第5話
ロウは歩きながら自分の後ろをまるでひよこのようについてくるリヴのことを考えていた。
希望を一切感じない目。その目には自分と同じダイヤモンドの形がある。
可哀想に。
最初、この少女と出会ったときにそう思った。
絶望の理由はたくさんある。
ロウの場合は裏切りにあった絶望だ。彼らがロウを正義だと言い、それを信じて彼らの上に立って生きていた。皆のために。暗闇だけが流れる空間で、希望も何もないその場所で。彼らのために。
だが、そう正義が動かしていたロウの心を彼らはいとも簡単に壊した。彼らを信じていた無垢な心が信じていた者に踏み荒らされて、砕け散るように心は消え、絶望した。
リヴの事情をロウは何も知らないがこのダイヤモンドを見てある程度の推測ができた。
B世界。ニホン。成年になったばかりの高校生。
ロウが彼女を見つけたのは薄暗い学校の倉庫。
死んでいるのに何の匂いも感じない。
四百年仕事し続けて初めての経験だった。希望を何も感じないその目を見て、体が震えたほどに。
ロウは彼女の絶望を慰めるように頭を撫でた。拒みはしないが涙を流すこともない。まさに自分たちと同じものを感じてロウは微笑んだ。愛しく思うはずもない心が和らぐように。どこか懐かしかった。
ロウは思う。リヴの働く姿は先輩やシュトゥルに直接見て欲しいくらいだった。どうせシュトゥルが見ているところに先輩が集まって、間接的に観察しているとは思うが。
自分でも目を見張るものだった。初めての仕事で、まだ人生経験の浅い十代の内に死んだ少女。それなのに、彼女が世界の外へ連れ出す様は誰であろうと恐れてしまうほど。死者が自分の強い未練をあっさり捨てたのを見たとき、失われた心が震えた感じがした。
このとき、生前の自分だったら何を思っただろうか。絶望する前の、正義に満ち溢れていたあの頃なら。もう四百年も経ってしまえば自分がどんな性格で、 何を思いながら日々を生きて、どんな顔をして笑っていたかすら分からなくなってくる。
その顔に靄がかかったように自分の心が消えたとき、まるで違う人間になったみたいだ。
自分は何のためにこの世界にいるのか。
「ロウさん。あのサラリーマン、死者じゃないですか?」
ロウはリヴの問いかけに我に返ってリヴが指さす先を見る。確かにスーツを着てスマホ片手に交差点を歩く若い男性は死んでいる。大方自分が死んだことに自覚がなく出勤しているのだろう。
「声をかけましょう。大丈夫、私たちの姿も生者には見えてませんよ」
ロウがそう言うと颯爽と歩いてしまうサラリーマンの肩に手を置いてその速い足を止めた。ロウたちの体にしょっぱい匂いが入り込む。
サラリーマンはいきなり自分の動きを止めたロウたちを睨んだ。その目にはくっきりと隈があり、若いはずなのにどこか年老いて見える。
「何か用ですか。恐らく初対面ですよね。失礼ですが、社長より早く出勤しないと大変なんです。それでは」
サラリーマンはそう早口で言うとそのまま歩き出そうとしてしまう。だが、ロウはその手を肩から離しはしなかった。
「死んだことにも気づかず出勤しようとする社員。社長は実に喜ばれるでしょうね」
皮肉混じりにロウは言う。サラリーマンはより一層睨むその眉間に皺を寄せる。
「あなたは死にました。ですので私たちはあなたを世界の外へ案内するために来たんです」
「……新手の宗教勧誘か? ニュースでずっと報道されてたけど、こう自分にやられるとキモイな。見た感じ若いのに可哀想」
サラリーマンはそう言って一向に離さずに佇むロウたちから視線を逸らすために向こうを向く。
「うわぁ!?」
サラリーマンは目の前に現れた巨大な何かに驚愕して大きな声を出す。話している間に信号が変わったのでトラックが通ったのだ。三人が話しているその場所に。減速や止まることをせずに、そのままの勢いで通っていく。トラックの後ろにいた乗用車も同様に。
