彼は建築家だった。設計図しかない建築家だった。

 彼は定期的に鬱状態になった。鬱になるのに理由はない。週に一度くらいのペースで急激に落ち込み、青菜が見る見るしおれるように元気がなくなり、いくら次男が人形で「あやそう」が、まるで効き目がなかった。そして、そのように落ち込んでいることを知られるのが嫌だった。それは彼が完全無欠の鉄人ではなく、ただの弱い男であるという事実をバラすようなものだからだ。体調不良は即、自分のついている無数の嘘の暴露に繋がった。そして、その状態はたびたびやってきた。


 聞かれれば「ただの風邪だ」と言った。実際、顔色が悪く、鼻が出たり咳き込んだり下痢になったりと、風邪のような症状をともなったが、気候の変化や食生活などの、外の要因がまるで見当たらない場合も多く、根本は精神面にあると、周りは結論づけざるを得なかった。なにかストレスがあるんだろう、息苦しいんじゃないの、と女房から言われるたび、彼は無理に頭を振った。


 彼自身はどこかで知っていたはずだが、日ごろ完全に無視しきっていたある傾向が、彼にはあった。実は自殺を図りたいほどに苦しんで絶望しきっており、ただそれに蓋をして見ないようにし、意識からほとんど消し去っていたため、蓄積された負の感情が定期的に肉体を脅かすのである。これが「鬱状態」であり、彼の言うところの「風邪」だった。

 ただ逆に言えば、これのおかげで生き続けられた、ともいえる。頻繁に起こる落ち込みは、体内に溜まる悪いものを放出するガス抜きであった。もし、これすらしなかったら、彼の不健康なやせこけた肉体は成人どころか思春期までももたなかったろう。若いうちにあっという間に癌になって死ぬとか、あるいは自殺未遂を繰り返したあげくに達成するとか、人生の早期に全ての片がついていたはずだ。


 彼はまた、幼児期からの親からの扱いのせいで極端な甘え癖がついていた。ただ母親の好む良い子になるため、自己満足をかなえる道具として利用され、都合の悪い部分を多分に持つ彼自身の存在が全く許されなかったことは、彼に「自分は犠牲者である」という強固な自覚を持たせた。

 確かに親の犠牲になったことは事実だが、その耐え難い屈辱と苦痛が彼に「だから俺はたいていのことをしても許されて当然だ」というゆがんだエリート意識のような認識を作った。この意識は彼をいっけん横柄で自信家に見せた。また「このような目に遭う子供はそういないはずだ」という思いが極度の優越感と選民意識を与えた。自分は選ばれしものである。だから、なにか素晴らしい才能があるはずだ、と。

 一方で自分が虫けらのように踏みにじられ無視されたと感じれば、もう一方で自分が天才で周りから神のごとく崇拝され愛されている、ということにしなければ、彼の幼少の精神が持たなかったのである。


 そういうわけで彼は、極端に大人しく主張もせず、欲しいと思ったものすらなんでも他人に譲る極端な謙虚さを見せる一方、当然すべきことや義務をまるで無視して遂行せず、人任せで放っておくことが多々あった。

 小学校の体育なら、誰かが自分のために倉庫からボールを出してくれるのは当然だし、重いものは誰かが持ってくれて当たり前。掃除をさぼったり、成績が悪かったりしても、誰からも責められず、怒られない。そんな選ばれし者としての特別扱いがなければならなかった。

 もちろん、そんな態度は小学校に入って数日で終わった。すぐに当然の報いとして周りから嫌われていじめられ、宿題や苦手な体育の授業をさぼった等の理由で教師に怒られて、教室の笑いものになったからである。


 そうなると、彼の全ては逆転する。家でも外でも虫けら扱いされるわけだから、自分が完全に蛆虫以下の腐臭を放つ汚物に成り下がったと信じた。もう現実世界では、彼を助けるものはない。

 そこで彼は、脳内で自分だけの「現実」を作った。それが「建築家」だった。彼は、いじめられバカにされ罵られ、存在を消し去られ続ける現実の自分と、それを取り巻く世界を完全に否定し、見なくなった。自分が鏡に映ると目を背け、街のショウウインドウに自分の姿が映れば慌ててそっぽを向き、ただ猫背の輪郭を持つ、ぶれた不快な影だけが視界の枠内に残像として残った。


 彼はいつも猫背だった。胸を張るのは落ち込みすぎて不可能だった。彼はたんに自分が遠慮してつつましいから下を向いていると思っていたが、周りはひねくれた不良とみなし、それがただのポーズで何も怖くもない気の小さい間抜けと知るや、ただちにバカにして、一部の連中はいじめ抜いた。


