『五月雨薬局の目薬』

 幽霊が見えるようになってきたので目薬を買いに行くことにした。私が常日頃から常用している目薬は『五月雨さみだれ薬局やっきょく』という店で調合しているものだった。正確な原料は知らないが、六月六日むつきむいか雨水あまみずやらを使っているということらしい。三日ぶりに家を出て、『五月雨さみだれ薬局やっきょく』に向かうことにした。そこは昼から出ても夕方前には帰ってこられる場所にあった。今はまだ昼にもなっていない。ブーツの紐を結んで家を出た。鍵を掛ける必要はない。家の中には幽霊がいたのを見ていたので、彼女たちが外に出るために、鍵を掛けてはならなかった。

 私と『五月雨さみだれ薬局やっきょく』の店主は昔馴染むかしなじみみだった。私には夢や将来というものがなかったが、彼にはそれがあった。彼は秘薬ひやくを作るのが夢であった。何故なら彼の美しい姉は彼が物心ついた頃からやまいおかされており、その病は不治ふちの病とされていたからだ。彼は医者にはなろうとはしなかった。医療というものは治るかもしれぬし治らぬかもしれぬ。対する薬というものは、正しく服用すれば必ず治るというのが世界の常識だ。店主の名は麻倉あさくら冬籠とうろうと言い、私は冬籠、と呼び、彼は零士れいし、と私を呼ぶ。彼女の姉であった春未はるみと言ったが、彼女は十年以上前に亡くなっていた。それ以来冬籠は覇気はきがなくなったが、薬の調合の腕前だけは私の知る限りでは天下一であった。

 平素へいそから『五月雨さみだれ薬局やっきょく』は暖簾のれんが下げられている。店の前には簡易かんいぐすりが木箱に入れてあって、無造作むぞうさに放られている。隣に小さな賽銭箱さいせんばこがあり、小銭を投げ込んで塗り薬を持って行って良いことになっていた。しかし私が買おうとしているのは目薬である。私は戸に手を掛ける。あんじょう鍵は掛かっていなかった。冬籠の家にはいつも幽霊がいるので、出入りがしやすいように鍵を掛けていないということなのだろう。

「冬籠」私が声を掛けると、奥で影がもぞりと動いた。「零士か」「ああ」「二ヶ月経ったかな」障子戸を開け、こちらにやってきた。「目薬か」「ああ」「悪いな、今、切らしてるんだ」「おや、珍しいな」「材料はある。まあ上がれよ。たまには無駄話でもしようじゃないか」私は冬籠に誘われるままに家に上がった。鉱石こうせきほねが部屋に転がっている。びんは飲料屋よりも多くあった。「また幽霊か」「そうなんだ。目薬は常用しているんだけど、切れてしまってね」「いっそ、眼科に行った方が良いかもしれんぞ」「医療では丁半ちょうはんなんだろう」「薬では治せない病もある」それは姉の春未の病も同じだった。「まあ座っていろ。座布団は紫がいいぞ」私は言われるままに紫色の座布団に座った。

「最近、どんな仕事をしている」自分の周りに材料を山ほど集めた。冬籠と私の間に囲炉裏いろりがあった。そこに鍋をひっかけて、次々に液体や薬草を放り込んでいく。「まだ家はそのままなんだろう」「ああ」「順調か」「最近は仕事はしないで、本ばかり読んでいるよ」「退魔たいまの仕事はどうした」「以前、旅行に行った時、足を洗ってね」「どうせまたやり始めるさ」そうだろう、という気は私もしていた。「女は泣かせていないか」「涙は見ていない」「悪い男だ」冬籠は困ったように言った。材料はすっかり鍋の中に入れられていて、火をつけてそれを弱火で煮始める。「何か飲むか」と冬籠が言ったので頷くと、冬籠は鍋を放って勝手へ向かった。

 私が上げられた囲炉裏の部屋には綺麗な布団が敷いてあった。それも二つだ。片方は冬籠の布団で、もう一つは春未のものだった。彼女は冬籠の姉であると同時に、私と恋仲でもあった。寝たきりの女性との恋愛は、ひどく純真で正しかった。ついぞ体に触れたことすらないが、私と春未は確かに恋仲であった。私は女は泣かすかもしれないが、浮気性ではない。常に一人の女を愛する。春未を愛した期間は実に三年間だった。ここに来る度に、そのことを思い出してしまう。

 冬籠は部屋に戻ってきて、瓶に入ったコーラを二本持ってきた。囲炉裏の鍋に蓋を引っ掛けて開ける。蓋は器用に畳の上に転がった。どうも瓶は液体を入れておくのに利用されるらしく、冬籠は瓶入りの飲料しか飲もうとしない。「どうした」と、冬籠が問う。「春未のことを思い出していた」「そうか」「何故私には見えないんだろうな」「不思議だ」冬籠には当然、春未の幽霊が見えている。冬籠は目薬を差さないのだし、冬籠が『五月雨さみだれ薬局やっきょく』に鍵を掛けないのも、春未が出入りするためだからだった。しかし、私は春未の幽霊を見ることが出来ない。「本当は見えない方が良い」冬籠は言う。「幽霊なんて見ると、目がけて行く。しまいにはくさってついえる。幽霊なんて、見えない方が良い」私の左薬指には桜をかたどったられている。春未との疑似婚約だった。「私とは相性が悪いんだろうか」「そういうわけじゃない。むしろ、良いんじゃないか」適当なことを、冬籠は言う。

