第19話

 幻想世界。誰かの夢世界。そこは存在しない世界。


 男は歩いていた。かつて自分が生きていた場所なのは確かなのに、全く違うその世界を。本当にこれは自分のいた世界なのだろうか。

 暗闇に包まれて人の気を感じさせないのに常に呻き声のようなものが耳元を掠める、地獄とも呼べる世界を。心臓を掴まれた心地になって、だが足を止めるわけにもいかないのでそこを歩き続ける。生きた心地が全くしなかった何百年かと比べると、今は生を目の前に突きつけられているようだ。ジリジリと頬を焼きつけるように、命の存在を。


 誰もいないのだろうか。自分だけの足音が響く。ここは何の建物なのだろう。明かりもなく、真っ暗で何も見えない。

 自分はなぜ歩いてるのかも理解してない。ただ、心がそこへ行けと指示を出す。体はそれに従うしかない。


 一体どのくらいの時間歩き続けたのか、扉が目の前に現れた。黒い扉。ドアノブだけが金色に光っている。男はその扉を開けた。


 何もない場所だったのに、突如として研究室のような場所が目の前に広がった。黒く、機械から出るたくさんの色の光がこの巨大な部屋を照らす。紙や道具が床に散らばっている。男はその紙を拾う。

 男は、その紙に書いてある文字を読むことができた。ブリュウェルテ語で書かれたそのメモを。夢世界創造計画と書かれたそのメモは水で滲んでしまっていてその内容まで見ることはできないが、自分以外が書いたその文字を見て男は言葉を失っていた。

 どこかで見たような文字を見て。


 男はその紙をズボンのポケットにしまって歩き出す。所々で電気の流れる音が聞こえる。水の滴る音が聞こえる。男の足音が異様に響いていた。

 しばらく歩いていくと下に行ける簡易的な階段を見つけた。吹き抜けになっており、下の様子を見ることができたので男は下を見下ろした。その光景に男は息を呑む。


 人間の身長の三倍ほどはありそうな巨大カプセルが大量に無造作に置かれている。中には倒れているものもあり、その下にはトロトロとした水が溜まっている。あれは、水なのだろうか。色も見る角度によって異なる。


 男は意を決してその錆びた階段を下りていく。空気が変わったのを感じる。ピリピリとした冷たく痛い空気が肌に当たりながらも男はそこを歩いていく。

 目の前にはそのカプセルの中でも特に巨大なカプセルがあった。全てのカプセルの蓋部分についている線はこの中心にあるカプセルに繋がっている。何かを集めているのだろうか。巨大カプセルの中には何もないのに常に水の中で泡を発生させている。

 男は周囲にあるカプセルを見る。男は目を見開いた。そこには目を閉じている人間が何人か入っていた。一つのカプセルに一人。死んでいるように見えるが、どこか彼らから死は感じられない。


 カプセルの前にはそれぞれタッチパネルのような物があり、そこには赤と青と黄の大小様々なボタンがある。幸い、そのボタンが何を表しているのかはブリュウェルテ語で書かれており、男はその文字を確かめるように見ていく。

 どうやら赤はカプセルの状態を操作し、青はカプセル内の人間を操作し、黄は緊急用のボタンらしい。男はしばらく中心の巨大カプセルを眺めていた。透明なようで白いようで青いようで、赤いようで。不思議な水。これは一体何に使う物なのだろうか。この場所は誰の物で、どんな目的で行っているのだろうか。

 男は次々に溢れ出る疑問を止めることはできない。


 そのとき、男は水が動く音が聞こえて右を向いた。

 そこの奥にあるカプセルで唯一目を開けてこちらを見つめる人間がいた。普通であれば腰を抜かして驚き恐怖するだろう。だが、男は不思議なことに驚きはしなかった。その人間に近づいていく。その人を、知っている。


 裏世界に黒髪の人間なんていない。不幸の象徴と言われて裏世界に黒い物は存在しなかったから。黒に近い色と言えば濃い青とか、濃い緑とか。そういう色だけ。だから男はこの人間を知ることもないのだ。なのに、男はその人を知っていた。


