第2話

 顔のパーツや格好は生前と変わらないものの、その髪と目の色は変化する。そしてその瞳に模様を入れられる。

 シュトゥルは灰の髪に黒の目。スペードの模様。

 ロウは藍の髪に黄の目。ダイヤモンドの模様。

 リヴは青緑の髪に桃の目。ダイヤモンドの模様。

 まるでおとぎ話のようなリヴの想像する現実じゃありえない世界をそこに創り出していた。


 世界の外。それは宇宙ということではないし、見渡す限り何もない空間のこと。絶望を具現化したような世界だ。かつてそこは青と緑に溢れた世界だったが、ある日の出来事で暗闇と化した。そんなような世界に彼らは保管されている。

 何もない空間であるのに、そこに扉が現れる。決まった場所に決まった扉が出現し、そこがそれぞれの家に繋がる扉となる。彼らの理想の家がそこにできる。しかし、それは仮の姿。偽り。傍から見れば何もないただの空間。なぜそこに部屋が生まれるのかは誰も知らない。

 そもそもこの偽りだらけの世界の正体を彼らは何も知らない。


 シュトゥルはリヴを連れて暗闇を歩いていた。左右どちらも終わりなのか終わりがないのか分からないほど黒い。その光景に安心を覚えてしまうほどに黒い。どよめいたような薄汚い空気が染みるように動いている。


「お前さんにはもう力がある。その力にここは応える。そこにパネルがあるだろう。手をはめてみなさい。目の前に扉が現れる」


 シュトゥルが立ち止まり、指さした先には黒い石でできたパネルがあった。言われるがままにリヴはパネルに手を押し込む。その硬そうな石はリヴの手形に沈み込み、ふと体の力が全て抜かれる心地を覚えた。前を向くとそこには自分の身長の二倍はありそうなほど巨大な扉が現れた。


「上出来だ。慣れてきたらすぐにここへ来れるが、最初は慣れぬ。ワシの部屋に一番先に辿り着けるからワシの部屋を経由して行くと良い。まっすぐ歩くだけだからな」


 リヴはシュトゥルの説明に頷く。シュトゥルはそのまま踵を返して暗闇に消えた。リヴはその後ろ姿をしばらく見つめた後に扉を開ける。

 リヴは目を見開いた。扉の横には暗闇が広がっているだけで壁も何もなかったというのに、一人で住むには十分すぎるくらいの広さの部屋がそこにあった。

 リビングと思われるそこは女の子らしい清楚な印象を与えた。クローゼットの中には自分好みの可愛らしい服が収納されている。背の低い丸机には最新のスマホが置かれていた。生前の部屋にも置かれていた勉強机風の一人用の机と椅子。座り心地の良さそうなソファ。モコモコのラグ。可愛らしいベッド。

 ある程度道具も揃っているキッチン。お気に入りのシャンプーとリンスが置かれた広めのお風呂場。お風呂とトイレが別。まさに理想の家。

 だが、それを見ても感動する心は持ち合わせていない。もし心があって生きていたのなら、喜んだのだろうとかそんな予測しかできない。それよりもう既に生きていた頃自分が何を見てどんな感情を抱けていたのかすら思い出せなくなっていた。


 リヴはひとまずお風呂に入った。風呂に浸かるのは、どこか癒えることのない失われた心を少しでも安らげることに繋がる気がしたのだ。

 用意されていた入浴剤を入れるとふんわりと薔薇の香りが身を包む。肩まで浸かりながら考え事をした。


 自分の名前がリヴなのには当分慣れることはできなさそうだ。少し言いにくいし、どこか異世界感のある名前に違和感しか抱けない。それにここの空間にも。何もない空間。確かに黒闇で自分が今そこに存在してるのかすら分からなくさせる、本当に何もない真っ暗闇の場所。そこに突如として現れる空間。世界はまだまだ分からないことだらけなのを急に突きつけられた感じがした。


 時間の感覚すら奪われるここで、すっかり皮がふやけるほど風呂に浸かっていたことに慌てて、まるで高級ホテルで使われているようなふかふかのタオルで体を拭く。

 そのとき、リビングの方から着信音かと思われる電子のコロコロとした音楽が聞こえた。リヴはクローゼットにあったぶかぶかの水色のトレーナーと部屋着素材の黒のショートパンツを身につけてリビングへ向かう。

