『幽除の鐘』

 北の地方に『夢川原ゆめがわら』という場所があり、そこは年中雪が降っている。春には牡丹雪ぼたんゆきが降って、夏には結晶けっしょうが降って、秋には粉雪こなゆきが舞って、冬は幾種類もの雪が降る。私は過去にこの場所に長期間滞在したことがあった。『霞川原かすみがわら』と『夢川原ゆめがわら』の境目を超える時、その時に出会った千雨ちさめという女のことを思い出していた。忘れられない女は何人もいるが、千雨はその中でも色の濃い女性だった。すぐに積もっている雪を踏みしめていた。しばらく明かりが見えてくるが、もう夜は更けていた。『夢川原ゆめがわら』の入り口に宿場町しゅくばまちがあった。私はその中にある、『剪定宮せんていぐう』という宿に入った。これは私が昔一季節ひときせつほど泊まっていた宿だった。建物は一面が白く、部屋数が馬鹿に多い。亭主は当然私を覚えていて、宿に入るなり「いやあ月島つきしま様、こいつは長らく」と頭を下げた。人の名と顔を覚える才能だけを持っている男だが、その反動でかどうしても私に顔と名前を覚えさせてくれない。だから私は亭主の名も顔も知らない。「部屋はあるかい」「宿ですからねえ」亭主は私をあの時と同じ部屋に案内してくれた。「今日はお連れ様がいらっしゃらないんですか」「一人だよ」千雨のことも当然覚えているようだった。「今日は私一人であきなっておりますので」「夕飯はあるかな」「何がよろしいでしょう」「簡単なものでいい」「そいでは適当に見繕みつくろってまいりますので」亭主は私を部屋に案内するとさっと消えた。座布団に腰かけて、昔のことを思い出した。

 千雨という女は私と同じようにこの『剪定宮せんていぐう』に泊まっていた。その頃私は運び屋を生業なりわいとしていて、『暗闇くらやみ』を南から運んでいた。受取人は冬の間にこの『剪定宮せんていぐう』にやってくると言っていた。私は一冬ひとふゆ待って、ようやく『暗闇くらやみ』を運ぶことになるのだが、その待っている間に、私は千雨と出会い、知り合った。千雨は遊女ゆうじょだった。しかし経験のない遊女だった。千雨は大人にも子どもにもなれない年頃の女だった。望まぬ結婚から逃げて来たのだといった。そして、世界一嫌いな男に抱かれるくらいならと、他の男に抱かれ、体一つで稼いでいくと決めたようだった。女の覚悟は男には理解出来ない。出来ることといえば、その意志を汲むことだけだった。

「お時間ございますか」千雨の第一声はそれだった。「私は暇をしているよ」それは私が『剪定宮せんていぐう』に泊まるようになってから五日が過ぎた頃だった。「千雨を買ってくれませんか」「千雨というのは」「私の名前です」「いくらかな」「いくらでも構いません。満足したら、それだけのお金を」私は千雨を宿に連れ込んだ。亭主は「お部屋代は変わりませんので。お食事が必要でしたら、お食事代はいただきますが」と言った。私はそういう機転も良いから、『剪定宮せんていぐう』を贔屓ひいきの宿にしようと決めたのだった。

 千雨は生娘きむすめだった。私が部屋で千雨を抱くと、千雨はしばらく泣いた。泣き止むまでしばらく放っておいた。泣き止んでから尋ねると、「零士れいし様で良かったです」と言われた。それから私は千雨の半生を聞いた。どうも両親の店が潰れてしまうから、それを防ぐために売られることになったらしい。売られる相手は醜く太ったへびだった。蛇は下品な装飾品を身に着けていて、鱗を金色に染めていた。千雨はそれくらいならと家を飛び出して、力の続く限り走った。『夢川原ゆめがわら』までやってきたところで、ついに終わりを感じた。それは当然であった。『夢川原ゆめがわら』は常世とこよの終わりであるからだ。それ以上北へ向かうと命が尽きる。千雨はそれを悟ると、最初に出会った男に自分を売ることに決めたのだそうだ。そしてそれが私だった。ただそれだけの話だ。

