ。人間は階段を上れない。代わりに粗末そまつ梯子はしごが掛かっていた。木の根元には、大きな石碑せきひのようなものがあった。真っ黒な石碑で、どうも死の匂いを感じる。その家屋に表札はないのだが、これまた粗末な布が粗末な棒切れに結びつけられて、地面に立っていた。さながら旗のようだった。旗には不慣れな筆運びで、『新羅戯刀剣店様』と書かれてあった。これは私の師匠が営んでいた刀剣店の名前であり、今は私が所有している店の名だった。

 声を掛けることもなく梯子を上る。両手を自由にしてきて良かったと心底思った。梯子の棒は全部で二十あった。これはいつか思い出すことになるかもしれぬ。そうした些細ささいな数を数えておくのは重要だ。私たちのいる世界は通常だが、常世とこよは常世でも並行する常世がまれに存在する。並行した常世は世界も住人も変わらぬが、大体にしてその数に差違が出る。二十ある梯子が二十一になれば、それが並行世界の入り口だ。私はその数を注視しなければならなかった。二十本目の棒をつかんで、家屋の前に立つ。木製もくせいの引き戸には、『乙女』とただ二文字、言葉が浮いていた。

「ごめんください」

 私は躊躇ちゅうちょなくその戸を引いて、中に入った。すぐに驚いた。中には全裸の少女が、緑の上に横たわっていたのだ。緑の正体は、大きな葉だ。傘代わりに出来そうなほどの大きさで、それが数枚かれていた。布団代わりなのだろう。少女は体付きが幼かった。まさに六、七歳くらいだろう。少女というよりは、幼女というべきかもしれぬ。流石の私でも、幼女の裸を見るのは初めてだった。どういうわけか、非常なる罪悪感を覚えた。髪色はほのかに緑ばんでいる。「どなた」幼女は言った。「新羅戯あららぎ刀剣店とうけんてん五代目です」「どうも」幼女はのっそりと起き上がる。性器はしげもなく私にさらされていた。「乙女です」幼女はそう名乗った。

 私は指示されるまま、切り株に通された。切り株の椅子だった。それに、机がある。椅子は二脚だけあり、他には乙女の寝ている寝台しんだいがあるだけだった。「先代の方は」「新羅戯髑髏どくろは、引退しました」「そう」乙女の喋り方は、大人の女のそれだった。衣類を着る様子は一向にない。柔らかそうな四肢ししに、丸々としたくびれのない腹。しかし太っているという印象ではない。頭髪以外に体毛は見られなかった。「興味深いですか」乙女は訊ねた。「幼い裸体を見るのは初めてです」一応は客であるから、敬語を心がけた。それに、乙女の口調は、どうにも幼女とは思えなかった。「どうぞ、心ゆくまでご覧になってください」乙女は言う。ただし接触はおやめになった方が良いですよ、とも付け加えた。無論むろんそんなつもりはなかった。「それより、店に文を送ったのはあなたですね」「ええ」「何の御用ごようで」大体察しはついていた。まさに私が見ていた帳簿の、『乙女、未払、三十年後、影束』という項目が思い出された。師匠が以前に言っていた、「それがめぐり合わせだ」という言葉が脳に響いた。何事も巡り合わせなのだ。それは私が太刀筋の他に教わった、師匠の唯一の教えと言って良いかもしれなかった。「お支払いを」と、空想くうそう気味ぎみの私に、乙女は言う。「三十年ほど前に、刀を買いました。そのお支払いを」どうにもこの場所に金があるようには思えなかった。「ところがですね、私はご覧の通りだいわりをしてしまったので、いくら請求すれば良いのかが分かりません。もしあなたがそれを誤魔化しても、私には分かりません。本当を言えば、払って頂かなくても、私は構わないんです」乙女は大きく足を開いて、両手も上に上げる。子どものするような伸びの体勢だった。「それは助かる」素直な返事だった。「しかし嘘をつくと私は一瞬にしてちるよ」乙女は寝台から降りると、ぺたぺたと室内を歩き、木製の棚から、包みを取り出した。「一千万だ」私はその包みを受け取りながら、果たしてそこまで値の張る刀があの店にあったかと考えた。少なくともこの額は、運び屋をしていた当時、文字通り日の目を見られない取引道具である『暗闇くらやみ』を運んだ時にもらった金額に近かった。「あなたは嘘をつくと朽ちると」「言いました」「どうもこの家は充実しているとは言い難い。貧窮ひんきゅうしているのでは」「そうだ」躊躇ためらいなく、乙女は言う。「本来であればそのようなことは隠しおおせたいのだが、嘘をつくと朽ちるので、答えるしかない」「生活に困っているのですか」「この三十年間、その一千万円を作るのに、全てを犠牲にした。だから金はもうそれ以外一銭もない」「なら、これは半分返します」五百万円をそっくり乙女の手に握らせた。私はそこまで金には困っていない。「その代わり、あなたの半生を買います。どうか話していただけますか」札束をにぎりしめ、乙女は観念したように「ううむ。金は欲しい」と言って、また寝台に腰掛けた。