 実は彼は下など向いていなかった。ガチガチに緊張して怒らせた両肩と首の間に、なにかを挟んで潰すかのごとく、後ろ頭をぐいぐい押し付ける。このような後頭部を背に極限までくっつけた猫背だと、とうぜん顔が上を向く。それはいつも不満で苦虫を噛み潰す表情だから、人を不快にさせても仕方なかった。

 世間では猫背は、いじけた、まっとうな真人間でない者の姿勢であると見なされる。ヤクザ、ゴロツキ、チンピラの振る舞いである。だが中身は気弱な情けない男。

 実は暴力を振るう者は全員そうなのだが、たんに体の自由がきくので、他人を脅かして一時の満足を得られる力があるに過ぎない。


 彼は自由がきかなかった。誰かをどんなに殺したいと憎んでも、その体は鎖でガッチリと縛られたようにぴくりとも動かなかった。その原因は、やはり現実逃避だった。現実の自分が全て真っ赤な嘘で、この世のどこにも存在しないと思っていては、現実には存在する自分の肉体を、意思で動かしようがなかった。

 彼は形だけの不良だった。猫背のひん曲がった不健康で不まじめなポーズは、他人になんの威圧も与えず、ただむかつかせるだけの無力な醜悪だった。


 だからカブトムシの幼虫が大嫌いだった。小学校の理科の時間、クラスでグループ分けして飼育したが、その白い輪っかのような曲がった形が、自分のいじけた姿を嫌でも思い出させ、見ただけで凍りついた。だが理科室でなにも出来ずにただ突っ立っている彼を見ても、グループの者は「またあいつ、ボケーとしてる」としか思わなかった。

 実際、本当の自分と理想の自分が完全に乖離している彼は、終始ぼうっとしていた。その状態は殴られても蹴られても罵られても、痛みをさほど感じなくて済むので、助かった。彼は日々の生活でこうむる苦痛を減らすため、心身のあらゆる感覚を麻痺させていた。



 四十になった今でも、ニュースで悲惨な事故や事件を見るたび、家族が顔をしかめている脇で、彼だけがただ面白がってにやにやしていた。

 このようなぼけた様子は、家庭では天性と思われてさほど問題視されなかったが、次男だけはそれを恐ろしいと思い、自分の感動したアニメを山のように見せた。次男はアニメの萌えに癒されることで荒んだ現実に飲まれずに済んでいたので(長男は対照的にそれをあざけり、暴力的な映画や小説ばかりに接し、自分でもそのような小説ばかりを書いては、性根が腐っていった)、その素晴らしさを彼にも知ってもらおうとした。

 彼は鬱のときは観たがらなかったが、それ以外なら応じ、次第に萌えの持つまろやかで優しい世界に心を助けられるようにはなっていった。

 次男は萌えがなかったら破滅していただろうが、彼もある程度はそうだった。その意味では二人は同志ともいえた。どんな意味でも同類がいることで、彼の精神はいくら荒んでも一線を越えずにすんだ。だから彼は、自分がまともだと思い込んでいたのもあるが、ここまで酷い精神状態であるにもかかわらず、今までに精神科の門を叩いたことが一度もない。


 カウンセリングを受けたいと何度も思ったが、金銭面で諦めた。保険がきかず、一時間の相談で一万円では、金を溜めるだけで何年もかかってしまう。

 ろくに働かず、家ではもっぱら家事手伝いという身分だから、小遣いも微々たるものだった。それも自販機でつい缶コーヒーを買ったり、無駄遣いしてなくしてしまう。

 酒は何かあったときにヤケで飲むくらいで普段は飲まず、煙草もやらないのは救いだったが、もしやっていたら、むしろその分の金はもらえていたろう。


 中毒のようなものに関しては、家族は「仕方がない」という認識だった。次男のアニメの人形の買いすぎは、彼が大黒柱だからある程度はやむをえなかったが、本人も控えたいのは山々だった。しかし、ストレス等で出来なかった。仕事場の近くのアニメショップで気に入った少女キャラのフィギュアを見つけると、買わずにはいられなかった。

 パソコンの仕事は好きだったから辛くはなかったが、家の出費は膨大で常にやりくりに悩んでいた。今は母もパートに出て多少は稼いでくれるし、家計簿をつけるのも手伝ってくれるが、彼女が若い頃は荒れることも多く、仕事も家庭も全て次男である彼に押し付けられて参った。



 いちばんきつく、またブチ切れたのは、母がアル中になったときだ。

 彼は高校生だった。街中で飲んで歩き、そこらじゅうの店で溜まったツケを彼が払って歩いたこと自体は、めんどうでもそう嫌ではなく、むしろ彼女の体が心配で嫌だった。それよりも、彼女が飲み屋で半裸になって騒いだり、挙句はそこの行きずりの男性客に向かって「自分に手を出した」などと根も葉もないデタラメを言って絡み、周りに散々迷惑をかけたことが最悪だった。