 私は千雨を一日につき五千円で買った。『暗闇くらやみ』を受け渡すまでに時間があったし、それまでの退屈しのぎに困窮こんきゅうしていたからだ。『剪定宮せんていぐう』は良い宿だったが、そもそも『夢川原ゆめがわら』に来る人間が少ない。私の友人であり幼馴染である薬師くすしの男は、この土地の名前すら知らなかった。だから当然おとずれる人間は少なく、私は暇を持て余していた。ただし、運び屋である故に当時根無ねなぐさだった私は、全財産をずっと持ち歩いていたから、金だけはあった。私は千雨を買って、好きな時に抱いた。疲れたら眠り、腹が減ったら食事を出させ、暇さえあれば千雨を抱いた。千雨は細い女で、最初は辛そうにしていたが、十日が経つ頃には随分と慣れて、良い声を上げるようになった。当時の私は刹那的せつなてきに生きていたから、千雨の体を気遣ったりはしなかった。千雨も金をもらっている以上はと私の望むままに抱かれた。一月ひとつきが経つ頃には私の中に千雨への情が生まれているのを自覚した。それから半月ほどが経過して、千雨が身籠みごもったことが分かった。

 千雨は「迷惑は掛けません」と言った。「ですけれど、生ませていただきたいのです」とも言った。私はそれを一人で決められずにいた。役に立ったのは『剪定宮せんていぐう』の亭主だった。「月島様、生ませてやってはいかがでしょう」「そう簡単にものを言われてもな」「お困りでしたら私が何とか致しましょうか」「育てるのか」「いえいえ、殺してしまうんですよ」「千雨をか?」「まさか。赤子をです」「流産させるというのか」「そうではありません」亭主は私を宿の外に連れて行き、看板を読ませた。

 つまりはそういうことであるようだった。「元は病院でしてね」道理で部屋数が無駄に多く、一面が白いわけだった。「千雨様には傷一つつきません。ただね、ちょっとやって赤子をつぶしちまおうってことです。いやあ残骸ざんがいも残りませんよ。えんごとね、切っちまうんです。そうすりゃあ千雨様も、赤子のことも、身籠ったことも忘れちまいますよ」「私はどうだ?」「月島様は忘れません。永遠に」「なるほど」私は部屋に戻って千雨と話をした。「私は一人の女と一緒になる予定はないんだ」「構いません。千雨はそれでも構いません。零士様が好きなんです」愛おしそうに腹を撫でる。まだ細い腹だった。しかし確かに命はある。それは亭主が言っているのだから間違いはない。亭主は何百何千という産婦さんぷを見て来て、その半数を剪定せんていしたという。一日見ていれば女が身ごもっているかどうかは確実に言えるという。千雨は身ごもっている。しかも私の子をだ。

 私は答えを出せぬまま、また『暗闇くらやみ』を受け渡すこともないまま、ただ我武者羅がむしゃらに金を払った。亭主は金払いの良い私を邪険じゃけんにはしなかったし、千雨は私から離れようとしなかった。私は千雨を抱かなくなった。その代わり、膝枕をさせたり、歌を唄わせたり、体を洗わせた。千雨は従順な女だった。千雨は受取うけとりこばんだが、私は千雨に金を払い続けた。それが情によるものではないという大義名分を得るための行為だった。

 私が『夢川原ゆめがわら』に来てから三月みつきが経つ頃、年が明けた。そしてようやく私は『暗闇くらやみ』を渡すことになった。受取の相手は、『夢川原ゆめがわら』の北からやってきた。常世とこよの人間ではない。私が折りたたんだ和紙から『暗闇くらやみ』を取り出すと、彼世あのよの住人はそれを飲み込んで去って行った。私が十年は楽をして暮らせるだけの代金を支払っていった。その半分を千雨にくれてやり、「育てるなら好きに育てろ。これでしばらくはやっていける」「千雨は零士様と一緒にいたいです」「私は運び屋だから、一緒にはいられない」「どこへでもついていきます」私は金を半分部屋に残して、未明みめいに黙って一人『夢川原ゆめがわら』をった。それからもう五年は経っていた。悪い男だと、昔馴染みにも言われたばかりだ。だが、お互い、金銭だけの関係だったはずだと、私は今も自分の情に抵抗している。きっと女の方は、私のことなど覚えてすらいないだろうが。

