『月島零士の空暦』

福岡辰弥

『黒澤温泉街の蛇』

 迷子の少女に両目を隠されてしまった。『黒澤くろさわ温泉街』に傷心しょうしん旅行に来ていた私は、夕方が来る前に温泉をさっと引っかけて、浴衣を着て温泉街を闊歩かっぽしていた。私の泊まっている『頭髪亭とうはつてい』は気の利いた宿で、浴衣に合った鼻緒はなおの赤い下駄げたを貸してくれた。温泉街では、卓球の試合が行われていたり、女の二人連れが手ぬぐいでお互いのつややかな黒髪の水気を取ったりしていた。提灯ちょうちんはまだ日が出ているのにともっていた。狐面きつねめん露店ろてんがあった。店主は狐面を付けていなかった。店主は面を付けなくても狐の顔をしていたからだ。二足歩行で六頭身の狐であった。法被はっぴを着てねじ鉢巻はちまきを頭に巻いていた。まるで縁日えんにちのようだ。狐面を一つすすめられ、一度断ったが、「お兄さんには似合いますから」と言われては無碍むげに出来ない。世辞せじに負けて一枚買った。一枚で五十円だった。細かいのがないので百円払うと、釣りだと言ってもう一枚狐面をくれた。これは女狐めぎつねの面だったから、私には不似合いだ。どうしたものかと辺りを見るが、狐面の似合いそうな女は二人組のさっきお互いで水気を取り合っていた彼女らしかおらず、しかし面は一枚しかない。仕方がないのでおびに引っかけて温泉街を下っていくと、途中にある松の木の下に、金魚の尾ひれみたいな飾り帯を締めた少女がいた。おかっぱ頭の少女で、草履ぞうりを履いていた。顔を伏せていて、一見して迷子だと分かった。「そこのお嬢さん」私が声を掛けても顔は上げなかったが、「なあに」と返事があった。「これをあげるよ」と女狐の面を少女の手に触れさすと、少女はそれを取ってかぶってみせた。顔を上げると、女狐の顔だった。「迷子かい」と訊ねると「そうなの」と返事がある。「家が分からないのかい」と訊ねると「ううん」と首を振る。私はつけていた面を取って「どれ私が連れて行こうか」と言ったと思うと、少女に両目を隠されてしまった。

 

 あまりに突然の出来事で、視覚と聴覚に障害しょうがいきたした。すぐに冷静さと聴覚を取り戻すが、視覚は依然いぜん隠されたままだ。「君がやったのかい」と訊ねると「うん」と少女は言った。「どうしてだい」「お兄さんが綺麗な顔だから」私は女に顔を褒められることが多い。どうにも一日中言葉とか概念とか音と向き合っているばかりで外に出ないから、不健康な肌は真っ白で、汚れた場所にいるからだろう睫毛まつげが長い。他の形は美しかった母譲りだ。体格の大きさは頑丈な父譲りだ。それで得をするならいいが両目を隠されるのなら普通の顔貌がんぼうの方が良かっただろう。「返してくれないか」と言うと、遠くに鈴の音が走って行く。「こっち」と少女の声がする。鈴の鳴るような声だったので、区別が付きづらい。それでも私は鈴の音の鳴る方へ向かえば良かったので、そのまま温泉街を下っていくことにした。

 露店と露天風呂が一緒くたになっているのはきっと洒落しゃれのつもりなんだろう。しばらく歩いて行くと下駄が濡れた。温い湯で、そこが足湯なのだと分かった。左右からステレオフオニックに露店の呼び込みが聞こえる。露店の呼び込みの声が男で良かった。私は真っ直ぐ前にある鈴の音を頼りに歩いていた。足下ではぴちゃぴちゃ、左右からはいらっしゃいいらっしゃい、遠くでチリン。私はそれを追えば良かった。相変わらず『頭髪亭とうはつてい』の女将おかみは気が利いていて、私にあてがった浴衣はすそが少々足りていなかったが、足湯に引っかかることはなかった。足湯を過ぎるとまた地面だった。目が隠されている以上、温泉街をどれほど下ってきたのかは分からない。

