第1話 初めての喧嘩

「裕くん、お願いしてたこと、まだやってくれてなかったの?」

 土曜日の朝から美羽の声がマンションの一室に響きわたっている。



「ごめん。昨日は遅くまで新しい曲作りで手間取ってたんだ。今からやるよ」



「もうっ! これで言うの三回目よ! 先週から今日は天使の家でバザーがある日だって分かってたのに。

 裕くんの不要になった私物で、売りに出せそうなものを出しておいてねってずっとお願いしてたでしょ?」



「分かってるよ! 春のライブは終わったけど、夏に向けての新しいアルバム作りが忙しくて倉庫に置いてる不要物を出す暇がなかったんだ」



「裕くんって、いつも言い訳ばっかり!」


 美羽の大学卒業を機に一緒に暮らし始めた裕星と美羽だったが、仕事の忙しさを理由に同じ家にいながらも別居生活のようなすれ違いの日々を過ごしていた。




「ごめんて謝ってるだろ? それに、美羽の方が時間があるんだから、やっておいてくれても良かったんじゃないのか?」



 美羽は4月から、孤児院『天使の家』の園長補佐として正式に仕事に就いていた。


「―—謝ってるだろって、その言い方どういうこと? それに、私が裕くんの私物を勝手にいじれるわけないでしょ?」



「わかったよ、もういい。今から倉庫をみてくる。確かもう使わなくなったギターと昔着た衣装があったと思う。時間までに集めておくから、もう機嫌直せよ、な?」



 裕星が約束を守らなかったことで、普段はまるで聖母マリアのように穏やかな美羽が珍しく苛立っていた。




 二人は予定より少し遅れて孤児院『天使の家』に到着した。数着あると思っていた裕星の古衣装は、以前古着屋に出したばかりであまり残っていなかったのと、やっと見つけた昔のギターも絃が切れていて使い物にならなかった。


 そのため、美羽がまだ使える来客用のカップアンドソーサーや食器類、あまり着ることがなくなっていた洋服を急遽かき集めるために時間が掛かったのだ。





 裕星は自分の不甲斐なさで自己嫌悪に陥っているのか終始無言だった。孤児院、天使の家の園長が二人を笑顔で迎えてくれても、二人は互いに一言も言葉を交わすこともなく、そっぽを向いたままバザー会場に入って行く。




「美羽、海原くんと何かあったのか? 二人とも元気がないようだが。――いや、僕の気にしすぎならいいけどね」

 美羽が小さい頃から世話をしてくれている『天使の家』の園長、今年65歳になる富岡英夫とみおかひでおが美羽に近づいてきて小声で訊いた。


「いいえ、何でもありません。ちょっと朝から忙しかったせいです。大丈夫です」

 美羽が笑顔で答えたが、園長はいつもの笑顔と違う美羽を見て、まだいぶかしげにしている。






「裕星、美羽さん、やっと来たか。待ってたよ。俺たちは先にバザー品の陳列をやっていたんだ。裕星は何を出すんだ? 俺は以前買って使っていないバッグやシューズ類を持ってきたよ」


 光太に声を掛けられ、美羽は仕事の手を休めて振り向いた。


「光太さん! ごめんなさい。だいぶ遅れてしまって……」



「いや、俺たちは大丈夫だけど、時間には厳しい美羽さんと裕星が珍しく遅いなと思ってね。あれ? そういう裕星はどこに行ってるんだ? 一緒に来たんでしょ?」



「はい……」


「なんだなんだ。美羽さん、元気ないね。どうしたの? また裕星さんがくだらないことで怒ってるの?」

 陸が美羽の肩にちょんと触れながら言った。


「あ、陸さん、おはようございます! 怒ってるわけでは……」



「美羽は根がドジっ子だから。裕星さんも大変よねぇ」

 孤児院の幼なじみで親友の紗枝さえが小さな箱を運びながら美羽の顔をチラリと見て苦笑した。



「美羽さんはドジじゃないですよ。ただ純粋で一生懸命なだけですよね」

 光太がいつものように優しくフォローしてくれた。



「光太さんは女性には優しすぎるからなぁ。でも、もし裕星さんに酷いことを言われたら、俺に言ってくださいね! 言い返してやりますよ」

 陸がシュッシュッとボクシングのジャブのポーズを取っている。




「皆さん、ありがとうございます。本当に何でもないので大丈夫です」



 すると、そこに裕星がのっそりと姿を現した。


「あ、裕星さん! 美羽さんをいじめたりしてないでしょうね! 美羽さんの天使の笑顔が今日はいつもより少ないのは裕星さんのせいでしょ?」

 陸が早速裕星に詰め寄っている。



「――ああ、俺が悪いのかもな」


 裕星がポツリと言った。あまりにも素直に認めた裕星の言葉に、メンバーたちは拍子抜けして一斉に裕星に注目した。




 陸は、普段から演奏技術も歌も女性ファンの数でも裕星に勝てたことがなく、裕星に睨まれて一言注意されるだけで委縮していたのだが、いつもとは違ってしゅんとしている裕星を見て、調子に乗ったのかさらに追い打ちをかけた。


「ほうらね! やっぱり裕星さんが美羽さんにキツことを言ったんだね? 美羽さんは他の女の子よりも純粋で正直者で……裕星さんにはもったいないくらいなのにねぇ!」





「陸、もう止めろ。裕星と美羽さんのことは当人同士の問題だし、You'd better mind own your business.いちいち俺たちが口出しすることじゃないよ」

リョウタにさとされ陸はふんと唇を尖らせている。




 富岡園長が子供たちを引き連れ、皆のいるバザー会場に入ってきた。



「皆さん、ご苦労様です! これからバザーを開始しますのでよろしくお願いします。ボランティアとはいえ、毎年こんなに貴重な品物を出していただいて、本当に感謝しています。

 子供たちはこの日を楽しみにしていたんです。春のバザーにはラ・メールブルーの皆さんに会えると、もう何日も前からソワソワしておりました」




 園長の背中に引っ付いていた子供たちは、ラ・メールブルーの皆を見つけるなりパッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。たちまちメンバーの周りには子供たちで人だかりができた。



「ねえねえ、陸くん! 僕ね、昨日跳び箱が跳べたんだよ!」

 小学3年生くらいの男の子が陸の袖口をちょんちょんと引っ張りながら目を輝かせて報告している。


「おお、やったね! 前はまだできなかったのに、ちゃんと練習したんだな? えらいぞお!」


 陸に頭をぽんぽんとされ、男の子は嬉しそうに肩をすくめている。





「さあさあ、みんな! ラ・メールブルーの皆さんがこれからお客さんたちにお店を開いてくれるんだよ! みんなもお手伝いしてくれるかな?」


 園長が声を掛けると、子供たちは一斉に声を揃えて、はーい、とキラキラとした瞳で答えた。




 やがて、孤児院の近隣に住む人々や、遠くからこの日のために毎年やってきてくれる子供たちに寄付をしてくれている支援者たち、また大勢のラ・メールブルーのファンの女の子たちで孤児院の前は長蛇の列ができた。




 夕方までにほとんどの品物が売り切れて、そろそろ片づけをしようとしていた頃だった。


 客足もまばらになってきたバザー会場に、一人背の高い若者が入ってきた。

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