 一方でカプセルに入っている人間、少女も男を知っているのか目を大きく開いて男を見つめていた。そのカプセルに手をつけて顔を近づける。体をくっつけて、男により近づこうとして。男はカプセル越しに少女の手と自分の手を重ねる。温かみを感じて、男はなぜか安心するのだ。ずっと、それを望んでいたかのように。少女が目の前にいることを、ひどく望んでいたように。胸が焦がれる。


 男は無意識の内にパネルを操作していた。赤色のボタンを押すと上の蓋が自動的に開く。中に入っていた少女はその水に体を包まれるとカプセルの外に出され、体が水面に浮いていた。体を包んでいた水はバラバラに散らばる。

 男はそんな少女に向かって左腕を広げる。両腕がないのが怖いのか少女はなかなか下りてこない。男は少女に訴えるように見つめる。しばらくして少女は唾を飲み込んで男に向かって飛び降りる。男は片腕で少女を抱きとめた。

 少女の体は水に濡れていて、寒さからか身震いをする。男は着ていた紺色のジャケットを少女に羽織らせる。男はまじまじと少女を見つめる。彼女は誰だろう。知っているのに、何も分からない。


 男は左手を少女に向けて差し出す。


「はじめまして。私は、ヴォルファリュクス」


 少女は瞬きを繰り返して男の顔とその手を見つめる。少女も何かを思っているのだろうか。目があちこちに泳いでいる。しばらくして恐る恐る少女は男の大きな手と自分の手を合わせる。


「はじめまして。私は北条梨湖です」


 梨湖はきごちない笑みを浮かべる。ヴォルファリュクスは梨湖の手を強く、優しく握り返した。互いの手は温かい。


 二人はカプセルを眺めながら今までの記憶を辿るように話していく。が、肝心なところが抜けているようで共通点も何もかもが欠けている。それに、どうしてお互いがお互いのことを見たことがあるような気がしているのかも分からない。名前も初めて聞いたのに、顔はどこか知っているのだ。


 様々なカプセルには人が入っている。カプセルは全部で二十六個あり、その中で人が入っているのは十個だ。老若男女、共通点の見当たらない人間が梨湖と同じように目を閉じて水に包まれてカプセル内にて浮いていた。その光景は何とも奇妙で不気味だ。

 しかも二人はその中にいる人間を見たことがあった。

 梨湖がヴォルファリュクスを知っていたように。ヴォルファリュクスが梨湖を知っていたように。

 ここが一体どんな場所なのか二人はまだ理解できない。


 そのとき。二人のものではない足音が響いた。

 二人は人の入っていないカプセルの後ろに咄嗟に隠れる。人の気配がしなかったのは気のせいだったのだろうか。梨湖は恐怖からか激しく脈打つ心臓を少しでも抑えるように深呼吸をする。


「イュレの準備はどうだ」

「できている。そのカプセルでどうぞお好きなように」


 年老いた男と若い男の声が聞こえる。まるで神のような威厳さを放つ年老いた男はゆっくりと階段を下りて中心にある巨大カプセルに近づく。若い男はその後をついて、どこか気の抜けた声で説明する。

 年老いた男はそのカプセルに吸い込まれるように小走りになる。そして声を震わせながら口を開けてはカプセルの中を見つめる。


「さあ。世界がまた絶望する」


 年老いた男はどこか興奮したように言うとパネルを操作していく。すると、カプセルの中の水が突然激しく渦巻く。カプセルの中に入っていた何かが断末魔のような叫びを上げる。

 あまりにも一瞬のことだった。その水が下に吸い込まれていくと、それは何も入っていない透明なただのカプセルになる。

 年老いた男はその様子を見逃すことなく目に焼きつけるように見ていた。まるで恋焦がれるように。


 ヴォルファリュクスと梨湖はその光景に引きつけられるように視線を動かすことができなかった。


 梨湖は若い男の鋭い視線と重なった気がした。

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