 亭主がやってきて、夕飯を運び入れた。焼き魚やら山菜やらの御膳ごぜんだった。「今日は月島様しかお客様がいらっしゃいません」「従業員も亭主だけだろう」「どうか良ければご一緒にお食事など」「そうしよう」亭主は私の部屋にもう一人分の夕飯を運び入れた。初めて泊まった日もこうして、亭主と男二人で食事をしたことを思い出した。

「亭主」「なんでございましょう」「千雨という女を覚えているか」「それはもう昨日のことのように」「その後のことを聞いても良いか」「剪定せんてい致しました」その言葉は少なからず私には衝撃的だった。「そうか」「私がお勧め致しました。月島様が黙って発たれた後の千雨様はそれは落ち込みましてね。剪定さえしちまえば、子どもとも、その男親とも縁が切れます。月島様のことをお忘れになった方が、千雨様のためになると思いましてね。あの時の私は、千雨様に情が移っておりまして。まるで娘のような若い子でしたから」そうか、と私は言った。どうも慣れ親しんだ味がした。「そのあと千雨は」「どこかへ行かれました。ええ、ご安心ください。月島様が差し上げた財産は、無理を言って持たせました。きっとどこか幸せに暮らしていらっしゃることでしょう」そう願いたいものだと思った。「ところで月島様、今回は何をお運びに」「運び屋はやめたんだ」「おやそうでしたか」「この辺りに『幽除ゆうじょかね』があると聞いて」「そいつは穏やかじゃありませんな」亭主は苦笑する。「誰かまた女を泣かせたんじゃありませんでしょうな」「もう何十年も昔の話だ」「その幽霊を今更ですか」「そろそろ成仏させたいと思ってな」「左様ですか。しかし私はお勧めしませんな」「訳を聞こう」「女の霊でしょう。女ってのはね、男なんかとは覚悟の質が違う。月島様に何十年も憑いているって言うんなら、それは月島様を守るための霊ですよ。無碍むげに鐘を鳴らすもんじゃありません」私はこの亭主を全面的に信用していたから、そうした方が良いかもしれない、と考えた。「しかしせっかく来たのだから、その鐘を見るくらいは良いだろう」「ええ、是非見て行ってください。立派なもんですから」

 翌日になるまでに時間はそうはかからなかった。朝日が雪を照らしているうちに、私は亭主に聞いた通りの道順で、『幽除ゆうじょかね』を目指した。それは立派なやぐらの上にあった。梯子はしごのぼって、鐘撞かねつへ上った。階段と違って、梯子は昇降が簡単で良い。一番上までやってくると、そこに童子どうじがいた。「人間かい」私が尋ねると、童子は「足があるからね」と言った。「幽霊は足がないから、梯子を上れないんだ」だから櫓の上にあるのかと感心した。「お兄さん誰だい」「月島零士という者だよ」「ふうん」「君は」「よろずってんだ」「よろず?」「変な名前と思ったろう」「まあね」私はよろずの隣に腰かける。「何をしているんだい」「何も。高いところが好きなんさ」「同感だね」「お兄さんは」「鐘を見に来ただけだよ。立派なもんだ」「だろう」ほこらしそうによろずは言った。「けど鳴らしちゃいけないんだ」「どうしてだい」「鳴らすと、悪い霊も、良い霊も、全部消しちまうからね。だからいざって時以外は鳴らしちゃいけないんだ」「今までに誰かが鳴らしたことはあるのかい」「一度だけあるらしいよ」「へえ、誰か知ってるかい」「ううん、知らない。鐘を鳴らしたから、誰もその人のことを知らないんだよ」なるほどそうか、と私は思う。「そろそろ俺は帰るよ、お兄さん」「家があるのか」「食事処だよ。何か食っていくかい」「また今度来るよ」「本当だろうね」「ああ。今日は準備がない」「そっか。じゃあ今度はうんと金を持ってきてくれよな」よろずはとても素直な童子だった。私はどうも嬉しくなった。