 鈴の音が止まると共に、「ここだよ」と声がした。声がしたところまで向かうと、「私の家だよ」と少女が言った。「迷子だったんじゃないのかい」「そうだよ」「一人で帰れたじゃないか」「お兄さんのおかげだよ」お兄さんは私である。どういう意味か訊ねる前に、それが私の両目による功績こうせきだと理解した。「君は目がないのかい」「そう」「どこにやってしまったんだ?」「にえだから」何かに捧げてしまったようだ。「よし、じゃあ私が取り返してやろう」「そんなの無理だよ」「そうでもないかもしれないよ」「おまじないでもするの」「そうだね。君の目を取った者から取り返そう」「そんなこと言って、両目がないとおまじないが出来ないと言うんでしょ」なるほど私が両目を返してもらったらさっさと帰ると思っているようだった。「とにかく私を上げてくれるか」言うがはやいか私はすぐに少女に手を引かれ三和土たたきを踏んでいた。

 どうにも音を察するに、この辺りは民家の集まりであるようだった。温泉街はとうに終わっていたらしい。「ごめんください」と言うが「誰もいないよ」と少女は言った。しかしすぐに「返事の出来る人は誰もいないよ」と言い直した。少女の小さな手に引かれるままに屋内を歩いて急な階段を上がっていく。「階段を一段上ったら、もう底は奈落ならくだよ」と少女は言う。それは当然心得ている。一段上ったが最後、もう地に足を付けることは出来ない。いつでも安定出来て何が成長だろうか。高みを目指すというのは本来そういうことであるはずだ。そしてすぐに登って行かなければ、その段で永遠に止まってしまうではないか。急な階段の必然性とはそうした運命論と似通ったところにあるのだ。

 二階は畳の感触があった。「お母さん」と少女が言った。声はしなかったが気配と気が感じられた。どうやら母親がそこにいるようだ。「寝たきりなの」と少女は言った。万年床まんねんどこに女性が横たわる輪郭りんかくを想像する。私は畳の上に座り込む。狐面を取るのも忘れなかった。そっと隣に面を置いて、正座をした。気配の方を正面として向いた。少女は座らないままだ。「お母さん、今ね、目が見えるよ」返事はない。「お兄さんの両目なの」返事はない。「お兄さんは取り戻せるって」返事はない。「お兄さんに両目を返しても大丈夫かな?」返事はない。「大丈夫だよ」私が返事をした。「もう一階には降りられない。乗りかかった船なのだから、沈まぬ限り大丈夫だ」私が言うと、ふっと視界が戻る。

 万年床の上に裸の女性が横たわっていた。とても若い。私とあまり歳は変わらないだろう。肩にうろこがあるのが分かった。乳房ちぶさ浸食しんしょくしようとしている。のどの辺りもどうも鱗にわれているようで、返事の出来ないのはそのせいだと分かる。ほつがみ淫靡いんびだった。大変な美人なのだろう。何故一糸いっしまとわぬ姿なのか。何故万年床に寝たきりなのか。「お母さんは喋れないんだね」少女に問うたつもりだったが、目の前の女性は首を縦に振った。彼女はどうも肯定と否定と沈黙の三種類を持っているようだった。「お邪魔しております。月島つきしま零士れいしと申します」心なしか母親は安堵あんどしたように見えた。「はじめまして」少女が代わりに答えた。「君の名前は?」「まだつけられていないの」「それはまたどうしてかな」「お母さんはずっと声が聞けないの」「すると五年以上はそのままだということかな」「そうなの」「なるほど。お父さんは?」「にえだから」少女は同じ言葉を繰り返した。

 鱗から察するに蛇の呪いであることは明白だ。私は蛇の対峙は過去に二度経験がある。一度目は大蛇だいじゃだった。処女を五人喰らった大蛇で、これは丸々と太って不潔な大蛇だった。食物や銭をちらつかせて女を根城ねじろに連れ込んでは、丸呑まるのみにしてしまう。私が大蛇を退治したところで、女たちの貞操ていそうは帰らなかった。仕方がないことなのだ。失ったものは帰らない。それは森羅万象しんらばんしょう全てにおいて同じことであった。二度目は蛇女へびおんなだった。舌の長い女で、目つきの悪い女だった。しかし美しかった。酒を飲んでいるところにその女はいた。私はその女に誘われて五度ほど同じ布団で眠りにいた。六度目に女は本性を現して、私の子を身籠みごもろうとした。一度絡みつかれては蛇女から逃れる術はない。私は真っ当な人間でありたかった。蛇と血族になるつもりはない。結局私はその女から逃れるために全力を尽くした。家を三度変えた。それでも追って来た蛇女を、ついに叩きのめした。女は今どこかの牢獄ろうごく幽閉ゆうへいされていると聞く。平凡へいぼんな人生を望めば良かったものをと今も思う。