ありえない光景にサラリーマンは口を開いたまま動かなくなった。
「大丈夫ですよ。死んでいるので何も問題ありません。あちらには見えてませんし」
ロウはそう説明して腰が抜けてその場に座り込んでしまった男性と目を合わせるようにしゃがむ。そして後ろでその様子を見ていたリヴに手招きをする。
「これで少しは会話しやすくなったでしょう。頑張ってください」
背中を押すようにロウが言うとリヴはその隣にしゃがんだ。ロウは立ち上がって信号が変わって歩き始めた通行人の顔を眺めている。
「落ち着きました?」
「お、落ち着けるか。こんなの、夢に、違いない。おい、俺の頬をつねってみろ」
リヴは動揺しながら言うサラリーマンの頬を無慈悲に強くつねる。それに男性は驚いてつねられた右頬を押さえながら涙目になった目でリヴを見た。
「そんな強くやることないだろ! 心ねぇのかよ!」
「……話を聞いてくれますか」
サラリーマンは感情の灯らないリヴの瞳を不気味に思ってその言葉に頷く。
「いいよ、もう。聞いてやるよ。久しぶりに見た夢が、こんなヘンテコなんてなぁ」
項垂れながら男性は大人しくなった。
「あなたは死んだことを受け入れられますか」
「はいはい」
「死んだ者は世界の外へ行きこの世から離れます。そして新たな命を手にする。お分かり頂けますか」
「はいはい」
「それに同意してもらう必要がありますけど、よろしいですか」
「はいはい」
「この世に未練はありますか」
今までどんな問いかけにも適当に流していたサラリーマンがこの問いにはすぐに返事を出さなかった。何かを考えるように白黒の地面を見つめる。
「未練、か。そんなのありまくりだよ。俺、あんまり出来が良い方じゃなくてお袋に迷惑かけ続けてきてさ。女手一つで育ててくれたお袋にはどうしても恩返ししたくて、そしたらこんな高卒の俺でも雇ってくれる企業見つけて」
サラリーマンは嘲笑うように笑うと顔を上に向かせる。すっかり青空が広がって、世界に股をかける果てのないその様子を何年ぶりに見ただろうか。
「最初はおかしいと思ったんだ。おかしなルールばかりだ。理不尽なことしかない。でもここしかないんだ。お袋が近所に住む人たちにさ、息子が就職したんだって嬉しそうに自慢してんの見たら辞めたいなんて言えねぇんだよ。必死に頑張った。でも、元が良くないから叱られてばかり。だから態度だけでも気に入られようって誰よりも早く出勤して誰よりもたくさん働いて。それがだめだったんだなぁ」
サラリーマンは目を閉じておかしくなったのか腹を抱えて笑い出す。その目からは涙が流れ始めている。
「ああ、しょっぱいな。お袋に、会いに行っとけば良かったなぁ。ごめん、ごめんよお袋。恩返しする前に死んで、ごめんなぁ」
サラリーマンはその場に倒れ込んで空を仰ぎながら涙を零し続けた。
リヴはロウの方を振り向く。ロウはため息を吐くとサラリーマンの方に近寄った。
「未練があると私たちは外へ案内できません。リヴさんはどうしてあげたいですか」
ロウはその冷たい視線をリヴに向ける。目を閉じて空を向くサラリーマンをリヴはただじっと見つめた。
「お母さんと会わせてあげましょう。面と向かって会えなくても、その姿を最後に」
リヴは視線を動かすことなく言った。その言葉にロウも頷いてその手でワープ空間の渦を作り出す。
「お母様のいる場所に繋げました。良いですか。五分だけです。未練がより強くなってしまいますからね。気が済んだら、外へ行きましょう」
ロウの語りかけにサラリーマンはゆっくりと頷くと立ち上がって渦の中に三人で入っていく。
築年数が古くなってきた家が並ぶ、どこにでもあるような住宅街。そこの一軒、庭に咲く色とりどりの花に水をやる初老の女性を見つけた。サラリーマンの母だった。
