『木哭寺の刀研ぎ』

 鬼を殺してしまったから『木哭寺きこくじ』に行かなければならなくなった。ついでに先日仕事で使った対妖刀たいようとういでもらうことにした。私が住む東の地域にある寺で、これは昔馴染むかしなじみの女が巫女みこをしていた。女系にょけい家族であって、寺に男は一人もいない。木哭きこく空栖からすが今の管理者だ。これは私の数少ない友人の一人であって、同様に私の友人であり幼馴染みでもある、『五月雨さみだれ薬局やっきょく』の店主の冬籠とうろうという男とも関わりの深い女だった。若く、我々が同じく学舎がくしゃに通っていた頃にはよく三人でつるんでいた。私は大変に女好きを自負じふしているが、空栖にだけは手を出したことがない。巫女は処女でなければならないし、空栖は大変に性欲をぐ女だった。決して下品であるとか女としてすぐれていないというわけではない。美人であるが欲情しないのだ。あるいは美人すぎるが故にそういう気になれぬのかもしれない。まったくととのっていて、彫刻ちょうこくとか、絵画かいがとか、そういう分類だった。

 私が退魔たいまの仕事をする際に使う対妖刀は、もともとは『木哭寺きこくじ』にまつられていたものだ。刀は寺から生まれるのだから当たり前だろう。百年ほど使われていなかったものだが、私が興味を示して、先代の、空栖の母親である涼梅すずめに交渉して、譲ってもらった。当時の私は将来退魔師になろうとかそういうことを考えていたわけではないし、今もそれを専業にしようと考えているわけではなく、行き当たりばったりだった。そういうちゃらんぽらんとした性格が対妖刀にも通じたのか、二年掛けて緑青ろくしょうを落とすと、二振ふたふりの刀は息を吹き返した。刀の名前は『花煙はなけむり』といって、小太刀の名前は『夢祭ゆめまつり』といった。私はほとんどその名前を思い出すことはないのだが、『木哭寺きこくじ』に出かける際にはそれを思い出す。刀袋にはその名が刺繍ししゅうしてあるからだ。刺繍をしたのは、他ならぬ空栖だった。

 私が嫌いなのは腐った果実と『木哭寺きこくじ』まで続く九十九十九つくも段の階段だった。それを登って行くのが嫌なあまり、私はいつも五百段ほどちょろまかす。空栖にとがめられたことはないが、恐らく知られてはいることだろう。しかし五百段ちょろまかしても四百九十九段は確かに踏むのだから容赦ようしゃして欲しいものだ。残りの五百段は大概友人である冬籠に譲られる。もっとも、冬籠は『木哭寺きこくじ』はおろか外に出ようということもないので、つけが一万段になったところで、私を非難するようなことはしないだろう。

 階段を経て境内けいだいへ入ると、石畳の上に巫女がいた。緋袴ひばかま小袖こそでを身にまとっている。私に気付くと慣れた様子で「おや零士れいし」と言った。刀を二振り背負っているのを見て、「研ぐのかな」とも付け加えた。私は久しく見ない空栖の隣までいって、「久しぶりに刀を振るったのだ」と言う。「まあ入ったらいい」私は空栖に案内されるままに、寺に上がることになった。もちろんその途中に、賽銭箱さいせんばこにいくらか投げ込むことも忘れなかった。

 空栖は歳を取らない。まだ容姿が十四、五のままである。もっとも空栖は当時、実際に十四、五の頃から少し大人びていたので、見ようによっては十八、九の女に見えないことはない。万華鏡まんげきょうのような女で、見る立場によってその年齢は変わる。私の友人の冬籠なんかは、「ありゃ子どもも良いところだ」などと言う。冬籠には恐らく五歳くらいの娘に見えているのだろう。無理をすればそう見えないこともない。空栖の私室に通されて、対面にす。「何を斬ったんだ」「鬼だ」「西に行ったのか」「鳥居坂とりいざかに行ったよ」「女を泣かせていないだろうね」「鬼の女は乱れる」私が言うと、空栖は私の頭を叩いた。そして、呆れた男だと溜息をついた。「人間同士でないなら尚のこと、そう簡単に命を天秤てんびんはかるな」「これは私の生き方だ」「それに説教をするのも私の使命だ」私は空栖に言い返さないことにした。頭も上げられるし、足を向けて寝ることも出来るが、どうにも太刀打ち出来ない女だった。「刀を研ごう」言われ、私は二振りの刀を差しだした。「あまりこぼれてはいないようだ」と、『花煙はなけむり』を見ながら空栖は言った。