「蛇はどこだい」私は訊ねた。「屋根裏にいるよ」それは当然と言えば当然の住処すみかだ。蛇に限らず、他人を掌握しょうあくしようとする者は高いところに住みたがる。殿様とのさま天守閣てんしゅかくもろうとするのに似ていた。「じゃあ、ちょっと行ってこよう」「屋根裏に行ったら、帰ってこられないよ」それも当然のことだった。一度高みを目指せば帰ってはこられない。けれど堕落だらくなら出来る。いざとなったらそこで手に入れた全てを投げ打って地に落ちてしまえば良い。また一から作り直すのは大変骨が折れることだが、つまらん山頂で暮らすよりも、居心地の良い山小屋で生活する方がよほど人間として正しいと思える。

 屋根裏へは二階へ上がるよりもさらに急な階段があった。人一人分の幅しかない階段である。蛇はここを通じているようだ。蛇という生き物は狡賢こざかしく、人生と無縁である。人でないのだから当然かもしれない。人生と無縁であると、昇降しょうこう容易たやすい。自尊心というものがないからだ。蛇が通ったぬめ跡があって、それが私の足裏を舐めていく。不快だったので、足早に階段を上った。蛇は屋根裏に敷いた万年床の上に寝転がっていた。周囲に一升瓶が散乱していた。階下にいる女を好き放題しているはずなのに、裸の女の写真が何葉なんようもあった。憎悪ぞうお嫌悪けんおは似ているが、それは何も字の問題ではない。一緒くたになった感情が私の腹で煮沸しゃふつされて、蒸気は声になって私の口から出てくる。

「随分と好き勝手しているようだ」

 私の声で目を覚ましたようで、今まで眠っていた蛇はごろりとこちらを向いた。大蛇と呼ぶほどの大きさはない。しかし力が強そうだった。目つきが悪い。蛇睨へびにらみとはまさにこのことだろう。自分が蛙でなくて良かったと思うのはこれでもう三度目だ。「誰だてめえは」蛇は流暢な人語を話す。「月島零士という」「聞かねえ名だ」「東から来た」「何の用だ」「蛇退治だ」「おう、おうおう、勝手に人の家に上がり込みやがって、しかも俺の部屋まで上がり込みやがって、ちょっとしつけがなってねえんじゃねえのかい」まるでやくざ者だ。私はほとほとあきれるが、それは何も相手の蛇に限ってのことではなかった。私は丸腰だった。ちょっと散歩でもと思って宿を出たので、荷物の一切は『頭髪亭とうはつてい』に預けたままだった。赤い鼻緒の下駄も三和土に捨ててあるし、狐の面も外してしまった。浴衣の下は全裸である。帯と浴衣以外、頼れる物は頭しかない。

 血の気の多い蛇はさっと起き上がったかと思うと、私の周囲をぐるりと取り囲んだ。蛇に締め付けられたら最後、人生は絶える。私はハッと飛び上がり、蛇の収縮を上に回避した。そのまま部屋の隅に逃げ込む。蛇と対峙する場合においては、一見追い詰められるように見えても、部屋の隅に逃げ込んでしまった方が良い。蛇の攻撃は主に締め付けるのと睨み付けるのと噛みつくのしかない。このうち一つは私には効果がなかったし、もう一つを封じてしまうことが出来るのだ。しかし必然、私は蛇に追い詰められる形になった。丸腰なのだから仕方がない。無鉄砲も良いところだろう。もし次回があれば、このようなことがないように反省したい。「」大声を出しながら、蛇は勢い良く私に大きく開いた口を向けて、その中にある牙を突き刺そうとしてきた。体勢を崩し、かがみ込むようにしてそれを避ける。蛇の頭が壁に当たる。そのまま蛇の頭の背後を取る。自分と同じ大きさの蛇というのは戦いづらい。後ろに回って蛇の首根っこにしがみついた。そのまま全身全霊を込めてそれを締め付けようとする。苦しそうなうめき声がすると思うと、蛇の下半身が私を引きがそうと様々な行動を取り始めた。叩いてみたり、巻き付いてみたり、私の腕を剥がそうとしたり、であった。しかしながら、蛇という生き物は構造上、首根っこを掴まれてしまったら最後なのだ。蛇はあっけなく死んでしまった。亡骸なきがらからは紫色をした液体がどろどろと流れてくる。これは蛇の体液か霊魂れいこんのどちらかであろう。空の一升瓶にその体液を詰めて、同じように足裏に塗った。こうすることで私は屋根裏から降りることが出来るようになった。一時的に、人生と無縁になれる。

