第18話

 皆、名前を忘れている。自分が何者だったのかも。

 過去の記憶があるのはあの世界で五人だけ。


 イュレは、唯一の理解者であるマルーアの部屋にいた。マルーアはオリーブ色の短い髪に白色の瞳を持つ、ベレトと同じG世界出身者。村の生まれで何も教養がないため、少しおかしなイュレを理解し受け止めてくれている。

 どんな姿になっても。


「イュレ最近無理しすぎ。少し休んで」

「大丈夫よ。それに、シュトゥルが力をくれているから問題ないわ。私はやれる」


 マルーアの忠告に笑顔で頷くイュレ。だが、その額には汗が滲んでいた。マルーアはそっと手にあるコップに視線を落とす。


 イュレがおかしくなったのは、今から四百年前くらいから。良い人だった。優しくて面倒見の良いお姉さん。仕事もできて右も左も分からないマルーアに色々教えてくれたのはイュレだった。イュレはシュトゥルに反抗していた。だからマルーアもシュトゥルに反抗、とは言えないが深く関わらないようにしていた。イュレが思うように。


 ずっと、イュレと一緒にいたはずだったのに。イュレが知らぬ間に考えを変えて、何かが狂っていくのに気づくことができなかった。

 その自分の無力感を感じながらも、マルーアはどうにかしようと思わなかった。イュレが、幸せならそれで良い。イュレが望むように。イュレが助けて欲しいなら助ける。

 だから、今はシュトゥルを支持する。そうすることを体が望んでいる。


「シュトゥルのせい?」

「そんなわけない。私が望んでいるの。シュトゥルの理想のために何でもするって、あなたにも言ったじゃない」

「うん。聞いた。でも、そのせいでイュレが壊れちゃうなら、私は──」

「本当に大丈夫だから。私は、希望なんて要らないのよ」


 イュレは腕を片方の手で掴みながら言う。その腕が震えているのを、マルーアはただじっと見つめる。

 その手を握ってやれたら何か変わっただろうか。抱きしめてあげたら。言葉をかけてあげたら。

 マルーアは何もできなかった。


 マルーアがイュレの姿を見たのは、それで最後。イュレはこの暗闇の世界から突如として姿を消した。


 マルーアは一人で暗闇を歩いていた。足音も何も響かない場所で。本当に自分は存在しているのだろうか。自分は、一体何なのだろう。

 そんな考えが巡るようになったのも全てイュレのせいだろう。イュレがマルーアに昔よく言っていた。自分のことを忘れないでいられるのは周りに人がいるから、と。近くにいるのはいつだってイュレ。そんなイュレがいなくなった今。マルーアは自分のことなどいとも簡単に忘れてしまいそうだ。


 でも、それでも良いと思える。今はマルーア。自分は、初めからマルーアだったのだと。そう思えば良い。

 止める人は、もういない。


 マルーアはシュトゥルに会いに行った。イュレのことを聞こうと思った。幻想世界に時間の感覚はない。どのくらい経っているのか、何も分からない。

 顎髭をいつものように弄っているシュトゥルを、鋭く見つめる。シュトゥルはそんなマルーアを穏やかに見た。


「イュレは、どこに?」

「ああマルーア。可哀想に」


 シュトゥルはマルーアの問いには答えずにマルーアに近づいてハグをした。マルーアはされるがままだ。


「イュレはあなたのために頑張っていた。イュレを休ませてあげて」

「ああ、イュレはよく頑張った。イュレの魂が休めてから八千年経ったから、もう大丈夫」


 マルーアはシュトゥルの腕の中で目を見開く。教養はないが時間の読み方まで分からないほど馬鹿ではない。八千年という言葉が脳内に駆け巡る。

 自分は、イュレがいない時間、八千年もの間。

 訳が分からないまま、マルーアはシュトゥルにソファに座らせられる。マルーアの瞳はあちこちに移ろう。


「そんなことない、だって少し前まで、私たち」

「心という物は万能だ。ワシが願えばどんな願いでも叶う。それがワシの力。だがな、ワシができないことがある。だから裏世界なんて物があったらしいがな」


 シュトゥルは手を開いては閉じ、握りしめる。その全てが叶う手を。希望の象徴を。

 マルーアはただシュトゥルのその言葉を耳にすることしかできない。


「ワシができないことも、心が叶えてくれる。全ては理想のため。イュレも承諾してくれた」


 シュトゥルは微笑んで言う。暖かいはずなのにどこか寒気がするのはなぜだろう。マルーアは自分の手先が震えているのに気づけない。

 大体、察しがついたのだ。イュレはこの世界から完全に消えてしまったのだと。


「別れの言葉、何も聞いてない」

「イュレがそれを望まなかったから。望みは叶えるものだろう?」

「イュレの所に行かせて。それが私の望み。叶えてよ」


 せがむようにマルーアはシュトゥルに訴える。だが、シュトゥルは首を横に振った。


「お前は気に入られているんだ。殺すことはない」

「気に入られてるって、誰に」

「世界だよ」


 シュトゥルはそう言うと口を開けて呆然とするマルーアに近づく。そしてその手を向けた。


「幕が開くまで、お前さんは寝ていると良い」


 マルーアは酷い眠気に誘われる。

 眠ることなどできないのに。


 ◇◆◇◆◇◆


 どのくらい時間が経っただろう。何も分からない。浮遊感を感じる。そして、何かに包まれているような。目を開きたくともそれを許してくれない。誰かが強く目を塞いでいるように、目が開かない。

 考えることを止めさせたいのか、何も考えられないほどの眠気を感じる。

 リヴは……いや、これはリヴではない。北条梨湖は、ただ揺蕩い続けていた。誰にも気づかれない、誰にも会えない暗闇で一人。なぜか感情を覚えて。

 まるで、体と心がバラバラで存在しているよう。


 そのとき、梨湖は誰かに掴まれたような気になった。そこに誰もいない。でも、誰かに強く訴えられているように。


 誰の手だろう。誰の声だろう。なぜか安心できる。梨湖はその声を知らないのに。

 伸ばす手もないからそこにいるしかできない。


「……苦しい。なんで私はここにいるの? ここはどこ?」


 そう言いながら

 巨大カプセルの中に不思議な色の水が入っていて、そこに梨湖は入っていた。先程は体がなかったのに、今は手も足も顔も、体がそこにあった。白色のワンピースが水の動きと共に揺らめく。

 水の中にいるのに苦しくはない。梨湖は上の方に泳いでいく。どんなに押しても引いても何もびくりともしない。

 梨湖は下の方に戻って外の方を見るべく透明の壁の方に身を寄せた。梨湖は、目の前に広がった光景に息を呑んだ。


 巨大カプセルがいくつもある。そして、その中に人が入っているカプセルもあった。そんな異質な場所に一人、外で歩いている人が見える。水のせいでよく見えないが、その姿には見覚えがあった。


 その人は梨湖の存在に気づいたのかおぼつかない足取りで梨湖の入るカプセルに近づいた。

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