職が決まったのはそれから三週間後だった。


 電話のベルが鳴った。今が朝の四時で、しかも僕がぐっすりと眠っていることなんて知らないみたいだった。やかましい⾳に叩き起こされた僕はひどく気分が悪かった。体中が怠かったし、頭の奥の芯みたいな部分がずきずきと痛んでいた。呼び出し音が⽌まらないかと5分間粘ったけども、結局はスマホに⼿を伸ばした。


「仕事は決まった?」

 こんな時間に誰だ、僕は呻くように⾔った。寝起きだからか、僕の声は随分と掠れていた。

「仕事があるんだけど」

 頭の中の歯車が錆びついているみたいに、聞こえたことがあまりうまく理解できなかった。

 どちらもが喋らないせいで、ちょっとした間が空いた。

「どんな内容で?」

「確認なんだけど、⾞は運転できるよね」

「⼀応」

「腕はいい⽅かしら」

「無免許無事故」

「そう。却って都合がいいかも」

「無免許は冗談。去年とった。それ以来運転はしてないから色はゴールドのまま」


 先程とは種類の違う間があいた。部屋の電気をつけた。


「今⽇時間ある?」

 窓の外をちらっと見た。まだ暗い。

「⼆週間先まで何もない」


 単純な事実として、僕に予定と⾔えるものは何もなかった。⼤学の夏季休暇が明けるまでの時間を持て余すくらいに。

 黙ってなにかを考えているような気配の電話の向こうに向かってもう一度聞く。


「どんな仕事?」

「⾞の運転、および私の世話役」

「すまないが、最近耳の調子が悪いみたいで。」

「私の世話役」


 有無を言わせないかんじの声だった。

 個人の世話役とは珍妙な。いや、最近は常識も変わったのかな。


「詳しくは会ってから。今⽇の午後五時から。場所は、最寄りの駅前。歩いてきて」


 それっきり電話はぷつりと切れた。相手に返事を聞く気はないみたいだった。

 ⼿に残ったのは沈黙したプラスチックのかたまりだけ。


 外はまだ暗くて夜が明ける気配は少しも感じ取れなかった。眠れそうになかったから⼩説を読んだ。


 読んでいる間も⼥の声の記憶が⽂章の隙間にするりと⼊り込んできて、深い集中に⼊って⾏こうとする僕の邪魔をした。

 まるで息継ぎの下⼿なイルカになったような気分だった。すぐに浮かび上がって周りの様⼦を伺いたくなるような。


 ⼩説を読み終わる頃には⽇が照り始めていた。雲のない快晴の朝。この様⼦では今⽇もまた初夏の暑い⼀⽇らしかった。朝⻝にはバターを塗ったパンをトーストした。バターを塗ったパンをトーストするかトーストにバターを塗るかというのは随分違う。どう考えてもこちらの方が美味しい。


 そして普段通りに、テレビの中の⼩⼈たちが退屈なニュースを解説するのを眺めながら、ぽりぽりとトーストを齧った。⻝べ終わると、時間をかけて⻭磨きをした。

 それからは暇に飽かせてゆっくり洗濯と掃除を済ませ、おかずの作り置きを補充した。暇を潰す⼿段の尽きた私のもとには眠気が訪れ、ソファで昼寝をした。そして影の薄い夢を⾒た。


 モンゴルの原っぱみたいな、⾒通せる限りずっと広がる草原に⼀塊の⽺の群れがいた。各々の⽺は鋭くて冷たい⾵に吹かれながら⾜下の草を⻝んでいた。

 その中に⼀頭だけ黒い⽺がいた。⽴派な⽺だ。雄々しくて、悪魔の⻆みたいなねじ曲がった⼤きななツノがついている。どうやら他の⽺の頭には⻆は存在しないみたいだった。その⽺も周りを⾒渡したり、草の生えた地面を鼻先で探ったりしている。

 そこに⼤きな黒い猫がやってくる。羊一頭のサイズを優に超える大きさをしている。⽺の群れはその猫の大きさとその肉食性に怯えて逃げ去ってしまう。そして、その広い平原のど真ん中でその猫は横たわって⼤きな、いかにも猫らしい優雅なあくびをする。

 猫社会の中でも相当⾼い位にあるのだろう。美しい猫だった。しなやかで均整の取れた四肢を、素晴らしく艶のある黒い⽑⽪が覆っていた。そして、その鼻面に正⾯から対面し覗き込むと、その眼は驚くほど澄んだ⾦⾊をしていた。陽の光をよく吸収した蜂蜜をそのまま固化させたような美しい瞳がまるでガラスみたいによく陽の光を通した。

 その猫は⽬の前に佇む私に構わず、吹き抜ける⾵に⽬を細め、体を丸めて昼寝を始めた。


 夢から覚めるともうすでに時計の針は午後の四時を指し示し、幾分か⽇も傾いていた。電話の⼥との約束に間に合うように、身なりを整え、顔を洗って⼆度⽬の⻭磨きをした。そして多少の空腹感に⾒ないふりをしながら戸締りを済ませ、家を出た。


 時間通りに駅につき、駅前のベンチに座って往来を通り過ぎる⼈々の顔を眺めながら電話の⼥が来るのを待った。

 他⼈の顔を眺めていると上⼿い具合に時間が潰れた。ルイス・キャロルの即興したアリスの不思議な世界では、時間そのものが暇を潰されるのに怒って動きを⽌めてしまったという。


 こんな⾵に他⼈の顔を⾒て潰される時間とはどんな感情を抱くのだろう。もうすぐで動くのを止めてしまうのではと薄ら思う。


 人の流れを眺めているうちに、だんだんと頭の中で空白が膨張していく。⽣まれた空⽩の中を雑踏が抜けていく。そうして空白がさらに脳内の他のものを押しのけていく。そのうち、脳が個別に顔を認識するのを諦め、観察するものを人ではなく流れそのものとして処理するようになっていく。

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猫目 sir.ルンバ @suwa072306

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