 特に自分の女房が外で飲んで別の男に付きまとっているというのに、父が相変わらず部屋に引きこもって最後まで何もしなかったのには、さすがの彼も殺意を持った。

 父は何か自分絡みの事件が起きても常に人任せで何もしなかったが、ここまで酷ければいくらなんでも何かするだろうと思ったのに、この場合もいつもどおりだった。

 父は黒いカーテンの向こうで、彼お得意の「無力感のもてあそび」に没頭し、自分の駄目さと救いようのなさの反省という、いつもの強固な砦に逃げ込んで引きこもり、罪悪感というナルシスティックな暗い快感に溺れて、畳にずっと座っていた。

 こういう場合、父が駄目なら長男がまず呼ばれそうだが、彼は雲行きを感じるや、さっさと逃げていなかった。


 警察に呼ばれて次男だけが店まで行くと、母は上半身裸で、見知らぬ男の客に自分の胸を触らせているところだった。彼は目を丸くすることもなく、ただ疲れたように力なく細めるだけだった。母親の痴態にはある程度慣れていたので、まず「またか」の念が起こり、次いで「だが、ここまでするか」と徐々にショックがわいて、暗い失望に心から毛先まで覆われていった。

 母は次男を見るや顔色を変えて暴れだし、怒鳴り散らしてテーブルを蹴倒すわグラスは投げるわで警官たちに取り押さえられ、やっと落ち着くと、彼が連れて帰った。アパートでは母は部屋のカーテンの仕切りを見もせずに通り過ぎ、奥の自分の部屋で布団を被って寝た。家族には鉛のように重い夜だった。



 しかし彼女は、このまま一家で破滅するほどバカではなかった。

 数日後、自分から市内の病院に行き、治療を受けた。そういう努力の助けは全て次男がやり、夫は彼女が退院するまで部屋でぐずぐずと自己嫌悪をいじくるばかりで何もしなかった。

 彼が全くの無能だからこそ付き合う気になったわけだから、仕方がないとも思ったが、この情け容赦ないでくの坊っぷりには、彼女もさすがに失望した。それでも別れよう、などとは露ほども思わなかった。というより、別れられなかった。


 この夫婦は、お互いに相手をもし失ったら、自分なんぞにはもう永久に死ぬまでパートナーなど見つからない、と固く信じていた。こいつがもう最後なのだ。どんなに幻滅しようとも、よそにもっと酷い家庭などいくらでもある、と自分たちを美化しようとした。


 ――夫が冷たい? 頼りない? 保身ばかり? 殴るわけじゃなし、罵るわけでもなし、酒乱にもならず、こんな良い「男」いないだろう。

 ――女房が酒乱? 外でやってくれるんだから、なにも迷惑じゃない。自分にはたまに金のことで嫌味を言うくらいだし、本当は家にいる自分がやるべき料理までやってくれる(自分は何度やっても覚えられない。作れるのはせいぜい焼きうどんとインスタントだけ)。こんないい女いないよ。世の男はうらやましがるだろう……。


 しかし次男が、ある月末の修羅場で、言うに事欠いて飲み屋での母親の狂態をバラしてしまったときは、彼も一瞬目を丸くした。が、すぐにさっきまでしていたようにうつむいて目を閉じ、叱られる猿回しの猿のような塩梅に戻った。

 ショックを受けたとき、出来るだけ何も感じないよう心を閉じる訓練を積んできたので、第三者には彼が冷酷非情な極悪人に見えたろう。


 そのクールと見まがう態度は、実は学生の頃に何人もの女生徒に気に入られていたのだが、彼と口をきいたほぼ全員が、その現実感のまるでない目で喋るマネキンのような気味悪さ、人間味のないスカスカの空洞が息をし、動作しているおぞましさにぞっとし、さっさと逃げ出して、それきりだった。

 もちろん、それは「自分は女とは永久に縁がない」という彼の確信と完全にマッチする現象だったので、彼をゆがんだ意味で大いに納得させ、その日の酒の口実を与えた。敗残兵の宴会、と彼は調子のいい言葉で呼んでいた。もちろん一人でするのである。


 彼にとっては全人類が邪魔だった。生きた人間すべてがストレスと不快の元だった。もちろん、家族に助けられながら、そう思うのである。

 百歩譲って、「自分の家族なぞをしている奴らは、人のうちに入らないのだ」などと規定しても、人類は家族に給料を払い、商人ならものを売って生活を助けていたから、彼も間接的に人類の世話になっていた。そして、それを知らないのは彼だけだった。

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