此の世界の片隅のはなし。

眞壁 暁大

第1話

    *   *

 戊辰戦争の不思議の一つと言われているのが由利島沖海戦である。

 その結果については現在幕府海軍の練度が薩長(英米)連合軍海軍のそれを圧倒していたために勝利した、と説明されることが多いのだが、それだけでは説明できないことがあった。

 勝利した幕府海軍の「開陽丸」が曲りなりにオランダに発注した最新鋭の装甲艦であったのに対し、「天陽丸」は船体こそフランス製だが、武装は幕府によって施されたものとなっている。

 西欧列強に遅れることおびただしい当時の日本の大砲製造能力はつとに知られたところであり、質・量ともに英米軍艦には敵うはずもない日本製(幕府製)の砲しか積んでいない「天陽丸」は、そもそも練度以前の話、対抗することがおよそ不可能だったはずなのだ。

 にもかかわらずの「天陽丸」の活躍の謎について、いま現在まことしやかに囁かれている一つの伝説について解説したい。

    *   *



 善光寺地震のあった弘化四年のことである。

 長く続く飢饉と慢性的な財政危機、制度疲労の極みに達してそこかしこで機能不全を起こし始めていた幕府の支配体制だったが、この頃はまだそれが目立って表面化はしていなかった。幕府の行政・統治の不調について意識してはいても「いずれ立て直せるであろう」と誰もが考えていた頃である。

 いまだ幕府の権勢は有効であった時代であるから、幕府の主導した松代藩を中心とした善光寺地震の被災地復興のために各藩に命じた財政支援・労役支援の提供については(負担の重さに不満はあっただろうが)表立った反発はなかった。


 秋田藩はそうした災害復興事業の支援を命じられた諸藩の中でも、もっとも負担の重い藩の一つであった。秋田藩自身がそれを望んだ面もある。

 復興事業の重い費用負担が幕府と折半になるということもあり、自家では抱えきれなくなった膨大な家臣団の一部を支援事業に提供することを思いついたのだ。ようは体の良い厄介払いにほかならなかった。


 秋田藩の首脳が松代藩への派遣を家臣団のどの家にするかで選定が揉めていた頃に、先駆けの斥候団からの飛脚がやってきた。

 その報告によれば松代城下は地震による倒壊と火災でぐちゃぐちゃに荒れ果てて地獄の有様という。それらの倒壊と火災はもちろん悲惨であったが、それに加えて、地震の数日後には地滑りで堰き止められた川が決壊してこれもまた桁違いの鉄砲水が起きたという。火と土の地獄の仕上げに水で責められたその城下の復興は、当初予定の派遣規模ではとうてい追いつかないことと容易に予想がつく。

 地震による災害の規模も範囲も予想以上だったことを受けて、秋田藩は幕府との負担割合の再交渉のために江戸屋敷に早飛脚を仕立てようとしてたその日に、さらに驚くべき報が、今度は藩内より伝えられた。


 八郎潟に異国船が現れたというのである。


 この急報に秋田藩庁は大騒動となる。

 秋田藩は長いこと蝦夷地警備を命じられた諸藩の一つであり、異国船、とくにオロシャ船への警戒感がたいへんに強い。

 この時期にしては海岸警備に注意を払っていた藩であったから、沿岸域ではなく、内水そのものである八郎潟に異国船が出現するというのは想定外もいいところの事態であった。

 急報を告げた使者の早書きの絵図によれば、どうやら難破船らしいことが分かったものの、難破船が打ち寄せられるほどの激しい嵐はなかったはず。

 そもそも絵図から見るに途方もない大きさのフネに見受けられた。絵図が正しければそれは秋田藩の主な津や港に出入りしている廻船の、もっとも大きなものよりも二まわり…もとい三まわりは大きい。打ち寄せるにせよ、広くはあるが浅い八郎潟には入り込むことすら無理な大きさというしかない。

