第16話

 とても、懐かしい温かさを感じた。


 目を開けた。体が日差しを吸収している。それがすごく、気持ちが良い。


「お兄様、おはようございます」


 いつものように、まだ幼い妹が自分の上に乗っていた。夜空のように黒く煌めく髪を優しく撫でてやる。嬉しそうに、少女は目を細めて微笑む。そんな少女に笑顔を向けて挨拶を。


「おはよう。……あ、あぁ」


 両手で口を塞ぐ。いつもなら覚えてる名を、思い出せない。そんな様子のおかしい兄に対しても少女は同様などせず大人しくその体の上から下りる。シワを伸ばすようにスカートを叩いた。


「ご飯を食べに行きましょう、お兄様」


 少女は兄である男の手を引いて部屋を出た。白で統一された清楚な印象を持たせる大きな城。それは世界を統べる王の住む城だった。

 召使いが大勢いる部屋には朝ご飯とは思えないほどの量の食事が用意されている。そこに着くと二人は手を引かれるようにして椅子に座らせられる。

 メイドが手際よく湯気の立ちのぼる料理を運んできた。


「本日はいかが致しましょうか」

「柔らかいパンを二つ。温かいパンプキンスープも欲しいわ。あと、スクランブルエッグでしょう。あと──」

「姫、朝は軽く済ませろとのこと、王妃よりお言葉を預かっております」


 老いた執事が少女の座っている椅子の斜め後ろでお辞儀をしながら言う。しかし、少女はそこに置かれていたナイフを執事のいる方向へ投げる。その光景に男は何も言えずただ見つめる。


「王妃のお言葉ですので」

「言わなければ分からないわ。そうですわよね、お兄様」


 助けを求めるように。少女は甘えた声で言ったが、男は何も反応を示さない。少女は微笑むと執事を睨むようにして見た。


「お前はクビ。家族諸共この世界から消してやる」


 呪いのように、吐き捨てるように少女は言う。顔を青くさせた執事は必死に弁明してみせたが、聞く耳持たず。執事は数人の召使いにつまみ出された。


 人形のように熱々のスープを飲んでいた男は目を見開いた。何か重要なことを思い出したように。


「……私は」


 男がそこまで言うと少女はメイドに目配せをする。メイドはすぐに男の目を塞ぎ顎を掴んで顔を上に上げさせる。もう一人のメイドが飲んでいたスープの皿を持ち上げてその口に流し込んでいく。口から湯気が上がる。


「ずっと夢見ていて。ここは、お兄様のための世界なんだから」


 無邪気なあどけなさの残る微笑みはどこまでも底の見えない沼地のように、掴んで離さない。逃げることなどできない。


 しばらくの間、舌がピリピリと痺れて痛かった。


 何かを忘れているような気がするのに。少女はそれを許してくれない。

 君を救わせて欲しいだけなのに。


 ……君って、誰だ。この少女の名は。この少女は。


 誰だ。


 ◇◆◇◆◇◆


 少女はに問いかける。

 男はその闇のように深い深い瞳のその奥に閉じ込められた心をさらに封じ込める。


 そして、少女の手を取る。


 彼は幻想世界で一人目の死神となった。


 暗闇に一人。おかしな世界に一人。


「私は、何のために生きたのだ」

「……、…………。…………、…」


 ノイズのような声が男を襲う。稲妻のような電流が男の耳から体に一斉に流れ出す。何も聞き取れない。

 少女は暗闇の奥を見つたまま、口を開けていた。


 まだ。そのときじゃない。


 ◇◆◇◆◇◆


 少女は男に命令を出した。

 男は自分に眠る壊れてしまった心を取り出す。そして、それを少女に渡す。


 少女は、それを跡形もなく潰してしまう。男に痛みはない。ただ、何かが崩れ落ちてしまった気がした。


 何かが大きく崩壊する音がした。地響きのように。全てが終わる音。


 男は気づくと見たことのない場所にいた。地面がバラバラになって家も何もかもがごちゃごちゃで。人の呻き声なのか、はたまた死んだ者の声か。

 男にはたくさんの人間が見えていた。だが、何かがおかしい人間ばかりだ。そしてすぐにそれが少女の言う死者だと気づく。


 その中で少女の言った通り、この異質な人間に溢れた世界で特に目立っている異質な存在がいた。甘さ、苦さ、酸っぱさ。色々な匂いが漂う世界で唯一匂いを纏わない人間。男と同じ目をした人間。


 瓦礫に体を預ける少年の手を取って、ハグをした。少年は体に残る全ての物を吐き出すように息を吐く。少年の体は冷たい。男は心が冷たかった。


 少女はそんな二人の様子をただ見つめる。ただただ。


 まだ。足りない。


 ◇◆◇◆◇◆


 おはよう。可愛らしい子。

 あなたにだけ秘密を教えてあげようかな。うーん。やっぱやめた。

 だってあなた、きっとこの世界を壊してしまうもの。わたくしが作った世界を。容易く。無惨にね。

 あなたの心、とったも綺麗よ。顔も体も綺麗だけど、心が一番綺麗。だからお気に入り。大好き。だってそれはこの世界の全てなのだから。でも、お兄様が一番綺麗なの。


 気に食わないわ。お兄様は私の物よ。私のためなら何だってしてくれるのよ。何だってね。心だって壊してくれるの。私のために。

 私のために。

 どんなことも。


 汚い心は使ってやらないといけない。だって、お兄様が教えてくれたのよ。綺麗な物だけがお前の物だって。汚い物があれば消してしまえば良い。この世の万物全てが、私の。

 だからね。汚い物はもうこの世界のために使ってあげてるの。こうして私とあなたが出会えたのも、そのおかげよ。


 知ってるわよ。あなたの心なら。ずっと見てるもの。ずっとずっと、愛しんでるわ。大好きな物は大事な場所に。私がずっと。ずっと、探してた。


 誰かに恋をしているの?

 あら。でもあなたはそんなことも分からないんだっけ。あの感情は愛情? それとも母性? 何かしら。私気になるわ。あなたはどんな顔をするの?

 でも、今はだめよ。まだ眠っていて。起きちゃだめ。綺麗なものたちには、私が用意した完全な世界にご招待したいもの。だから、まだ夢を見ていて。

 幸せな夢を。

 汚いものが仕事をしてくれているから。私たちは休んでその完成を待ちましょう。


 大丈夫。すぐに時はやってくるわ。永遠があなたを包んでくれるもの。


 起こしてあげるから、待っててね。


 大好き。

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