第5話 小さな救世主
――あれは、孤児院で二度目の遊園地遠足の日、美羽が5歳の誕生日を迎えた頃だった。
何日も前から楽しみにしていた遠足の日、遊園地の歩道を美羽は仲良しの紗枝と手を繋いで歩きながらウキウキしていた。
まだ小さいため乗れるものは限られていたが、それでも、コーヒーカップや園内を回る汽車や観覧車に順番に乗ると、また最初からもう一度乗りたいと園長やスタッフの先生たちを困らせていたものだった。
美羽たち孤児院の子供たちが観覧車から降りて集合場所へと列になってぞろぞろ歩いている時だった。美羽は一人だけ列を外れて、大好きな観覧車の方へ駆けて行ってしまったのだ。
美羽がいないことを知り、慌ててスタッフたちが探し回ったが、とうとう見失ってしまった。
一方の美羽はと言えば、観覧車の前でスタッフに止められていた。
「小さいお子様一人では乗れないんですよ」
しかし、そこに天の助けか天使が降りてきたのか、自分よりも少し年上の男の子が突然現れて一緒に乗ってくれると言うのだ。
幼い美羽にとって、彼は本物の天使のようだった。
10分間の短い空の旅を終え、美羽が地上に降りて男の子にありがとうと礼を言って別れたその時だった。
「グルルル……」
低く恐ろしい獣の唸り声が聞こえた。振り返るとそこにいたのはとてつもなく大きな野犬だった。美羽の体の2倍もあろうかと思われる野犬が、今まさに美羽に襲い掛かろうとして体を低くしている。
「怖いよ、助けてー!」
しかし声にはならなかった。
野犬はじりじりと美羽ににじり寄ってくる。人間の子供ほど無防備でか弱いものはいない。野犬はまるで獲物の子うさぎを見つけた凶暴な狼のように見えた。
前足で地面を何度か
野犬が覆いかぶさってきた――と思ったが、美羽が感じたのは小さな人間の体だった。さっきの男の子が美羽を
「うあぁっ!」
男の子が大きな声を上げた。美羽が男の子のシャツの隙間から見えたのは、男の子の腕に噛み付いている大きな牙だった。
「うぅ……」
唸ったまま男の子は体を震わせてぐったりしたが、決して美羽の上から離れようとはしなかった。
やがて、バシッと野犬が誰かに叩かれる鈍い音がして、急に美羽の体が軽くなった。
キャンキャンと大きな鳴き声を上げて全速力で走っていく犬の姿が遠くに見えた。事態に気づいて近くにいた大人が木の棒で野犬を追い払ってくれたのだ。
美羽は自分の上に覆いかぶさっている男の子に声を掛けた。
「……大丈夫?」
ギュッと閉じていた瞼がゆっくり開き、男の子が、「うん」と小さい声を出した。潤んだこげ茶色の大きな瞳が美羽をじっと見ていた。
その後、美羽は一気に辺りが明るくなるのを感じた。美羽に覆いかぶさっていた男の子が、誰か大人の男性に抱き上げられ美羽から引き離されたのだ。
男の子の腕は、ジャケットの上からとはいえ大きな犬の牙に噛まれ血が滲んでジャケットまで濡らしていた。
男性が急いで男の子のジャケットを脱がせ、その子の腕をタオルで止血している。
すると、ぺたりとその場に座り込んでいた美羽にも、男の子の腕にくっきりと残された犬の歯型のようなものが見えた。牙が星の形に点々と
知らせを受けて急いで駆けつけた園の医療スタッフが、男の子に駆け寄りその場で腕を診察していたが、段々眉をひそめ、「野犬ですので狂犬病の心配もあります。この傷は跡が残ってしまうかもしれませんね。一応消毒はしておきましたが、すぐに病院で診てもらった方がいいです」と男性に告げた。
「ありがとう。さあおいで、病院に急ごう!」
男性が慌てたように男の子を抱き上げた。美羽が男性に抱き上げられ肩の上にぐったりと頭を載せている男の子を見上げると、男の子も美羽の視線に気づいて少し顔を上げた。
すると、さっきまでぐったりしていたはずなのに、あの酷い傷の痛みは小さな子供には耐えられないだろうに、男の子はまるで美羽を安心させるかのように美羽に小さく微笑んでみせたのだった。
――あれは……、あの子は天使なの?
