ぐちゃぐちゃ

入河梨茶

ケンとアカネの場合

 キャラコは家へ帰る途中だった。

 キャラコの魔術が奏功してサナエがいなくなっても、キャラコへのいじめは変わらず続いている。一人減ったくらいでは告発のための証拠を独力で確保するのは難しい。

 ただ、最近は証拠入手への期待はしなくなりつつあった。首謀者の親が政治家でそれくらいは握り潰されそうだと見当がついてきたし、手に入れた魔術書を使う方がよほど早くて適切だという気持ちもある。

 しかし、一回三分の時間制限と、多くても一日数回という回数制限はやはりつらい。この程度では今使えるどの魔術を仕掛けても首謀者を完全に無力化して復讐するには足りないだろう。

 傍観していたケイとミネコの入院――これにもキャラコの魔術が大きく関与しているのだが――もあって、教室にはまあまあ不穏な気配が漂いつつあった。教師らの下手な介入も今さらあって欲しくないし、首謀者は危険を察知したら逃げる可能性もあり得るので、ここからはグループの連中をほぼ同時に仕留めるくらいのつもりでいきたくもある。

 つまり、時間制限を伸ばすなりいっそ解消するなりするか、使える回数を爆発的に増やすか、もっと強烈な魔術を使えるようになるか、いずれにせよ何らかの形でもっとレベルアップする必要があるということだ。


