第23話 離れられないし、離れたくない
登校する足取りは類を見ないほど重かった。
苦手なグループワークや発表会がある日、体育の授業がある日よりも足は進むことを拒んでいるようだ。理由は明白である。
習慣のように耳に入れられた装置からは、ピンチヒッターのように選ばれた曲が流れている。不動の四番や二刀流どころか、スタメン全部を埋め尽くすほどのスターは、何故か不在であったからだ。
「はぁー」
意識しなくとも深い息が体から這い出た。純粋な気持ちで推しを応援出来ていたら、今頃は肖子と、あの女に対してどんな悪口を言ってやろうかと考えていただろうか。
推しへの幻想や憧憬が強く大きい、私みたいな厄介ファンが行き着く先は、荒れ果てた砂漠であるのか。オアシスを見失った旅人が生き残る術はあるのか、検索したい気分である。
一番最初にファンのことを考えて欲しいというのは、我儘だとしても一番に想って欲しいと思うのは果たして我儘なことなのだろうか。
考える順番など二の次でも良い、最後でも良いからこそ最愛を受ける権利がある。それは推す側に許された、唯一の傲慢な特権であると共に、推される側に課せられた唯一の義務であると思う。
義務と言っても難しいことは要求しない。もしも、外からの心無い奴らにかける言葉があるのならば、一人でも多くの味方へ言葉をかけることに時間を使って欲しい。推しの言葉には力がある。ファンはそれだけで明日も、明後日も、その次も、頑張ることが出来るのだから。
私は出来るだけ平然を装って、いつものように教室に入る。彼の声を聞かない日など、ここ数年はなかったので、何か重要な栄養素が体の中で欠乏している感覚がする。
肖子の方へ目を向けると、また彼女もいつものようにクラスメイトに囲まれて談笑に耽っているようだった。改めて、まじまじと彼女のことを見ていると、恐ろしい程に完璧な人間に見えてくる。
私が知っているポンコツ人間な一面が演技に思えてくる。どちらの顔が素であるのだろうか。どちらも素ではないのかもしれないが、もしも私にだけポンコツな一面を見せてくれているのであれば、これ以上に嬉しいことはないなと思う。
私は彼女に自分の存在を知らせる事はせずに黙って朝のホームルームを待った。
午前の授業が終わってすぐに、肖子から着信があった。ポケットの中で震える長方形の感触を確かめながら、私は急いでリュックサックに教科書を詰め込んで、部屋から出た。
「…………もしもし」
「ふふ、びっくりした?」
「マナーモードにしてなかったら、あやうく着信音が鳴り響く所だったよ」
「それはそれでおもしろそうだけど、あんまり考えてなかったよ。単純にね、電話したことなかったなぁって」
彼女は少し早く授業が終わったらしく、先にいつもの教室にいるから早く来いとの連絡であった。
慣れない電話で突然何を言われるかと身構えたが、いつもと変わらぬ様子の肖子を確認することが出来て、ホッとした気持ちである。
私は足早にいつもの教室に向かう。
「お! やっと来たね」
扉を開けるや否や風鈴の音が聞こえる。
「やっとってね。こっちは授業終わって直ぐに向かってるんだよ」
「一人で寂しかったの!」
(私がそう言う言葉に弱いの知ってるでしょ)
彼女が膨れ出したので、私は小言をやめて隣の席に向かった。
「ねぇマヤ。わたしに話したい事あるんじゃないの?」
「え。しょ、ショーコこそもういいの?恨み辛みを吐かなくて」
「わたしはもうスッキリしたからね。ほら、頼ってくれていいんだよ。偶にはわたしだって相談に乗りたいな」
咄嗟に話を逸らそうとしたが逃してはくれなかった。
「私は大丈夫だよ。ショーコが全部言いたい事言ってくれたからね」
本当だよと付け加えた。彼女は少し怪訝そうな顔をしたが、すぐに元通りの綺麗な顔に戻った。
「それよりさ……」
私は新しい話題を振ろうとしたが言葉に詰まった。自分の口からから、彼の名前を出すことがどうにも出来ず、必死に辞書を引こうとするが、ま行から手を離すことも出来ずに思考は止まってしまう。
あ、あ、と言葉にならない声が出る。ただでさえ吃りがちな私が、心のひっかりを隠して会話するなんて器用な事が出来るはずはなかった。
「大丈夫?」
普段は話し始めるのをじっと待っていてくれる肖子も、不自然な私の挙動を見て心配してくれた。
「ご、ごめん。少し気分が悪くて」
「それなら遠慮しないで言ってよ。保健室行く?」
私は今すぐにでもこの場から立ち去りたかったので彼女の提案に甘えることにした。
彼女は慌ただしく教室から出る準備を済ませると私に寄り添って支えながら保健室まで一緒に歩いてくれる。私は心の中で仮病を使ったこと、相談事はないと嘘をついたことを謝り続けた。
それから一限ほど保健室のベッドで休み、その次の授業から復帰した。授業終わりに肖子は駆け寄ってきてくれる。
「体は大丈夫?」
相当心配してくれたみたいで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「う、うん。だ、もう大丈夫」
「それならよかったよー」
彼女は私の返答を聞くなり安堵の表情を浮かべる。
「肖子ー!」
彼女を呼ぶ、誰かの声。彼女が体を翻し、声の方へ歩き出した瞬間、私は彼女の腕に手を伸ばしていた。
グッと制服が声をあげる。この音で、無意識から私の意識に操縦が戻る。後ろからの力に驚いたのか彼女は変な声を出す。
「ご、ごめん。つい」
私は謝りながらも、腕に力は篭ったままだ。右腕だけ自分のものではないような感覚がする。本能的に今ここで、肖子に何処かへ行かれると、泣き出してしまいそうな気がした。腕を通して、体の震えが伝わっていないかなど、今だけはどうでもよい問題であった。
「今行けないや! あとでね!」
クラスメイトにそう放った言葉が聞こえた。
「どこにもいかないよ」
彼女は私にしか聞こえない声量で囁いた。俯いていた私はハッとその音に引き寄せられるみたいに顔を上げる。
私は泣きそうになるのを必死に堪えて声を絞り出す。
「やっぱり話を、聞いて欲しくて」
「お安いごようだよ!」
相変わらず癖の強い彼女の言葉に自然と笑顔が出た。
肖子はホームルームが始まるまで私の側にいて、ああだのこうだの喋りかけ続けてくれた。周りのことがどうでも良い気がした。私のことを気遣ってくれる彼女の温かさが体を巡るの感じたからだ。
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