 一階に降りると、万年床で、まるで死んでいるようにしていた母親が、私に向かって土下座の姿勢を取っていた。「どうぞお顔を上げてください」そう言って、体液を母親の肩口や首元に塗り込んでやる。蛇の鱗はみるみるうちに溶けてなくなってしまった。「ありがとうございますありがとうございます」母親は緊張でもしているように、繰り返しお礼の言葉を口にした。少女の方はと言えば、「お兄さんありがとう」と鈴を鳴らしただけだった。しかし私には心地良い響きだった。「ずっと蛇に取りかれていたんですね。でももう大丈夫ですよ。蛇は殺してしまいましたから」「ありがとうございます。これで怯えた生活をせずに済みます。娘も喰らわれることはなかったでしょう」母親にはそれはとても切迫せっぱくした問題であったようだ。私は畳に置いたままだった狐面を取って、それを被った。「お兄さん、どこへ行くの」少女が問うた。「これから宿に帰るよ」「ここに住めば良いのに。お部屋もあるのよ」「私は自分の家を持っているからね」「そう」悲しそうな表情で、少女は言った。「また会おうね」「そうありたいね」母親はいそいそと服を着ていた。今まで蛇が気が向いた時にただ蹂躙じゅうりんされるだけの生活だったのだろう。そしていずれは少女もそうされる予定だったのだろう。なんとも胸くその悪い話だ。それを阻止できただけでも、私がこの世に生を受けた意味はあるのではないだろうか。

鈴子すずこ」母親が口を開いた。「この方を宿まで送り届けなさい」「鈴子って」「あなたの名よ」少女は、ねえ聞いた、とでも言うような表情で私を見た。「綺麗な名前だね。あつらえたようだ」「誂えたのです」母親が言った。「ねえお兄さん、私、送って行く」「行きは良い良い、という歌を知らないのか」「今までより怖い帰り道なんてない」それもそうだと思った。今までは、帰った先に蛇がいたのだから。それ以上に怖い帰り道などないだろう。「しかし目が見えないのだろう」「もう見える」そう少女は言った。「今までお母さんが蛇に喰らわれるのが怖くて開けないようにしていたの」「それは辛かったね」「お兄さんのおかげだからもう大丈夫」鈴子は私の手を引く。手首に鈴を付けていた。チリンと鳴る。「おそろいよ」鈴子は女狐の面をつけた。私と鈴子は蛇の体液を足裏に塗りつけて、一階へ降り、下駄と草履を履いて帰路を上がっていく。どうも温泉街から離れたこの民家の群れの辺りは、そこかしこに奈落と暗黒あんこくが同居していて、そこかしこに猩々しょうじょうの群れや、死神しにがみ然とした黒い服の男たちが多くいた。かと思えば、股を開いた女が私を誘う。頭の漆喰しっくいがなくなった男が多くいる。そこらで食事が行われていた。大樹たいじゅにしがみついている女と、その女にしがみつく男。誰一人として大人しくとどまっている者はいなかった。ここは遊郭ゆうかくよりも始末が悪い。この世の終わりのようだった。こんなところに鈴子を住まわせておいたのでは、貞操がいくらあっても足りないとも思えた。しかし私とは無関係の少女だ。

 足湯の辺りまでやってくると、温泉街の活気が戻って来た。「お兄さんはどこに泊まっているの」「頭髪亭とうはつていという宿だよ」「この辺で一番良いお宿ね」「そうなのか」ちゃぷちゃぷと足湯を抜けていく。私は無意識に、蛇殺しの罪から足を洗う結果になった。これでもう蛇殺しは出来なくなる。「ねえお兄さん、お金持ち?」「いくらかは持っているよ」「頭髪亭とうはつていに泊まるくらいだものね」「一番安い宿は?」「爪先亭つまさきてい」「ふうん。そりゃ足の爪かい」「頭髪が一等なんだから、そりゃあそうよ」そういうものかもしれなかった。「それはね、私たちが住んでいるあたりよりもっと下にあるの」「するとあの辺はまだ温泉街なのかい」「私たちが住んでいるあたりには、大腿亭だいたいていがあるの」道理で性が乱れているわけだと思った。道の途中に『眼球亭がんきゅうてい』の看板を見た。もうすぐ『頭髪亭とうはつてい』だろうと当たりが付いた。行きに出会った狐がいた。「いやあお兄さん、お面お似合いですなあ。ただしそれは付けてっちゃあなりません」「なんだいお面屋」「あんた、悪い人じゃありませんやろ」「悪いかどうかは観測者にる」「あっしの見立てでは悪い人ではありません」面屋は私に、何故かまた別の面を勧めた。「五十円です」「馬鹿な。金を取るのか。交換すればいいだろう」「商売でっから」「いらんよ。一枚あれば十分だ」「あとで後悔しまっせお兄さん」そう言われては引き下がるわけには行かない。私は後悔とは無縁の生き方をしようと決めていた。また五十円がなかったので、百円を渡す。「おおきに。これ、お釣りです」また女狐の面を渡してくれる。それは同じように鈴子にやった。「その面は捨てておきなさい」狐の勧める通り、二人して面を『眼球亭がんきゅうてい』の庭に投げ込んだ。

