第3話 運命的な幼なじみ

 その夜、光太の車でマンションに送ってもらった美羽は、そっと裕星の寝ているベッドルームのドアを開けた。


「―—裕くん、もう寝てるの? 大丈夫? あ、私もう怒ってないからね」


 小声で裕星に声を掛けたが、裕星はもう眠ってしまっているのか、全く微動だにせず返事もなかった。



「裕くん―—おやすみなさい」

 美羽は諦めたように部屋を出ようとすると、裕星はぷいと寝返りを打って背中を向けたのだった。






 美羽はバスタブの中から、窓の外をぼんやり眺めていた。都内の無数のビルの窓の明かりが薄暗くしたままの浴室まで届いていた。



「裕くん、どうしちゃったんだろう。いつもなら、あんなことでいつまでも怒ったりしないのに」



 美羽は考えても考えても分からない裕星の感情に、脳内がパニックを起こしそうになり、ざぶんとお湯の中に頭まで潜った。



 その夜、美羽は消えない気まずさに、裕星の隣で眠ることが躊躇ためらわれた。ゲストルームのベッドに布団を運んでその日はそこで眠ることにした。


 翌日、朝早く起きた美羽は二人分の朝食を作り、寝室のドアを静かに開けた。

「裕くん? 起きてる? 朝ごはん出来たよ」

声を掛けたが、物音がしなかったため、美羽はそっと中に入って部屋のカーテンをゆっくり開けて裕星のベッドを振り返った。


 すると、もうそこに裕星はおらず、ベッドはもぬけのからになっていた。

 ――裕くん、もう仕事に行っちゃったのかな?