 乙女は元は普通の人間であった。実年齢は百十九歳になるという。老人、老婆も良いところだ。ろくに身体も動かなくなった頃、口減らしに、この『七朽森しちくちもり』に捨てられたという。放っておけば大抵の人間は死ぬが、この老婆は生き残った。森というくらいだ、それでも食うものくらいはある。老婆はそれらを食ってしのぎ、なんとか人里へ降りた。無論、老婆に仕事などない。命からがら『七朽森しちくちもり』から逃げびたは良いが、それ以外にするべきことがないのだということに、老婆は気付いた。老い先短い命では、何もない。あとは死ぬのみだと悟った老婆は、『新羅戯刀剣店』の看板を見つけ、そこで死ぬための刃物を買うことにした。

 当時の師匠を私は知らない。が、三十年前というと、二十歳そこそこの時代だろう。どうにも、師匠の人生に転機が訪れた頃、つまり男性器を失った頃だと思われる。「死にたいので刃物を貸していただきたいのですが」と言った老婆に、青年であった新羅戯髑髏は、「死ぬくらいならもう一度やり直すと良いでしょう」と、一振りの短刀をゆずった。それが『影束かげつか』であった。

 人は死のふちにて、まとわり付かれるものだ。少しずつ足や手にが巻き付き、そして動きがにぶくなる。そのうちは背中にも取りいて、腰が曲がるようになり、やがて死にいたる。そんないままわしい『かげ』を『たばねる』と書いて、『影束かげつか』であった。師匠はその短刀を、というより霊刀を、老婆に譲ることにした。ただし三十年間で一千万円を貯めることを約束させたのだという。師匠はその際に、また別に霊刀を用いて、老婆に嘘を束縛そくばくさせた。汚い金は受け取らぬという意志であったようだ。清い第二の人生を終えた老婆が貯めた一千万円を受け取るというもの。もし嘘をいてしまったら、束ねた影はほどけてしまう、という呪いをかけたのだ。

 以来老婆は三十年間、この『七朽森しちくちもり』を根城にして、金を貯めたのだという。金を得た主な方法は、果実の栽培さいばいだった。「体を売ればすぐだっただろうが」と乙女は言った。なるほど、物わかりの良い、一度女を経験したことのある幼女の体であれば、すぐに金が取れるだろう。「しかしそれでは自分を騙すことになる」「騙す基準は何なのですか」「自分が嫌なことはしないということだ」それはおよそ百十九歳の女が発するべき言葉だった。「それで、影束は」「来る時に、根元に黒い石碑があっただろう。あれだ」「あんな大きさに」「私が望んだのは、永遠の若さであった。それも大人の女の若さではない、夢と希望に満ちあふれた、だ。その分、百数年のが、『影束かげつか』に纏わり付いた。幾重いくえにも縛られたで、もう刀身は見えなくなった」「もし嘘をついたら」「全てのが私に戻り、私は朽ちる。百までならまだどうにかなっただろうが、百を超えた影は、瞬時に私のむくろ風化ふうかさせるだろう」「あなたはこれからどうするのですか」「こくなことを聞くのだな」乙女は自分の体を触る。裸体を私に見せようとしている様子ではない。ただ、もう興味がないのだろう。裸体を見せることにも、私に襲われるかもしれぬということにも、服を着るということにも、興味がないのだろう。「私はもう成長を望めぬ。このまま七朽森のあるじとなるか、世にも珍しい永遠の乙女として多くの男の欲を叶えてやるか。ここまで長く生きると、流石に飽きるらしい。十分に満足したあとは、他人の願いでも叶えてやるか、という慈愛じあいに目覚める。どうだ若者、おかしても良いぞ」乙女は性器に手を掛けて、私を誘う。「若かりし頃には、それなりに男をよろこばせたものだ。自慢出来ることじゃあないが、一時は遊郭ゆうかくにいたこともある。体は小さいが、技量はあるぞ」好き者の私は当然に興奮こうふんし、すぐにでも行為にのぞめる体勢になっていたが、しかしそれを行うのはやめることにした。「あなたの話を聞いていると、どうにも気が進みません」「どうしてだ」「あなたの容姿は若く、もしゆるされるなら、見聞を広めるためにも、襲いかかってしまおうと思うでしょう。しかし、心のどこかに、それをとがめる私もいる。それは理性というよりも、本心でしょう。幼子おさなごを犯してはならない、という、本能でしょう。性欲を満たしたがる本能と同じものです。あなたの言う、自分をだます基準に、それは合致がっちする」私が言うと、乙女は乙女らしからぬ余裕を持った表情で、「中々に見所のある若者だ」と言った。