 腑に落ちないことだらけの異国船だが、捨て置くわけにもいかない。

 藩庁で直ちに警戒の小隊を組む。蝦夷地警備の経験もあり、異国船の見識もいくらかあるものを中心にしたそれを急ぎ八郎潟へと派遣した。



 八郎潟を眼下に見下ろす丘に立ち、そのフネを見たすべての者が息を呑んだ。

 一見して異国船と分かる外観ではあるが、異国船を見たことのある僅かな者ですら口を揃えて「見たことがない」という大きさであった。

 それに「異国船でありながら、異国船ではない」とも口を揃える。

 へし折れた二本のマスト、遠目にも分かる大きく穿たれた船体の穴から見えるあばらのような肋材をまとめる竜骨。これらの異国船らしい特徴は間違いないのだが、しかしいかなる異国船に比べても船体がするどすぎ、細すぎるという。


 異国の船というよりも、異様異形の船。

 

 遠く全景を眺めた段階での警戒隊の見立てはそれで一致した。

 しかし、難破したそのフネのすぐそばまで近づいて彼らは今度こそ言葉を失った。


 へし折れたマスト。よく見ればそれは二本ではなく三本であったことが知れた。

 激しく破れた船体。そして竜骨。

 

 そのいずれにも、ところどころ赤く錆が浮かんでいた。

 その異形異様のフネは全身くまなく、甲板に貼られた板を除いて鉄製であったのだ。異国船に見識のある警戒隊の指揮官をしても、もはや想像の埒外の存在というほかなかった。

 しばらく衝撃に打ちのめされていたが、彼らはやがて正気を取り戻し、このフネの乗組員が見つからないか船内を徹底的に捜索を開始する。

 フネの内部はぐちゃぐちゃに壊れてしまっていて、如何にも嵐にあって難破したのだというのが想像できた。壊れて散らかり放題に散らかった船内を一日かけてようやく全体をくまなく捜し終えたものの、船内にはただの一人のヒトもおらず、ただ一匹のネズミすら居なかった。

 歩哨を立てての夜営のあと、警戒隊は周辺の捜索も実施したものの、やはり人っ子一人見つけられなかった。

 八郎潟を取り巻く周辺の村からも離れた場所であったため、村人たちが救助したとは考えられない。難破後に逃げ出した乗組員が居れば、もっとも近い村にいくのにも一晩はどこかで野営しなければならないがその痕跡がどこにも残っていない。


 この異様のフネは、このフネだけが忽然と現れた。


 舳先に浮かび上がるどのように読めばよいのかわからぬ異国文字、蘭語に似ているが読み方のわからぬ「SEEADLER」の文字を見上げながら、警戒隊を率いていた侍はそのように結論するしかなかった。


 

 秋田藩庁より秋田藩江戸屋敷へと送られたのは選り抜きの早飛脚であった。中途の紛失・遭難に備えて複数を放つ。

 いずれも伝えるところは善光寺地震の復興支援に関する再交渉の要請と、八郎潟に現れた異国船ならぬ異様のフネの始末の沙汰についての伺いであった。

 より分厚く重く伝えられたのは異様のフネの方である。



 二一世紀になってはじめて、これら異様のフネについて文書が公開された。

 この難破船が当時珍しい鉄船でロシア商人が傭船していたドイツ船であることが判明するまでの間、秋田藩だけではなく、幕閣をも狼狽させ幕府全体がぐちゃぐちゃの大混乱に陥ったことが、支配層にとってひどく格好のつかない失態であったことが、文書が一〇〇年以上も秘され続けた理由であるらしい。 


 しかしながら、この説明に疑念を呈するのが例の伝説である。


 それによればこの「異様のフネ」SEEADLERは第一次世界大戦で活躍したドイツ軍艦「ゼーアドラー」そのものであり、こことは違う平行世界から転移してきたものだという。

 通商破壊の仮想商船としておおいに暴れまわったこの「ゼーアドラー」の武器を流用したからこそ「天陽丸」はあれほどに強かったのだ、と主張する。

 大いなる与太であり、現代にいたってもなおしぶとく生き残っているオカルト誌「◯ー」では定番鉄板として定着したネタであった。

 

 これが与太ではなくもしも本当であれば、いま成り立つこの世界の理は根底からぐちゃぐちゃになる。ありえない話だ。


 それでもなおこのバカげた伝説が流通し続けるのは……

 それだけ「天陽丸」の勝利が劇的であった、西洋の優越・東洋の劣勢という当時の世の理が壊れるほどのぐちゃぐちゃでありえないほどの奇跡的勝利であった

 ……その証明と言えるのかもしれなかった。

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