 頭を悩ませながら、街路樹の並ぶ歩道を歩く。十月中旬の、繁華街に近い商業地区。陽はどんどん短くなっている。

 うつむいていたキャラコの前に、二つの影が立ちはだかった。

「こんにちは。君、魔術書持ってるよね?」

 軽薄な笑みを浮かべる眼鏡の少年が薄っぺらな声音で言い。

「早くよこせよブス」

 整った顔にこの世すべてを小馬鹿にしたような笑いを浮かべる小柄な少女が平然と言った。

 キャラコは魔術書の入ったカバンを抱きかかえると、踵を返して全力で逃げる。

 しかし。

「逃げるなんて無理なんだなあ」

 少年の声が、いつの間にか前から聞こえていた。必死に彼らから逃げたのに、足は彼らの方へ向かっていく。抱えるカバンが熱を帯びたように感じた。

「めんどくせーから無駄なことすんじゃねーぞカス」

 少女がせせら笑う。

「こ、こんな街中で人を襲ったりしたら騒ぎに――」

「ならねーよタコ」

 少女の言葉に周囲を見渡せば、周囲のビルや人影にベールがかかったようになっていた。ベールの内側にいる三人を無視するように人々は歩いていく。

「一応説明しておくと、僕はケンで彼女はアカネ。僕らは魔術を取り締まってる結社の一員だ。魔術なんてそうそう簡単に使っていいものじゃないからね」

 ケンと名乗った眼鏡がへらへらと笑う。

「その分厚い魔術書使って何人襲った? そんな魔力の塊、お前にゃもったいねーからとっとと差し出せよクズ」

 アカネと呼ばれた美少女が嘲りながら言った。


「……正当防衛です。私は激しくいじめられて、こんな手でも使わないと対抗なんてとても――」

「知らねーよゴミ」

 キャラコの抗弁はたちまち遮られる。

「そんなのてめーの自己責任だ。自力でどうにかしろよヘボ」

「僕らは消防士みたいなものなのさ。少しは同情するけれど、警察じゃない。そして放火されたら消すしかない」

 キャラコは、話す二人の目を観察していた。

 アカネは言うに及ばず、ケンの目も冷たく、それでいて愉悦に満ちていた。

 ――ああ、あいつらと同じだ。

 虐げることを楽しむ目。無力な相手をいたぶることが面白くてしかたないという目。

 キャラコ自身が、最近そうなりつつあるかもしれない目。

 で、あるならば。

 ためらう理由は何もない。



「何黙ってんだバカ、手間かけさせんじゃねーよアホ」

 カバンを抱えたまま無言で立ち尽くすキャラコをアカネはなおも罵り続ける。

「まあまあ、穏便に行こうよ」

「何言ってやがる。どうせぶち殺すだけの相手に穏便も何も――」

 口汚い美少女の口が歪んだ。

 不可視の手に掴まれた、と感じた次の瞬間、口がぐちゃぐちゃに潰される。

 だが皮膚が破れ肉が裂かれ骨が折れ歯が砕けるという感触は一切ない。痛みもなく、何も損なわれず、ただただ形を変えられていく。

 粘土をこねくり回すように、アカネの口はあり得ない状態へ作り変えられていった。

 目の前の陰気なガキによるものと悟る。横目で見ればケンも似たような状態にあった。

 急いで魔術を発動しようとして、視界が明後日の方向を向く。右目と左目がまったく別々のものを見ている異常事態。魔術発動の基本である精神集中が妨げられる。

 片方の目がなぜかアカネ自身の顔を視野に収めた。それぞれの目がカタツムリの目のように顔から飛び出している。先ほどまでの美少女の原型をどこにも留めていない顔。

 最近魔術書を入手したばかりの陰気なクソガキにこんな高度な魔術が使えるはずないのに。弱っちい相手が泣き叫ぶのを眺めながらなぶり殺しにするだけの、楽しくて簡単な仕事だったはずなのに。

 自分に向けられたアカネの片目は、アカネとケンがぐちゃぐちゃの一まとめにされていくのを目撃させられていた。

 顔も頭も手も足も胴体も服も一つの塊のようになり、そのくせマーブル模様は維持されてコーヒーの中のミルクのように溶けはしない。それぞれの感覚は保たれていて、足を動かそうとすると唇の傍の肉が震えた。

 ご丁寧に、鼻の穴はわざわざ体表から突き出されていた。窒息死しないようにという配慮なのか。

 

「この本もあなた方は気に入らないようです。一時的ですが、力を貸してもらいました」

 メスガキの声にアカネは怒りを募らせる。無理矢理にでも精神集中して、魔術を使い、こいつを殺す。それさえ済ませてしまえばこの魔術は解けるはずだし、仮に解除されなくても自力で解けばいい。

 だがそこに、駄目が押される。

 アカネの精神の中に、別の何かの意思が大量に混ざり込んできて、さらにぐちゃぐちゃにされた。



 三分間の時間制限はかかったまま。けれどこの粘土化の魔術は、三分後に効果が切れた時点での状態を永続させてくれる。

 さらにもう一つ、精神融合の魔術も今だけは使えた。街路樹の根元にいたアリたちの意識を二人と混ぜ合わせる。精神という意味では、アリと人間に身体ほどのサイズ差はない。人間としての精神は数百匹の意識に飲み込まれ、数百分の一に分割されてそれぞれのアリへと戻り、肉塊の方もアリが大部分を占める計算だ。

「ま、放火の例えで言うなら、延焼はさせないようにせいぜい気をつけますよ。あなた方みたいに大義名分掲げて楽しげに突っ込んでくる連中はその限りではありませんが」

 どれほど聞こえているのかわからない――耳の穴までは気にしていなかったし、精神を混ぜられて人間の言葉が通じる意識が保たれるかも定かでない――が、キャラコは肉の塊にそう言うと、周囲を覆うベールを突き抜けて帰宅の途に就いた。

 肉塊はどうなるのか。あのベールがいずれ失われて怪生物発見となるのか、結社とやらの仲間が救出するのか。どちらにせよ、たとえあいつらがキャラコの前に再び現れるとしても、その前にするべきことは終わっているはず。

 襲われる前よりも力が満ちている。魔術書は今のピンチを切り抜けたキャラコを認め、より自身を使いこなせるようにしてくれたみたいだ。

 これくらいの力があれば、今夜中にも決着をつけられるかもしれない。そう思いながらキャラコは進む。

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