 雪がひどくなる前に『剪定宮せんていぐう』に戻ると、亭主が朝食を用意していた。「やあお帰りなさいませ月島様」

「亭主はどうも、今まで切った縁に苦しめられていたんだなあ」

 私が言うと、亭主はふうと息を吐いた。「月島様は何でもお見通しだ」「あの鐘は亭主が作ったのかね」「いえ。ですが私のためにあると言っても間違いじゃありません」「その後、楽になったのかね」「夢見は悪くなくなりましたが、あったかさもなくなりました。だからね、恨まれていても、呪われていても、大事な守護霊さんとは別れちゃいけないと私は思うんですよ」「千の悪霊より、一の守護霊ってことかい」「悪霊なんかの覚悟とね、守護霊の覚悟は違います。一度鳴らしたら終わりなんですよ。まあね、軽い気持ちで鳴らすべきじゃありません。このままじゃ呪い殺されちまうって段になって、初めて鳴らす鐘です」さあ朝食が出来ましたと言って、亭主はまた私の部屋に二人分運んだ。「もしそうなったらまたいらしてください。私は一生ここで宿をやりますから」「もう剪定はしないのかい」「ええ。あんなことはね、するべきじゃないんだってことを、私は知りました。どんな命でも、生まれてこなきゃなりません。私はそれを知るのにね、何百という命をんだんですよ」それから亭主は私に半生を語った。亭主の顔と名前を覚えられぬのは何も私だけではないようで、亭主も自分の顔と名前を知らぬようだった。それは『幽除ゆうじょかね』を鳴らした代償だいしょうでもあり、水子みずこのろいでもあった。水子も自分の顔と名前を知らぬ。生まれる前は誰も顔と名前を持たぬ。だから亭主は顔と名前を持たぬ。それは鐘を鳴らす前も後も変わらぬことだという。終わってしまったことは取り返しがつかないのは世の常だ。摘んだ命は戻らず、受けた呪いは解けず、消した霊はかえらない。そんな当たり前のことを、私たちはいつも間違える。

 今回は一晩だけなんだ、と言って、多めに金を払ったが、亭主はそれを受け取らなかった。「以前いただいた余銭がまだまだ残っております」「私はそんなに払ったかな」「ええ」亭主は外まで私を見送り、真っ赤な唐傘からかさを一つ持たせた。「今日は霞川原かすみがわらの方まで雪が降りますので」「ありがとう」「またいらしてください」「ああ」「もう少ししたらね、月島様にはお伝えしたいことがあるので」

「よろずのことだろう」

 私が言うと、亭主ははっとした表情になって、観念したように息を吐いた。「それもご存じでしたか」「やぐらに行ったら会えたよ」「何か話されましたか」「いや。名乗っただけだ」「よろずはまだ知りません」「また来るよ」「その時に」「千雨も元気か」「お達者でございます」「そうか、食事も」私は口内に残るかすかな記憶に触れる。「料理上手な女だったんだな」「今ではもう、私より上手くなりました」「そうか。次を楽しみにしているよ」「ええ、どうぞ、息災そくさいでいらしてください」「世話になった」私は唐傘を差して『霞川原かすみがわら』の方へと歩いて行った。零という数字は何の足しにもならない。掛け合わせようとすると全てを無駄にする。まったく薬にならん数字だ。しかし千雨は私を横に並べることを選んだようだ。千雨は私を恨んでいるだろうか。果たして自分の選択を恨んでいるだろうか。よろずがそれをまぎらわせれば良いと願った。櫓も鐘も、私のやった財産で建てられたのだろうか。の鐘でなく、の鐘であることを、私は最初にもっと考えるべきだったのだ。

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