第16話 消えた堕天使
美羽は目を閉じて大きく息を吸い込んでいたが、体を起こして裕星を見下ろしながら頭を下げた。
「裕くん、ごめんなさい! いつも私のことを守ってくれていたのに気づかなくて」
裕星は、はあ、と口を開けたままポカンとして美羽を見ている。
「裕くん!」
美羽は裕星の胸の上に頬を付けて裕星の体を抱きしめた。
「おいおい、どうしたんだよ、急に」
「裕くん、覚えてないの? その話、私、病院でしたよね?」
美羽が裕星の胸の上で言うと、裕星はハッとしたように体を大きくバウンドさせて上半身を起こすと、胸の上の美羽の肩を両手でガシリと掴んで美羽の目を見つめた。
「そうだよ! 美羽が言っていた遊園地で野犬に噛まれそうになった話……それって、もしかして一緒にいた男の子っていうのは……まさか、俺のことだったのか?」
こくり、と美羽が潤んだ瞳で頷いた。
「今までそんなこと忘れていたよ。とんだ
「――私もあの記憶が栗栖さんのことだと思っていたから、まさかあの男の子が裕くんだったなんて考えもしなくて……。でも、ホクロみたいな黒い
「――あるんだな。まさに俺たちはツインなんとか、なんだろ?」
「ツインレイね。魂の片割れ同士だったからかもしれないわね」
美羽が満面の笑みで言った。
裕星は美羽との奇蹟の出会いを改めて知って体が震えていたが、美羽をギュッと抱きしめると、「ああ、今度だけは奇蹟というやつを信じてもいいと思うよ。
あの男の嘘のおかげで、逆に過去のことがハッキリしたんだ。あの頃、既に美羽と出会っていたなんてね」と噛みしめるように言った。
「裕くん、私たちは離れられない運命ということよ。今さら後悔しても知らないからね。いいの?」
美羽が悪戯っぽい目をして言った。
「ああ、上等だよ!」
裕星は無邪気に微笑む美羽を抱きしめてそっとキスをした。
翌朝、ナイフ男たちの逮捕のニュースは新聞やテレビで流れたが、被害者の男性の名前は伏せられたままだった。様々な憶測が飛び交ったが、やがてそれも何日かするといつの間にか立ち消えになったようだ。
まさかたった二日で退院した裕星が、その重傷を負った被害者だと知られることはまずないだろう。さらに、病院側の協力もあって、裕星は健康診断のための入院ということで事務所が発表したのだ。
あれから栗栖はどこに行ってしまったのか、美羽が孤児院の園長に訊いても、栗栖などという人は知らないと言うばかりだった。あったはずの美羽と2人で撮った子供の頃の写真も、隣は紗枝に変わっていた。
バザーの時に来た神父の栗栖のことだと伝えても、そんな人は来ていないという。それなら、と親友の紗枝やラ・メールブルーのメンバーに訊いても同じ答えしか返ってこなかった。
裕星は覚えているだろうか、やはり他の人たちのように栗栖という人物はいなかったかのように忘れてしまっているのだろうかと不安になってきた。
仕事を終えマンションに帰ってきた裕星に美羽は待っていたかのように玄関に飛び出して行った。
「裕くん、ねえ、栗栖さんのこと、覚えてるよね?」
「――栗栖?」
「まさか、裕くんも他の皆さんみたいに彼の存在を忘れちゃった?」
裕星は、美羽が真剣な顔で言うのを不思議そうに見ていたが、ニコリとした。
「ああ、覚えているよ。俺たちのキューピッドのことだろ?」
「裕くん! 覚えているのね? ああよかった! みんな忘れちゃって、私だけ彼の存在を知っているから変な気持ちだったのよ」
美羽はホッとしたように胸を撫でおろしている。
「いや、本当のことを言うと、俺もその名前にはピンと来てない。ごめん、美羽が真剣に訊くから、大抵そんなことじゃないかと思って想像で言ったんだよ」
「――ええっ、そんなあ。じゃあ、裕くんの記憶からも消えちゃってるのね。栗栖さんはどこに行ったのかしら」
「キューピッド、つまり、天使なら天に帰ったんじゃないのか?
――もういいんじゃないか? それよりも、俺の天使はいつもここにいるんだから」
裕星は自分で
「―—そうね。私が天使なら、裕くんは私を守ってくれてる大天使さまかもね」
そう自分で言った後、美羽はハッとした。
「大天使──アークエンジェルのことだわ!」
「どうした? そのアークなんちゃらって?」
「あ、ううん、何でもない。思い出しただけよ。来栖さんが帰った場所を」美羽がふふふと笑った。
二人がベランダに出て見上げた夜空は真っ黒なビロードの幕を広げているようだった。
そこには、目には見えないが、きっと無数の小さなダイヤモンドがちりばめられているのだろう、と明るい都内の夜空を見上げて二人は想像を巡らせていた。
その頃、都内のある事務所で、一人の若い男が組を抜けたいと組長に懇願していた。
「なんだって、陽介、お前、随分と度胸があるな。誰に向かってものを言ってるんだ?」
組長の凄んだ声が部屋中に響いている。
「いや、あの……、俺は今まで真っ当な仕事をしてこなかったなと思って。中学の頃、家出して東京に出てきてフラフラしてた俺を拾ってもらって親分には感謝してます。
ただ、ここ最近、何だか気分が優れないというか……。たぶん、そうとう悪い病気か何かだと思います。頭と体が重くて自分が自分じゃなくなるみたいな感覚になるんです。
なので、こんな病気を理由に申し訳ないっすが、田舎に帰って療養したいと思いまして……」
ビクビクしながらも、陽介は自分の意思を告げた。
「ほお、それで、今まで俺に世話になった落とし前はどうつける気だ?」
組長にそう言われて、びくっとして体を縮ませている。
「落とし前って……あ、お、お金なら払います! 田舎で働いて必ず送りますから!」
震えながら恐る恐る言うと、組長がガタンと椅子の音を立てて突然立ち上がった。
「てめえ、ふざけてんのかあっ!」
まるでライオンが吠えるような怒鳴り声を上げて男に飛びかからんとしたが、次の瞬間、窓から差し込んだ強い光が組長の目を直撃すると、組長はイテッと目を抑えて皮張りの大きな椅子にドサッと尻もちをついた。
周りの若衆たちが心配そうに組長を覗き込んでいると、やがて組長は目を擦っている手をゆっくり離し、もう一度陽介を睨みつけた。
周りからは、あーあ、陽介のやつ、もうダメだな。生きて田舎には帰れないぞ、などという非情な呟き声が聞こえてきたが、組長は陽介に向かってこう言ったのだった。
「――よくわかった。くれぐれも体には気を付けてしっかり働くように。金はいらん。その分、お前の母親に孝行してやれ。それが俺への恩返しだ。さあ分かったら、今すぐに出ていけ! そして、二度と戻るんじゃねえぞ!」
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