水害ボランティア

東雲そわ

第1話

 水を吸った畳は大人四人で運び出す。そこに女性が含まれていたり、運び出すルートが広い場合は五人、六人と運び手を増やす。身体に掛かる負担を減らすことは、作業の安全を確保する上でなによりも重要だった。無理をすれば怪我に直結するし、疲労が溜まれば、いくら気持ちがあっても全ての動きが緩慢になり、安全への意識も疎かになる。


 足元はどこも濡れていた。濡らしているのは雨や川の水だけではなく、下水から溢れた汚水も含まれる。足を置く場所の全てが泥に塗れていて、その泥がどれほどの危険を含んでいるのかは見た目ではわからない。細菌はもちろん、人の肌を傷つけるような危険物や、油の臭いを漂わせていることもあった。

 踏み抜き防止の中敷きを入れた長靴で、一歩一歩、確実に歩を進める。

 室内から外へ運び出す際には、どうしても段差を越えなければならない。玄関を通れれば比較的少ない段差で済むが、大抵はそこを通れない。段差の大きい掃き出し窓から外に運び出すことが多かった。人が多ければ、そこを中継点として受け渡すこともできるが、ほとんどの現場は人手が足りない。一度、畳を下ろして、段差を降りてから、また畳を持ち上げる。

 家から運び出して終わりではない。そこから、近くにある臨時の集積所まで運ばなければいけなかった。距離にすれば十数メートル。ただ歩くだけならなんてことはない距離を、渾身の力と細心の注意で畳を運んでいく。

 それを何往復もする必要があるのだ。六畳一間でも六往復。和室の多い住家となると、それが二倍にも三倍にも膨れ上がる。


 ボランティアは時間との戦いでもあった。

 限られた時間の中で作業をして、どこかで見切りをつけて、その日の作業を終え、撤収しなければいけなかった。

 何を優先して、どこまで完了させるか。

 何度目かの参加で、班分け時にリーダーを任されたときは、作業工程にも頭を悩ませた。

 次のボランティアがいつ来るのかもわからない。

 何十年に一度の水害で、浸水の被害にあった住家は市内で八千棟を超えていた。

 一日に集まるボランティアは平日で二百名、休日となる土日でも四百名。

 単純に考えても人が足りない。

 加えて、支援作業が一日で終わる現場はまずなかった。作業の動線を確保するための泥の搔き出し、濡れた家財の運び出し、まだ使える家財の選定、畳の運び出し、床板を剥がしたら、また床下の泥を搔き出す作業が始まる。その合間に、清掃を行い、少しずつ元の姿に近い状態へと戻していく。災害ゴミとなった物の分別もある程度は必要だった。日が経つにつれ、家屋の中から外へと作業も移っていく。ボランティアに参加していた期間の後半は、庭の泥を除去する作業がほとんどを占めた。

 

 ボランティアセンターが設置された初日に参加したとき、まだその情報が行き渡っていなかったせいか、ボランティアの数は少なかった。

 集合場所には百名近く人がいたけれど、その半数は市の職員だった。

 班分けでも、その市の職員がリーダーを務めるような形で、支援先の住家に向かった。

 支援先で作業をしていると、その近隣の家からも「手を貸して欲しい」と声を掛けられた。

 まだ初日ということもあり、誰も要領を得ていなかったせいか、初日の支援先には過剰な人員が配置されていた。泥の搔き出しと、家財の運び出しとその選定で場所を取られて、人が余ってしまう時間が度々あった。

 自分ともう一人の男性が、合間を見て隣家で畳の運び出しをしているときに、同道していた市の職員に言われたことがある。

「支援先以外での作業はしないで欲しい」

 選定基準はわからないけれど、支援を待っている被災者は他にもいる。その順番を無視して、支援をしてしまうことは不公平になる、という理由だった。

 理解はできたけれど、そのときは感情的に受け入れることができなくて、自分ともう一人の男性は隣家の畳を全部運び出すまで手伝った。お礼に缶ビールをもらったけれど、自分はアルコールが好きではないので、一緒に作業をしていた男性に差し上げた。


 三度目のボランティアで向かった支援先は、所謂ゴミ屋敷と言えるような場所だった。

 そうしたかったわけではなく、そうなってしまった場所だった。

 家主は高齢の男性で、病気で入院しており、不在だった。災害にあった日も病院にいて、支援が入るその日まで、誰もその部屋には入っていないということだった。

 ボランティアに支援要請を出したのはそのアパートの大家さんだった。

 「ダメと思われる物は全部捨ててください」

 正確な言葉は覚えていないけれど、依頼された作業内容はそれだった。


 既に災害から一週間以上が経過していた。

 木造1Kの室内を見て、最初に感じたのは危険だった。

 腐臭に紛れて、油の臭いがした。

 灯油を撒き散らしたような、頭が痛くなる臭い。

 よく見ればガスのスプレー缶なども泥に塗れて散乱していて、足の踏み場もない状態だった。

 