美羽は、男性に抱かれながら遠ざかって行く間ずっと微笑んでこちらを見ている男の子をいつまでも見送っていた。
――あの子はきっと本物の天使なんだ。私の天使、ありがとう……。
するとそこに、「美羽! 大丈夫かい?」
慌ててやってきた園長とスタッフ、他の児童らが、座り込んでいる美羽を取り囲み心配そうに見ている。
「どこか痛くないか? 怪我はないかい?」
「大丈夫。どこも痛くないよ」
そう言って美羽は微笑もうとしたのだが、さっきの恐ろしい光景を思い出した途端、何かが胸の奥で破裂したように、わぁっと声を上げて泣き出し、
園長が念のためとに近くの病院に連れて行ってくれたが、かすり傷一つないことが分かり、ホッと胸を撫でおろしている。
「美羽、もう大丈夫だよ。怖かったね。もう泣くのはおよしよ」
優しく声を掛けられるたびに、あの男の子を危険な目に遭わせてしまったのは自分のせいだと思うと、不安と恐怖で自分ではもはや涙を止められずにいたのだ。
美羽が幼い頃あんなに恐ろしい目に遭ってもトラウマにならなかったのは、あの男の子のお陰だと、ベッドの中でふと思い返していた。あれが来栖だったのか……。
ピチュピチュピチュ……元気な小鳥たちのさえずりで目を覚ました美羽は、枕元のケータイに目をやった。しかし、まだ裕星からのメールは無かった。
ふぅ、とため息をついてベッドから体を起こすと、軽く伸びをして窓のカーテンを開けた。
一斉に飛び込んできた初夏の早朝の光が眩しくて思わず手で目を覆ったとき、開け放した窓の下で誰かの話し声が聞こえてきた。
窓をさらに大きく開けて体を乗り出すと、先日バザーを見に来ていた栗栖が園長と何か話している姿が美羽の部屋の真下に見えたのだった。
――あら? 栗栖さん、こんな朝早くから何の用かしら?
その時、突然栗栖がパッと真上を見上げて美羽と目が合った。
――えっ? 驚いた美羽は咄嗟に顔を引っ込めた。もう一度恐る恐る顔を出したが、栗栖はまだ園長と話をしている。
――さっき私が見てたことに気付いたかしら?
ドキドキと心臓が高鳴って、美羽は両手で胸を抑えたが、さっき美羽を見上げた栗栖の顔が忘れられずにいた。
着替えを済ませて朝食を取るために部屋を出ようとすると、突然、コンコンとドアがノックされた。
「美羽、私よ」
「シスター伊藤? 今開けます」
急いで開けたドアの外にシスター伊藤がにこやかな表情で立っている。
「どうしたんですか? これから降りていこうとしていたところでした」
「美羽、ちょっと今日の孤児院のお仕事はお休みしてくれないかしら?」
「……どうしてですか?」
「実は、さっき来栖さんがいらしてね。美羽に頼みたい仕事があるんですって」
「仕事って何でしょうか? それに私、孤児院の園長先生にもご連絡しないと……」
「それなら、さっき私からしておいたから大丈夫よ。今日は行事もないし、お休みしてもいいそうよ」
「そうなんですか? でも、私なんかにどんな仕事を?」
「さあ。でも、そんな難しい仕事ではないみたいね。教会の仕事だから神父様の娘のあなたが適任だって仰ってて」
「そんな……私に何ができるでしょうか? それに他に現役のシスターの方たちがたくさんいらっしゃるのに」
「それがね……美羽ご指名の仕事らしいわ。とにかく行ってみてくれないかしら?」
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