「そう言えば、母君ははぎみは。見かけないが」

「死んだよ」こともなげに空栖は言う。

「死んだか」

「男とちぎったのさ」

「馬鹿な」

「そう思うだろう。しかし母君は恋愛におぼれてしまった。ついに快楽を知ったのさ」

 巫女は処女を失うと十日で死ぬ。きっと破瓜はかからの数日間、母君は乱れに乱れたのだろう。空栖の母親なのだから、当然見た目は若い。

「ということは、今は一人か」

「そうだ」

「跡継ぎはどうする」

「子どもを産む気はまだないな」

「そうは言っても、もう良い歳だ」

「死ぬまでには長すぎる」

 百枚はあろうかという和紙で、空栖はただひたすらに刀を研いだ。二つに折った和紙で刀身を挟み、すっと研ぐ。一度研ぐと和紙は使い物にならない。しかし魔封じのためにられた和紙なのだから、それ以外に使い道はなく、そうされるために生まれたのだ。研ぎに使われた和紙は刹那に黒く染まり、燃え尽きた。「花煙はなけむりは三匹殺したらしい。夢祭ゆめまつりは二匹か」空栖が言った。「どうして最近、退魔を休んでいた」「女と恋をしていた」「気の多いやつだ」「そうじゃない。愛していたんだ」「春未はるみ殿の霊はまだ見えんか」「その名を出すな」「今度はどこの女だったんだ」「修道女シスターだった」空栖はじっと口を閉じた。勝手に話せ、聞いてやる、という姿勢だった。

 しばらく前に私は旅に出た。蛇女につけ回されて、家を空ける必要があった。物理的に距離を取って逃げなければならなかった。蛇女は自傷に飽きて私をなた出刃でばで刺し殺そうとした。愛してくれないのなら死ぬ、愛してくれないのなら殺す、誰のものにもしたくない、というものだった。蛇女は無論むろん狭間はざまから生まれる生き物であるから、寺や神社や教会が嫌いだ。私はそれで、しばらく遠くにある広大な土地へ出向いて、教会で世話になることにした。そこで出会ったのは修道女のリリィという女だった。生まれた国は違ったが、同じ人間同士だった。

 そこはしなびた教会で、老いぼれた神父と修道女が一人いるだけだった。その老いぼれた神父というのは修道女の父親で、つまりはリリィの父親だった。私は神父にいくらか金を払った。宿代のつもりだったが、お布施ふせという形になった。もっとも神父はあまり真面目な男ではなくて、教会の運営はほとんどをリリィが行っていた。私のお布施を使って教会を改修するというので、私はそれを手伝うことにした。リリィは線の細い女で、腕力がなかった。背の高さもなかった。対する私は、父親譲りの丈夫で大きな体をしていた。金払いの良い私を神父は邪険には扱わなかったし、リリィも決して私を悪くは思っていなかった。

 問題があるとすれば言語の壁だった。神父は多少なり和の言葉に精通していたが、リリィはほとんどさっぱりだった。というのも、神父の細君さいくんは私と同じ国の女だった。リリィを産んで間もなくして死んだ。だからリリィは母親と会話をすることなく死んだのだ。私は神父を通じてリリィと簡単な会話をするようになり、二ヶ月が過ぎる頃には、お互いにお互いの国の言葉を、少しずつ理解するようになった。「リリィ」と私が呼ぶと、「れーしさま」とつたない返事があった。「花壇かだんに水をいてくるよ」と言うと、「りりぃも」と言った。リリィは極力、言葉を私に合わせようとした。それは、母の国の言葉を知りたいからだということだった。

 教会への滞在期間は四ヶ月だった。神父はしきりに私とリリィの結婚を打診だしんした。悪い話ではなかった。当時の私は蛇女から逃げるのに必死であったし、教会は安全だったからだ。それに、時折やってくる子羊の悩みを聞くのも悪くはなかったし、お布施代わりに置いて行く羊毛は町に売れば金になった。収入は安定していると言えたし、何より気高い職業だった。私は退魔師としての一面も持っていたので、それは教会に属する者としては決して不似合いではない資格だった。その教会には悪魔や死霊のたぐいは現れなかったが、退魔師のいる教会というのは良い宣伝になったし、事実、子羊の量も増えた。悩みを抱える子羊が置いていく質の良い羊毛は、教会がほぼ独占していたと言っていい。