 私は乙女に見送られ、きっちり二十の梯子を下りた。乙女は「危ないから見送ろう」と私に言った。それが彼女の正義なのだ。思ったことをただ思った通り行動するというのが、彼女に必要なことだったのだろう。「ほら、これだ」と、乙女は黒い塊を指さした。「これが私の百数年のだ」「」私は思う。は恐ろしいもので、それは妖類ようるいとも、霊類れいるいとも違う。は純粋なものだ。純粋なものだから、私に文を渡したり、風紀ふうきを取り締まったりする。妙な規則を立案したりもする。は共存すべきとうとい存在だ。「あなたは、もう一度人生をやり直したいと思いますか」私が問うと、乙女は「そうだな」と答えた。その本心だけで、私の腹は決まった。私はまず、『淵影ふちかげ』を抜いた。当然、影は実体を持たぬので、斬ることは出来ぬ。ただ、中にある刀身に手ごたえを感じた。「やはり影束はあるようです」「何をするつもりかは知らんが、好きにすると良い」乙女はその場に裸体のままへたり込み、私の動作を眺める。次に私は『花煙はなけむり』を抜いた。しかしながら予見よけんしていた通り、これは影も刀身をもすり抜ける。「対妖刀たいようとうか」と乙女が口にする。流石に長く生きていると知識が違う。最後に『龍樹りゅうじゅ』をさやから抜いた。刀身が短いために、自然、影に手をめり込ませる形でさっといだ。

 瞬間的に、

 私の右手に、

 今まで味わったこともないような絶望がひしめいたが、

 次の瞬間、

 その絶望は消え失せ、

 同時にの集合体は一瞬に霧散した。

 そして地面にめり込んだ半分の刀身と、腹で折れたつかが地面に転がった。

「馬鹿な」乙女は言った。「が消えた」私は『龍樹』を鞘に仕舞しまった。「先代から頂いた霊刀です。刀を折るのが仕事だと言います」「私はどうなるんだ」「分かりませんが、あなたの百数年分のは、刀の一部となりて、刀と共に折れました。ですから今後、恐らくあなたは第二の人生を送れることでしょう」右手に鋭い痛みと瞬間的に訪れた老いがあったせいで、少しだけ傷跡が見えた。しかし、乙女の人生に比べれば安いものだろう。「何故こんなことを」と乙女が問うた。「分かりません。ただ、出来そうなことがあるなら、するべきだと思いました。これはあなたの言う、無償むしょう慈悲じあいです。あなたはまるで大樹たいじゅのようだ。人間の人生などという小さな世界を超えている。そういう存在を見た時に、私利私欲しりしよく利害りがいを超えて、ただ自分にあるべき役割を果たすのだという心に目覚めました」「名前は」「月島つきしま零士れいしと言います」「新羅戯あららぎではないのか」「彼は私の太刀筋の師匠でした。新羅戯家は途絶とだえました」「そうか」乙女はようやくゆっくりと立ち上がる。「私の名前は、白縫しらぬい小百こはくだ」「小百さん、私はもう行きます。どうか良い人生を」「一つ言わせて欲しい」「何ですか」私が振り返ると、小百は「私はお前を最初に見た時から、嫌なやつだと思っていた」と言った。次の瞬間に、小百ははっと倒れる。そして、「おお、どうやらまだ、嘘はつけないようだ」と言った。「胸が苦しい」「死ぬのですか」「それほどの痛みではない。ただ、ほんの少し、胸が痛んだ」「それは、普通のことです」私は言った。「三十年間嘘をついていなかったせいで、純なる心が蓄積ちくせきされたのでしょう。嘘をつくと胸が痛むのが普通です」「ああ、そうだった」小百はほっとしたように言った。「ありがとう月島」「こちらこそ貴重な経験をさせてもらいました」「また店に行くよ」「分かりました」「ただ、頼みがある」「何ですか」「その上着をくれ」私が羽織っていた薄手の羽織を引っ張って、小百は言った。「何やら、裸でいることが心苦しくなってきた」「そうですか」私は上着を脱いで小百を包み、前を留めた。「何もなければ、私はしばらく刀屋をやっていますから、お訪ねください」

 店を継いで以降、初めてしっかりとした仕事が出来たことに感動を覚え、私は『七朽森しちくちもり』を去った。森を去る道中、右手の傷跡をどうしたら良いかとしきりに考えていたが、店に帰る段になって、腰に『忘布』を下げていたことを思い出した。『五月雨さみだれ薬局やっきょく』で手に入れた薬が、山のように入っているのだ。それを使えば良い。こんな単純なことを忘れてしまうとは、私ももう若くないのか、とも思ったが、あの乙女に会ったあとでは、歳老いた、など口が裂けても言えないと思い直した。

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