 その日は班のリーダーを任されていて、同じ班の人から「やるべき場所じゃない」という意見が出ていた。

 危険を伴う作業はできない、というのがボランティア参加者の共通認識としてあったからだ。支援に向かう現場は、事前にボランティアセンターのスタッフが視察して、安全と作業内容が確認されている場所だけだと聞かされていた。


 でも、その日の現場は誰もが危険を感じる場所だった。

 泥に隠れて、何があるかもわからない室内。

 不在の家主。

 捨てるにしても、どこまで捨てていいのか、誰が判断するのか。

 支援要請を出した大家さんも、現状に困り果てている様子だった。


 ボランティアセンターに電話して、担当スタッフが確認に来るまで、家の周りの片づけをすることにした。

 家の周りも物で溢れていた。古い家電製品が多かった。それらを修理するのが仕事?趣味?のような話を大家さんから聞いたこともあり、室内に足を踏み入れるのが尚更怖いと思った。

 泥に塗れてしまった家電製品は「ダメになってしまった物」という認識で、次々と仮の集積場として場所を設けた駐車場の一画に運び出した。


 外での作業がある程度進み、室内での作業をやるべきか躊躇しているときに、同じ班にいた大学生が「やりましょう」と言ってくれた。

 彼は遠方から一人で駆けつけてくれたボランティアの一人だった。


 彼の言葉で、自分もやる決心がつき、班のみんなも「やろう」と言ってくれた。

 班のリーダーとしては、判断を間違っていたのかもしれないけれど、何もしない、という選択はその場の全員が選びたくなかった。


 その部屋は、文字通り「ぐちゃぐちゃ」になっていた。

 すぐそばを流れる小川が氾濫し、そのアパートの一階は酷く浸水してしまったと大家さんが言う通り、侵入した大量の水がそこで激しく渦を巻いたような惨状になっていた。


 室内での作業を始めて間もなくやってきたボランティアセンターのスタッフが、室内の状態を見て言葉を失っていた。

 やるにしても人手が足りないと思ったのか、応援を呼んでくれることになった。


 玄関は物で埋まっていたため、みんな掃き出し窓から出入りしていた。

 寝室兼作業部屋と思われる場所には、やはり家電製品やその部品と思われる物が散乱していた。家主にとって財産の一つかもしれないそれらも、すべて泥に塗れていたので、やむなく集積所へ運び出す流れになった。

 その部屋にあったスプレー缶だけでゴミ袋がいっぱいになった。

 ヘドロのように床に貼り付いていた炬燵布団を引き剥がすと、その下にあったカーペットも泥と同化していて、さすがの大学生も辟易していた。


 キッチンの方には空き缶やペットボトル。割れた食器や、なぜか衣服のほとんどもそこにあった。

 冷蔵庫の中身は全て腐っていたので、全て生ごみとして処分した。

 水は汚水であり、泥は汚物とそう変わらない。

 それらに触れた物は衛生的に危険であり、キッチンにあった物はほぼ全滅という認識で作業を進めた。

 

 昼休憩を挟んで、午後の作業を始めるところで、応援の人員がやってきた。

 その方は、個人としてもボランティアグループのリーダーを務めており、乗ってきた軽トラックには「ネコ」と呼ばれる運搬用の一輪車や、高圧洗浄機など、多彩な機材が積まれていた。


 経験豊富なその方のおかげで、作業のスピードは一気に上がった。中でも「ネコ」の存在は大きな助けになった。

 どれほどの物が残っていたのかはっきりとは覚えていないが、作業時間が終わりに近づいたころには、高圧洗浄機を室内で使っていたぐらいなので、ほぼ空っぽになってしまっていたのかもしれない。

 ビニール袋にまとめられた捨てられない物は、僅かだったような記憶がある。


 作業を終え、帰ろうとしているときになって、一人の人物がタクシーに乗ってやってきた。

 その方が、その部屋の家主だった。

 大家さんからの連絡を受け、病を押して駆け付けてくれたらしい。

 家主は、災害に見舞われる前の部屋しか知らない。

 汚泥に塗れたそこを見ることもなく、空っぽになってしまった部屋を見ることになるのだ。

 そう思うと、申し訳ない気持ちが大きかった。家主の気持ちを考えていなかったのではないかと、そのときになって後悔した。

 それでも、家主から「ありがとう」と言われたときは、少なからず嬉しかった。

 その後、あの部屋と家主がどうなったのかはわからない。

 

 それからも何度かボランティアに参加したけれど、あの木造1Kの現場が、なによりも印象に残っている。

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