「れーしさま」ある晩、リリィが私の部屋を訪ねてきた。「眠れないのかい」「うん」「話でもしよう」教会の中は閉鎖的だった。神父は私が紹介した、聖職者が唯一口にすることを許されるという御神酒おみきにどっぷりとはまってしまって、毎晩それを飲んでは熟睡するのが日課になっていた。私は教会から出られない。リリィも出る用事がない。必然的に私とリリィはお互いに深く知り合うことになった。「れーしさま」「何だい」「さわってもいい」リリィはそう言うと、私の肩に頭を寄せた。言葉が不自由なために、上手く噛み合わないこともある。きっとリリィは、さわります、というようなことが言いたかったのだろう。「寂しいのかい」「うれしい」目を閉じて、幸せそうにしていた。私は案外、教会の養子になるのも悪い人生ではないんじゃないかと思うようになっていた。あまりおかしなことが起きないというのも、この土地の良いところだった。路地裏で液体が物乞いをすることもなく、神隠しにあった子どもが地蔵の中から見つかることもなく、木の股から双子が生まれることもない。およそ物理というものが機能していた。「れーしさま」「何だい」リリィは勢い良く私に抱きついたかと思うと、私の唇にあかを重ねた。その紅はさっと顔全体に広がって、リリィは真っ赤になって、部屋を出て行った。恥ずかしいのか、勇気があるのか。私はそんなリリィを珍しく思った。あまり自国で出会える種類の女ではなかった。

 私はリリィが修道女だったので、手を出さぬようにしていた。それでも、お互いの手を握ってみたり、体を寄せ合ってみたり、たまに口づけを交わしたりしていた。しかしながら、やはり修道女には手を出せない。修道女という生き物は、純潔でなければならない。それは私の国の巫女と同じだった。修道女はしばらく純潔を守れば、いずれ聖母ともなり得るという話を聞いたことがあった。私はリリィの、異国の美しさにかれていたところもあるし、その清い心にも十分に惹かれていた。だから肉体関係を持つことがなくとも、幸せでいられたのだ。「れーしさま」リリィは言った。「しあわせです」大分流暢りゅうちょうになった言葉で、リリィは私に愛の言葉を幾度いくどささやいた。

 しかしながら、リリィは死ぬことになる。

 教会に悪魔がやってきたからだった。原因は神父だった。神父は、私が勧めた御神酒だけでは飽き足らず、蒸留酒じょうりゅうしゅやら日本酒にほんしゅやらを欲したのだ。それは神父として、やってはならぬことだった。俗世ぞくせひたるにも、限界がある。俗世に浸った聖職者のいる場所には、悪魔がやってくるのがしきたりだ。神父は当然、悪魔に殺された。やってきた悪魔は一匹だった。棍棒こんぼうを手に持った悪魔で、あまりやる気がなかった。銀飾シルバーをぶら下げていた。「規則だ」そう言って、神父を血祭りに上げた。残虐ざんぎゃくの限りを尽くした。それが地獄へ落ちるための唯一の方法だったからである。普通に殺したのでは、元が聖職者なのだから大概は天国へ行く。天国へ行かないようにするためには、悪魔が手をくだし、残虐に殺し、人体から死体へ、死体から肉塊へ、肉塊から炭にしなければならない。私がリリィと夜話よばなしに花を咲かせている間に、その拷問ごうもんは行われ、終わった。リリィが自室へ戻ろうとする時、それを目にして、悲鳴を上げる。私は悪魔が来たことを瞬時に察した。夜中の教会には悪魔以外は訪れることが出来ない。二振ふたふりの刀を持って礼拝堂れいはいどうへ向かうと、炭と化した神父と、やる気のない悪魔がいた。「貴様も処罰の対象か」悪魔はリリィを見ながら言った。リリィは当然、放心状態であった。「何があった」私はそこで、神父の顛末てんまつを聞いた。仕方のないことだ、と思う他なかった。「この修道女は純潔だ」私は言った。