 行きに会った二人の女はまだ水気を拭いていた。美人が二人だった。「もし」女が口を利いた。「お兄さん、どちらへ?」「頭髪亭とうはつていだ」「あらあん」まるで私の財力を知ったかのような視線を向けてくる。「二人で千円よ」「何をしてくれるんだい」「妊娠以外なら全部」「行こう」鈴子が私の手を引いた。「私なら、全部出来るんだから」と、鈴子は機嫌の悪そうな口調で言った。鈴子の頭が、もう私の肩あたりにあることに気付いた。さっきまで子どもだと思っていたのに、すっかり女性らしさを持ち始めている。子どもは成長が早い。きっともう十五歳にはなっていることだろう。十年という月日はあっという間に過ぎる。坂道を上るようなものだ。あるいは鈴子の歳は、この温泉街の坂道にならっているのだろうか。「鈴子」「なあにお兄さん」「ここで別れよう」「お部屋まで行くつもりはないよ。旅館の前くらいまで」「そうだとしてもだ」「私は面倒にはなりたくないの」「君は若いからね」「蛇には食べられていないよ」「そういう問題ではないのだ」鈴子の手を離す。『頭髪亭とうはつてい』のすぐ前だった。「もう会えない?」「そうだね。私は明日の朝にはつから」「色々ありがとう」「ああ」「このお面、ずっと大切にするから」「私もこの面に君を想うよ」鈴子は面を外すと、私に抱きついた。少し足を伸ばす。頬に口づけをしようとしたのが分かった。「もし私が蛇の娘だったら、どうする」口づけの手前で、鈴子が言った。「どうもしないよ」「殺さないの」「女は殺さないのだ」鈴子は小さく口づけをした。もう立派な大人の女だ。接吻せっぷんで女は大人になった。「さようなら、零士さん」金魚の尾ひれはどこかに行ってしまった。「愛していました」まるで十何年も知り合っていたような口調だった。


「さようなら鈴子」


 私が部屋に戻ろうとすると、女将がやってきて、「お散歩はいかがでしたか」と訊ねた。緊張した面持ちだった。

「狐の面屋に勉強させられまして」

「そう。お面はどちら」

「こいつです」

 持っていた面を見せると、女将はほっと胸をなで下ろした。

「どうもね、坂を下ったところにある民家で、殺人があったみたいで。ろくでもない亭主だったもんですから、殺人自体は別に大したことじゃないんですけれど、問題なのは誰が殺したかってことですよ。ここは旅の人が多いですからね、あたしゃ心配していたんです。どうも犯人はお面をしていたって。それがねえ、黒い狐のお面だったと言うんです。でも、お客様のは白いですもんね。ええ、もちろん、疑っているというわけではないんですよ」

 私がふんふんと話を聞いていると、女将の元に従業員の一人がやってきて、新情報だと騒ぎ立てている。私も一緒になってその話を聞いた。

「大変ですよ女将さん。なんでも、『眼球亭がんきゅうてい』の庭に、黒い狐の面が落ちていたんですって。犯人は『眼球亭がんきゅうてい』の宿泊客じゃないかって噂で持ちきりですよ」

「まあ。ねえお客様、どうかこれからはお外に出ないようにしてくださいましね。お外になんか出なくたって、温泉でゆっくりしていれば良いんですから」

「そうですな。そうさせてもらいます」

 部屋に戻らずそのまま温泉に向かって、裸になった。私の体は、すみやらのろいやら刀傷かたなきずやらじんやらが刻み込まれていた。左の手首に見慣れぬ紋章があった。鈴の形をしていた。つ、と撫でる。頬に触れる感触があった。体中に女との思い出をのこして行く。私は悪い男だった。女に甘く、女に弱い。かと想えば簡単に男を殺す。どうしようもない人間だ。湯に浸かっても、鈴の紋章は消えようとしない。思い出なのだから当然であった。消えない思い出は体中に刻み込まれている。遠くでチリンと音が鳴る。両目は返してもらったが、耳は盗まれたままであるようだ。

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