 仕方なくリビングに戻り寂しい朝食を終えると、仕事場である孤児院『天使の家』に向かったのだった。





『天使の家』では、園長の富岡が他のスタッフたちと朝の清掃をしながら、子供たちを起こしているところだった。



「園長先生、おはようございます! 昨日はお疲れさまでした」


「ああ、美羽、おはよう。昨日は本当にありがとう。お陰でだいぶ寄付金が増えました。これで子供たちに新しい本を買ってあげられます。

 ラ・メールブルーの皆さんにもお礼をしたいのですが、もし彼らの都合が良かったら、今日か明日にでも子供たちからお楽しみ会の招待状をお渡ししようと思ってるんだよ」



「お楽しみ会ですか?」


「お楽しみ会は、いつもミニライブとバザーを手伝ってくれるラ・メールブルーの皆さんへのお礼として毎年行っているが、子供たちも実はとても楽しみに頑張っているんだ。

 芝居を考えたり、楽器を練習したり、歌を歌ったり。とても嬉しそうにね」


 美羽は、子供たちが集まってワイワイ楽しそうに楽器の練習をしているのをモップをかけながら微笑ましく見ていると、園長が廊下から美羽を呼んだ。



「美羽、掃除が済んだらこちらに来てくれないかな?」

モップをしまって美羽が園長室に行くと、富岡がアルバムを開いて待っていた。


「実は昨日の来栖くんのことなんですが、昔ここにいたときは、美羽のことが好きでよく一緒に遊んでいたことを昨夜思い出してね……。

 彼は7歳の時、児童養護施設からここに連れてこられた──親の愛を初めから知らない子だったと記憶している。


 美羽は昔からとっても明るくて、おとなしかった彼をいつも振り回すように一緒に遊んであげていたんだが、彼はそれがとても嬉しかったようだよ。


 美羽と紗枝さえは昔から双子のような仲良しの親友だったけど、彼と美羽の方はまるで本当の兄妹かと思うほどどこに行くにも一緒だったよ。

 美羽はもう忘れてしまっただろうが、彼が8歳になった時、優しそうなご夫婦に引き取られていった。それが隣町の教会の豊田神父さまだ」


 そういうと、古いアルバムを開いて、栗栖と美羽が並んで写っている写真を見せてくれた。



「話を聞いてもまだ思い出せなかったんですけど、私たちこんなに仲良くしていたんですね? 本当に記憶がないんです、私……」



「いいや、美羽はまだ5、6歳の頃だったからねえ。仕方ないですよ」




「――それで、私と栗栖さんはどんな風に遊んでいたんですか?」


「ああ、『天使の家』ではもちろん、半年に一度の遊園地遠足ではいつも一緒に遊んでいたなあ」




 遊園地という言葉を聞いて、美羽は、あっと声を上げた。


「私、それなら覚えています! あの頃、私、その遊園地で野良犬に襲われたことはありませんでしたか? 私が犬に襲われそうになったんですけど、一緒にいた男の子のお陰で助かった気がします。あ、でも、その男の子は、確か私をかばって腕を噛まれたような記憶が……」




「―—おお、そういえば、そんなことがありましたね。その子は大丈夫だったのかな?」



「あ、えっと……そういえば、誰かに連れられて行った気がします。病院へ行ったと思うんですけど、その時の傷が今でも印象的で……確か星のような形のあざになっていたんです。私の記憶が合っていればなんですけど……」



「それが栗栖くんだったのかもしれないね。昔から勇敢な男の子だったのかな。今彼は神に仕える立派な聖人になっていますし、子供のころから正義感の強い男の子だったからかなあ」



 美羽は、改めて思い出した。あの頃、ほとんどがぼんやりとした記憶だったが、たった一度だけ、自分の身代わりとなってケガをした男の子がいたことを、当時は幼いながら強烈なショックで記憶に刻まれていたのだ。




「栗栖さんは私の命の恩人だったんだ……。それなのに、私ったら何も覚えてないなんて言ってしまった」





 帰り際にケータイを取り出して何度もメールを確認したが、やはりあれから裕星は美羽へメールも一つも送られて来ていなかった。

 いつもなら、同じマンションに住んでいるのに毎日仕事場から何度も美羽にメールをよこし、他愛たあいもない事を伝え合っているはずだったのに。




「―—裕くん。あんなことで喧嘩なんてしたくなかったわ。あんなにちっぽけなことで……」



 美羽はその日はどうしてもマンションに帰る気になれなかった。

 裕星とギスギスした雰囲気で会いたくなかったからだ。大学寮に電話を入れ、今夜だけ寮に泊めてもらうことにした。裕星にはメールで一晩大学寮に泊まることだけを告げて。







 美羽が大学寮にいた時から寮長を兼ねていたシスター伊藤が門の外で待っていてくれた。


「孤児院の仕事が忙しかったようね。ほらほらお入りなさい。今日は突然どうかしたの? もしや海原さんと喧嘩でもしたのかしら?」

 シスターの女の勘は鋭かった。



「――ええと、ちょっといざこざがあって……。でも、大丈夫です。今日だけ泊めていただけますか?」



「こちらは大丈夫だけど、珍しいわね」

 そう言って美羽を事務室のソファーに座らせて訊ねた。




「美羽、何かあったのなら、私でよければ聞いてさしあげますよ」


「シスター伊藤、ありがとうございます。本当のことを言うと、彼と初めて喧嘩しちゃって……。私の方は全然怒ってないんですけど、彼がまだ機嫌が悪くてマンションに帰りづらいんです」



「そうなの。あなたたちはまるで運命の二人のように何でも息が合っていたのに、まあ仕方ないわね。時にはこんなこともあるわ。人間ですものね」

ホホホと笑いながら湯のみにコポコポとお茶を入れている。




「――あ、そうだ、思い出したのですが、隣町の教会の豊田神父様の息子さんで、栗栖さんという方をご存じですか?」




「来栖さん? ええ、お会いしたことはないけどお名前は知っているわ。若いのにとてもしっかりされた神父様と評判の方ね。彼とも会ったの?」



「はい。今日のバザーでお会いしたんです。実は、彼は私が孤児院にいたときの幼馴染らしいのですが、私、少しも覚えていなくて……」



「あらまあ、そうだったかしら? 私も孤児院にいるときのあなたのことは覚えているけれど、彼のことはあまり記憶になかったわ。私もダメねえ、年かしらね」と笑った。

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