 しかしリリィは異国の言葉で、否定を示した。

 何故なら私を愛した時点でその純潔さは失われ、平等性を欠いた愛情は、慈愛じあいとはなり得ないからだった。だから私も殺せと、リリィは言った。「彼女を殺すなら私も殺してもらおう」私は刀を構え、悪魔と対峙たいじする。「お前を殺す義理も道理もない」悪魔は言う。私は片腕でリリィをめる。「では彼女は殺させん」「愛し合っているのか」「そうだ」私は答える。リリィの涙が腕を濡らす。「退魔の者か。修道女とでは、幸せにはなれんぞ」「そんなはずはない」「お前たちは結婚出来ぬのだ。いずれはなばなれになる。それが規則だ。修道女の道を歩んだ時点で、それは叶わない」「馬鹿を言うな。愛をつらぬく方法があると聞いた」「すなわち死だ」悪魔は言う。「それとも堕天だてんするか?」「それは何だ」「聖道せいどうからはずれ、一人間いちにんげんちるのだ。そうすればお前たちは人間同士になれる。結婚も良い。子作りも良い。しかし死んだあと、その女は終わる。輪廻りんね転生てんせいもない。この世と縁を切ることになる。道を外す代償だいしょうだ。外道げどうには代償がともなう」「馬鹿な」私は絶句した。修道女という生き方がそれほど熾烈しれつだとは知らなかった。「リリィ」私が言うと、彼女は私を大きく抱き締めたあと、言った。「愛しています」一際ひときわはっきりとした言葉だった。「私はきよいまま死にます」そして私から離れると、悪魔の方へと歩み寄った。何やら言葉を口にした。その端々はしばしに、天国や、純潔、殉職じゅんしょくひびきを聞いた。「本当にいいのか」悪魔は怠惰たいだを口から零した。「彼女が安寧あんねいの死を得る方法はそれしかないのか」「そうだ」「彼女を殺したら、俺は八つ当たりでお前を殺すかもしれん」「好きにするといい」リリィは笑顔を作り、私を振り返る。私は刀を捨て、また、リリィを抱き留めた。そして熱い口づけを交わした。それが最大の愛情表現であって、それ以上は何も出来なかった。彼女を清いままこの世から手放すために出来る、最大限の愛情だった。「愛しています、零士様」「私もだ」「あなたをずっとお守りしております」「ああ」「私はシスター。あなたの国の規律にしばられず、あなたの信仰にとらわれず、あなたを守ります」「ああ」そして、リリィは散った。花の散るように美しい消散しょうさんだった。殉職の美しさを私は知る。色硝子ステンドグラスから光がし、リリィを浄化していった。彼女は消え、そして天使となった。

 リリィの着ていた修道服と、首飾りだけがその場に残る。悪魔は礼拝堂の長椅子に、脚を組んで腰掛けていた。「何故消えない。お前を殺すかもしれないと言ったはずだ」私が問うと、悪魔はやる気のなさそうな声で言う。「気持ちが分かるからさ」と、溜息交じりに悪魔は言う。「何だと」「俺はその昔、お前さんみたいな立場だった」「修道女を愛したのか」「そうだ。その上、お前さんのようには利口じゃなかった。俺は悪魔の要求を飲めずに、女を殺しに来た悪魔を撃ち殺した。もう何百年も昔の話だ。俺の女は寿命と共にこの世から魂ごと消滅した。輪廻もなく、転生もない。存在ごと、縁が切れた。俺は悪魔殺しの代償として、次の悪魔になった。俺を殺してくれるんなら、ありがたい。悪魔の総数は、常に六匹と決まってるからな。誰かが悪魔を殺し、その座に就くのが決まりだ」「なら殺す気にはなれんな」私はリリィの首飾りを拾い上げる。「お前は永遠に悪魔でいるんだ」「ああ。それが俺の贖罪しょくざいだ」悪魔のごとを聞き捨て、私は上半身を脱いで、肩口を大きく悪魔に向けた。「悪魔なら、地獄の業火ごうかを吐き出せるのだろう」「ああ」「この首飾りを熱して、私の肩に押しつけてくれないか」「いんか」「ああ。彼女との思い出だ」悪魔はやる気のなさそうな態度で、それをしっかりと遂行すいこうした。私の肩口には百合の花をかたどった焼き印がされている。「なあ悪魔よ、面倒ついでにもう一つ、頼まれてくれるか」「何だ」「私を付け狙う蛇女へびおんながいるんだが、そちらでどうにかしてくれないか」「お前、退魔の者だろう。なら自分で殺せ」「女は殺せんのだ」「そうか。なら、規則に沿って、補導ほどうするとしよう。悪魔をあごで使うとはいい度胸だな」悪魔はそういって、黒い翼を広げた。「経験者からの助言じょげんだ。金輪際こんりんざい、聖職者の女には惚れるな」「無茶を言う」「悪魔はそういう生き物だ」悪魔は消え、教会には私一人がのこされた。私はその翌日に、教会をあとにした。その日から、私は蛇女の影を見ていない。