幽除ゆうじょかねを知っているか」

 私は、知らない、と答えた。「地縛霊じばくれい浮遊霊ふゆうれいをこの世からのぞく鐘だ」「鳴らせば消えるのか」「分からん。が、そういう鐘があると聞く。どう思う」「どうも思わん」「姉さんを成仏させようとは思わんか」私には答えられない。鍋は沸騰しゃふつを始めていた。色は水色だった。そらが鍋の中で煮立っている。「どこにあるんだ」「北だよ」「春未はともかく、私の家に巣食っている幽霊が消えてくれるのはありがたいな」冬籠は勢い良く囲炉裏の火を消した。「冷めれば完成だ」

 私はまた布団を見た。春未が寝そべっている様子が思い出されるようだった。私と春未は一度も触れたことはなかったが、言葉だけは何度も交わしたし、心と心でまじわった。それは性欲よりもとうとまじわりだった。「北のなんという場所だろう」「そこまでは知らんが、雪の降る地方だそうだ」「ふうん」「年中雪が降っている」「ああ、じゃあ夢川原ゆめがわらだ」「そういうのか」「私は色々なところに行くからな」「引きこもりの私とは違うな」冬籠は鍋に指を突っ込んだ。「瓶を取ってこよう」どうやら風呂くらいの温度にはなっているようだった。「この瓶でも構わんぞ」私は飲み干したコーラの瓶を振った。「きちんと洗ってくるよ」瓶を持って、冬籠は再び勝手に向かった。

 私が未だに身を固めずに女を泣かせているのは春未のことを思うからだろうかと考えてみた。春未が健康的な女だったらどうだろう。しかしそれなら私は春未とは深く知り合わず、恋仲になることもなかったのではないかという気がした。結局は運命論の提示ていじまってしまう。私が春未と出会い、かれ合い、将来をちかおうとしたのも、春未の病が重く、その病を治す術はなく、私と冬籠が幼馴染で、尚且つ冬籠が薬師くすしになろうと思ったからだ。そうした全てが作用して、私という人間は生まれた。そして生きていくのだ。人生の全ての些細ささいな経験と情報が、私という人間を形作る。全てが作用して、私になる。

「いつものようにって使うか、それともして使うか」瓶を持ってきた冬籠が、漏斗ろうと柄杓ひしゃくを使って瓶に目薬を詰めていく。「他にどんな方法があるかな」「錠剤じょうざいにも出来るぞ」「塗り薬にしてくれ」瓶に専用の蓋をつける。ゴムの蓋で、一滴ずつ垂れるようになっている。「いつものように小皿に取って、しばらく置いておくと凝固するから、それをすくって塗るようにな」瓶を渡されて、分かったと返事をした。「じゃあ、姉さんに手でも合わせていってくれ」私は冬籠についていき、仏間ぶつまに向かった。

 冬籠の両親は年に二度しか家に帰らない。金をていた。薬師の大半は隠居いんきょすると金や銀を煮る。だから『五月雨さみだれ薬局やっきょく』にはもう冬籠しか住んでいない。仏間には春未の写真が飾ってある。生前の美しい春未の写真だ。否、死後ですら春未は美しかった。そのうれいをびた表情は何度見ても美しい。死ぬ間際に、永遠に残りたいと言って写真を撮ったのだ。恐らく写真を撮ったせいで、抜け出た魂がこの家を彷徨さまよっているのだろう。射影機しゃえいきあつかったのは私だった。「綺麗だな」私は言った。「なあ」冬籠は私の後ろで正座をしながら言う。「もしやすると、あの時お前が射影機を使ったせいで、姉さんはお前に見えないのかもしれないな」「どういうことだ」「魂の半分ばかりが、お前の中に這入はいってしまったのかもしれん」「まさか」「まさか、と俺も思う」線香せんこうが半分消えるまで、私はずっと仏壇の前にいた。春未が私の中にるのだろうか。いや、彼女はもう過去になった。私はそれから何度、新しい女と出会い、別れただろう。春未もそれを望んでいた。死んだら忘れてくれと。違う女と幸せになれと。それが最後の望みだと言った。その望みを叶えられずにいる私は、愚か者だ。

 帰ろうとすると、「これも持って行け」と軟膏なんこうを渡された。「何用のものだ」と訊くと、「あかぎれだ」と言った。「いや、悪いが、軟膏は駄目だ」私が言うと、冬籠は不思議そうに言った。「塗り薬が好きなんじゃあないのか」「そういうわけじゃないんだ」それなら、と冬籠はゼリィのような液状の薬にえてくれた。「まあ、使うか分からんがね」とは言ったが、恐らく近いうちに、私は『幽除ゆうじょかね』とやらを鳴らしに行くのだろう。もし私の体の中に春未がいるのなら、それを追い払わねばならない。追い払って、幽霊となった春未を見たいと思った。私だけ見られないというのは不公平だ。成仏じょうぶつの一瞬であれ、もう一度視界の中に、春未の姿を収めたい。

 家に戻り、コーラの瓶から滴を小皿に垂らして、しばらく待って凝固した目薬を、左の薬指ですくって、両の目に塗った。私は目薬を塗るのが下手なので、当然、涙をこぼすような形になった。薬は薬指でしか塗れないのだ。薬指だけは春未のものと決めていた。もう幽霊は見えなくなっていた。その瞬間的な消失を、春未に照らし合わせた。しかし彼女はいつまでも常世とこよ彷徨さまよっているべきではない。近いうちに『幽除ゆうじょかね』を鳴らしに行こうと思った。左薬指の付け根を、右の指で押さえる。机にしずくが落ちて、跳ねた。私は目薬を塗るのが下手だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る