サラリーマンはその姿を視界に入れると、また涙を溢れさせて震えた足で近づいていく。
「河野さん、おはようございます」
「あら水谷さん。わんちゃんのお散歩ですか?」
「ええそうよ。河野さんも早くから水やり、偉いわねぇ」
近所に住む者同士での会話が始まって、隠れる必要もないのにサラリーマンは電柱の後ろに隠れる。
「息子が朝早くから夜遅くまで頑張っているのよ。だから私がのんびりしてるわけにもいかないの。そんな気を張りすぎるなと言っても頑張っちゃうのよね。自慢の息子よ」
「あら、惚気はやめてちょうだいな。息子さんといえば最近帰って来てないわよね。私も会いたいわ。仕送りも嫌がってるって話ですし、心配になっちゃうわね」
「そうそう。要らないって言うけど、その方が気がかりよ。あっちから毎月二万円送られるけど、何だか使えないのよね。生きてくれてるだけで十分親孝行してくれてるんだから、無理しないでいいのにね」
「お母さん想いの良い子じゃないの。羨ましいわ」
楽しそうに話す二人の会話を聞いてサラリーマンはその口を震わす。
違うんだ。だって、何もできなかったじゃないか。子どもを育てるのに朝も夜も働いてばかり。周りの友達がブランド品で着飾っているのに自分はスーパーの大幅に値下げされた服を着ていた。それでも子どもと過ごす時間を確保しようと寝ずに生きてきて。絶対子どもの前では弱音なんて吐かない強い母親。俺なんかよりずっとずっと働き者で強い人。
コツコツ貯めてたお金で、のびのびとできるように旅行でもプレゼントしようと思ってた。どこか美味しいディナーに連れて行くのも良い。ブランド品を好きなだけ買ってもらうのも。
もう、仕送りできないからその金使ってよ。好きなように。
ごめん。お袋よりうんと早く死んでごめん。一人にしてごめん。水谷さんみたいに可愛い犬でも飼って、楽しく生きていてくれ。
サラリーマンはそんなことを心の中で言うだけで、母の元に行けずにぐだぐだとしている内に五分が過ぎてしまった。
リヴとロウは目を合わせて頷く。リヴはサラリーマンに近づいてその肩に触れた。振り返ったサラリーマンの顔は涙でぐちゃぐちゃだ。
「時間です。行けますか?」
「……最後に、少しだけ良いか?」
「少しだけですよ」
リヴがそう言うと覚悟を決めたようにサラリーマンは電柱を強く掴んで大股で歩く。そしてまだ会話相手と楽しそうに話す母に抱きついた。
こうするのは、きっともう十年以上前のことだ。
「お袋はごめんよりありがとうが好きだったよな。今までありがとう。お袋の息子に生まれてきてよかった。裕福な家庭ではなかったけど最高に幸せだった。俺、先にいってるから。またね。愛してる」
ゆっくりとその手を離すとサラリーマンはリヴたちの元に戻った。そこにはさっきと同じ渦がある。でも、それはもうこの世界には繋がっていない。今までの思い出を心に留めておくように、走らずゆっくりとそこへ向かう。
「ええ、もちろんよ。息子のことをこの世で一番愛してるわ」
突然耳に入ってきた言葉にサラリーマンは振り返る。そこには笑顔で話す母の姿がある。サラリーマンは流れてしまいそうな涙を堪えるように俯いた後、その顔を勢いよく上げる。
サラリーマンの顔はどこか晴れ晴れとして、未練を感じさせない強い顔になっていた。
「あんたたちには迷惑かけたな」
「いえ、これが仕事ですので」
「変な仕事もあるんだな。ありがとう、あんたらも元気で」
サラリーマンは歯を見せて笑うとそのワープへと入っていく。そして縮まって渦は消えた。
「二人目。まだ朝ですから順調でしょう。ではまた新たな死者を探しに行きましょう」
ロウの言葉にリヴは頷いて共に歩き出した。
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