「一人の女の命と引き替えに、迷惑な女を遠のけたわけだ。なあ零士、お前、女を泣かせる商売につけ」話を聞き終えたあと、空栖が言った。「ちなみに、こっちじゃあ、巫女を抱くと悪魔ではなく、妖怪ようかいが来るそうだ」「妖怪か。母君のところには来たのか」「ああ。鎖札くさりふだが来た」「聞かん名だな」「罰者ばっしゃくさりしばってふだを貼るのさ。お前よりでかい大男だ。そして札を貼ったむくろを担いで西へ向かう」「西。というと、鳥居坂とりいざかか」「あすこの狭間はざまに捨てるんだよ」「相手の男はどうなった?」「ああ、鎖札になったよ」「何だって」「鎖札は一度きりの妖怪なんだ。巫女に手を出した男が、次の鎖札に任命される。毎日鎖の巻き方と札の貼り方を修練しゅうれんするのだ。見て行くか?」「見て行くか、とは」「鎖札はおかした巫女のいた寺で修練するのが決まりだ。ぎも終わったし、どれ、見聞けんぶんしていくといい」刀袋に二振りの刀を納めると、空栖は私を外に連れ出した。予定もないので、私はそれを見聞することにした。

 寺の裏庭に位置する場所に、大きなもやうごめく気配があった。じゃり、じゃり、という鎖の音と、ぺん、ぺん、という札貼りの音が聞こえた。大きな木を相手に、鎖を巻いて、札を貼っている。「あれが鎖札だ」空栖が指をさした。「実体がないからお前にも斬れん。実体がないから悪さも出来ん。ただ次の愚か者が現れるまで、ただ鎖と札の修練をする」「鎖札としての使命を終えたらどうなる」「どうなると思う」「分からんから聞いている」「常世からも彼世からもなくなる」空栖は呆れたように言った。どうにも、宗教絡みの仕組みは、国の文化の違いを物ともしないようだ。所々違うが、大枠は似通っているらしい。「鎖札は、輪廻の順序から欠落けつらくするのだ。そして欠陥墓所けっかんぼしょに落とされる。欠陥墓所には代々の元鎖札がひしめいているそうだ。無論実体のないまま犇めくから、交流も産まれんし文化も産まれん。ただの墓所さ」「辛いな」「巫女を犯すというのはそういうことなのさ」「母君は知っていたのだろう」「当然な」「それなのに体をゆるしたのか」「性欲に抑えが効くのか?」空栖は手の甲で私の陰茎いんけいを軽く叩いた。「友人として忠告してやる。私には手を出すなよ」「誰が貴様なんぞ」「知らんのか、巫女の見た目を」「何がだ」「そうか、お前にも知らぬことはあるのだな。だが、知らんなら良い。お前は正常だよ」空栖はわけの分からぬことを言って、寺へ戻っていく。私はしばらく鎖札となった男を見ながら、あの悪魔を思い出していた。あの悪魔の生き方は、鎖札と比べて幸せなのだろうか。しかし、何百年も悪魔をするというのも苦痛だろう。いっそ輪廻から外れて、『欠陥墓所』に葬られることも幸せの形ではないかと思った。

 遅れて寺に戻ると、空栖はいつの間にか勝手に立っていた。「昼飯でも食うか」「いいのか」「賽銭さいせんは払ったのだろう」それを期待しての賽銭だったので、こうそうしたようだ。「何か手伝うか」「どれ、久しく冬籠でも呼んだらどうだ。最近は人里に降りることも少なくなって、顔を合わせていないからな。鳩でも飛ばすか」「いや、冬籠はやめておこう」「まだ飯までには時間がかかる。呼んでこい」「いや、あいつは階段を上れない。私のつけが多すぎるからな」「なら、お前が代わりに上ったらどうだ」私が今までちょろまかしたつけを払う頃には、夕飯の時間もとうに過ぎるだろう。「わかった。これから少しずつ、払っていく。多めに階段を上ることにするよ」「それがいいだろうな」空栖はくっくと笑う。「ちゃぶ台を出しておいてくれ」「分かった。他には」「ぜんでも組んで、たまには性欲を忘れろ」どうやら空栖は私を性欲の権化か何かと勘違いしているようだが、馬鹿馬鹿しい。私は性欲を満たしたいのではなく、心底愛せる女を求めているだけだ。

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