 音はやはりスマホから出ていたようだ。そのスマホの画面に表示されていたボタンを押す。誰から電話がかかってきてるのか分からないままそのスマホを耳に当てた。


「もしもし」

「もしもし、ですか。 ……ああ、こうして会話をするのは初めてでしたね。私の名はロウ。君の前にここへ来た者です」


 優しそうな声で話すのはリヴが元いた場所から案内してくれた青年、ロウだった。


「リヴです。何か用ですか」

「シュトゥルから世話係を命じられまして。仕事に慣れるまで面倒を見させて頂くのでそのご挨拶です。それと次回の仕事の説明をしたくて。手元にメモできる物はありますか?」

「……紙はあるんですけど、書くものが、ボールペンも鉛筆もなくて」

「そうですね。ここにはそのボールペンというのも鉛筆というのもありません。あなたの指が書く道具です」


 リヴは自分の人差し指に視線を落とす。指が書く道具なんて、意味が分からないと言うように見つめていた。


「私たちには不思議な力があります。まずは……うーん。リヴ、今からそちらに向かいます。よろしいですね」

「は?」

「それでは」


 有無を言わす前にロウは電話を切る。リヴはしばらく呆然としていたが、ため息を一つ零してソファに座った。

 お茶を用意すべきかと思い、お湯を沸かして棚に入っていた茶葉をポットに入れてお茶を用意する。何も考えずに緑茶を入れてしまったが、大丈夫だろうかと今更ながらに心配になった。

 授業でお茶の淹れ方を習ったことがあったので、それを真似て作る。ここには全てのセットが揃っているので使ってみることにした。急須に茶葉を適量入れる。熱々のお湯をまず冷まして、適温になったら急須に注いでいく。注ぐのは一気にやってはならない。二つなら交互にどちらも同じ濃さになるように。確か、そう習ったと思いながら。十年くらい前のことなので違って覚えていたら日本人失格だなとかも思っていた。

 ちょうどお茶の用意が終わった頃、空気が通り抜けたような音が部屋を通っていく。革靴で歩く音がリヴに近づいた。


「綺麗なお部屋ですね。お邪魔します」


 ロウは霞んだ藍色の髪を固め、スーツのような格好できっちりとした印象を与える好青年だ。

 ただ、リヴがその整った美しい顔に全く意識がいかなかったのはその足元のせい。


「どうかしましたか?」

「靴を脱いで頂けませんか。家の中では靴を脱ぐ文化で生きてたので、少し寒気が」


 感情のない目でリヴが訴えるとロウは微笑んだまま頷いた。


「郷に入っては郷に従え、とどこかで聞いたことがあります」


 ロウはリヴの言葉に素直に従い、玄関先に戻ってその革靴を脱いだ。


 ロウ。彼は今からおよそ四百年前に絶望を抱えて死んだ。信じていた者たち全てに裏切られ殺されたことによって。若手ながら仕事の業績はトップクラスで一目置かれる存在。


「まずは仕事についてざっくりと説明を。それから次回の仕事内容について。最後に私たちについてお話しますね。長くなりますが、まあ年寄りの独り言と思って聞いてください。仕事上での必要なことはメモしてくださいね」


 ロウはそう言って何かを思い出したように手を合わせると自分の人差し指をリヴの目の前に出した。


「字の書き方だけ先に教えましょう。基本的に何指でも書けますが、人差し指が一番使いやすいと思いますよ。人差し指に息を吹きかけます。そうしたら字が書けるはずです」


 ロウが手本といったように自分の右人差し指に軽く息を吹きかけて、リヴが用意していた白紙をなぞるように横に動かす。するとまるで自分の手がボールペンにでもなったように黒いインクで書かれた線が紙に現れた。


「間違えたら消せない仕様なので、ご了承くださいね」


 ロウは右手を払うように二度振りながら、笑顔で言った。リヴはまるで魔法のようなものを突如と見せられて呆然とする。だが、ただでさえ夢のような空間で過ごしていると、何だかそれを受け入れてしまう自分もいた。

 リヴはロウの真似をする。すると紙に滲んだ線が現れた。痛みは感じないし違和感すら何もない。おかしな力を発動した人差し指を、怪しげにリヴは見つめた。


「よろしいですか? それでは、あなたが世界を救うための仕事をこなせるように教育頑張ります」


 ロウは拳を握りしめて鼓舞するように言った。


 リヴはロウの説明を聞きながら思った。ロウは根から真面目なのだろうと。何から何までリヴが全てを理解できるまで怒ることもせずに教えてくれる。

 自分が何も分からないという状態を久しく感じていなかったので、この状況が新鮮で変な心地だった。

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