#4 すべての不便は名前がないこと

 

「名前がわからない……のですか?」


 目の前の空色の髪の少女、フィオは当惑した様子で呟く。

 悪い冗談みたいだが頷くしかなかった。


 状況整理をしている間に気付いたのだが、俺はこの山の中で剣をぶっ刺されてた経緯のほかに、自分の名前をもすっかり忘れてしまったらしい。

 漢字かカタカナか、それすら思い出せない。住んでたのは思いっきり日本だからおそらくは漢字なんだろうが。親や親戚の名前も思い出せるが、旧姓を含めて名字が思い出せない。子供のころのあだ名もだ。

 俺の記憶から、自分の名前に関する情報は全くと言っていいほど失われていた。


「その、俺もどこから説明したもんかわからないんだけどさ」

 ほんとどこから説明したもんかね……。



 そんなわけで、目が覚めたらこの剣で串刺しにされていたこと、なぜか死んでも勝手に復活すること、死ににくくなってること……を説明した。

 さすがに「日本で大学生やってたんだよ~異世界転生してまいったね」って部分は話さなかった。フィオを混乱させても、俺の頭がヤバいと思われても困るしな。


 結論としては奇妙な記憶喪失ということにした。

 自分が何者なのか、どうしてここにいるのか一切わからない。ひょっとしたら他にも抜けてる記憶があるかも……って感じで。

 そんな俺の話を、フィオは疑いもせず真剣に聞いてくれた。


「ふむむ…………」

 フィオは顎に手を当てながら唸る。顔立ちが整っているから、こんな些細なしぐさをしても絵になるのが素晴らしいと思った。

「もしかしたら、さっきの『印の柱』の影響かも知れませんねぇ……」

「『印の柱』?」

 俺の質問に、フィオは「ああやっぱり」みたいな反応を示した。

「『柱』に照らされて『聖印シジル』が宿った人は、記憶を失うことがあるんですよ」

「記憶を失う」急に専門用語ラッシュがきたな。

「あなたのような状態は稀ですが、ないとも限りません」


「オッケー、詳しく教えてくれ」



「『印の柱』と呼ばれる現象があります。時折、空から真っ白な光の柱が降りてくるんですが……そんな光景は記憶にありませんかね?」

「いや、覚えてる限りではないな」

 フィオは頷いた。

「無理もないでしょう。先も言いましたが、『柱』が放つ光を浴びた者は記憶を失くしてしまうことがあるんです」

「そりゃまた恐ろしいな」

「はい。それどころか、人によっては、その」

 不意にフィオが口籠った。

「その……心が壊れてしまうことも、あります」

 明らかに様子が変わったので、思わず彼女の顔を見てしまう。

 うつむいたその瞳の中に闇が揺れた気がした。

「……災害ってわけね」

「ええ。いつ、どこに発生するかわかりません。十年前に王都リュシマールに出現したときは甚大な被害をもたらしました」

 下を向いたまま、暗い口調でフィオは呟いた。

 何を言うべきかわからなくて、しばらく無言のまま歩いた。


 ついに沈黙に耐え切れなくなった俺から話を切り出した。

「さっきの話じゃ、ついでにシジ……えっと、なんとかどうって言ってたな」

「『聖印シジル』のことですかね?」

 違う話題を振ってみると、またフィオの調子が戻った。

 顔を挙げてこちらを覗き込んでくる。表情に翳りはない。

「そう、それだ。たぶん」

「『柱』の光を浴びると、こうした『聖印シジル』が身体に宿ることがあるんですよ」

 左手の黒布をめくって金色のアザを見せてきた。

 よく見れば、アザというには複雑で意味ありげな紋様だ。入れ墨と言われても信じるかもしれない。


「これは【祝福】という意味のシジルです。私が思う『こうなればこの人のためになりますね』ということを実現する、という権能があります」

「さっきの、傷を癒したり、剣がぐにゃぐにゃになったりするやつか」

「そうです。【祝福】は比較的発現しやすいシジルで、神官になるための条件にもなってるんですよ」

 えへん、と少し胸を張るフィオ。かわいい。


「つまり、超能力とか魔法みたいなもんか」

「ちょーのー……は分かりませんが、魔法とはまた別の力です。私ども神官は奇跡と言い表したりもします」

「なるほど」

「魔法は体系化されていて、学べばいろんなことができます。シジルはそれぞれの意味が体現する権能のみを振るえます」


 えーと……ゲーム的に言うとスキルみたいなもんか。


「発現しやすい、というと? 同じシジルを発現する人もいるように聞こえるな」

「その通りですぅ!」

 すごい勢いでフィオが頷く。

「シジルにはいろんな種類がありますが、見つかったものには聖印教団がすべて意味を見出して類型化し、図鑑に定期的にまとめているんです」

 ほうほう、ちょっと興味があるな。

 改めてフィオのシジルを観察してみる。

 金色で、十字型の星を三条の弧線が囲んでいる。それぞれの弧に沿うように意味ありげな文字列が並んでいたが、読めない。

「金色、星、弧線上の聖句。これら3つの特徴をもつシジルは【祝福】の意味を持つとされています。細かな特徴は人によって異なりますがね」

「同じ意味のシジルでも、使える権能も人によって少しずつ違ったり?」

「はいぃ。すごい人は、死んだ人も蘇らせることができると。私はその規模の者はムリですが……」


 死んだ人が蘇る、か。

「じゃあ……俺の蘇生能力もシジルによるものかもしれない、ってことか」

 フィオは頷いた。

「その可能性は十分にあります。私、あなたを見つけるほんの少し前に『印の柱』が降りてきたのを見ましたもの」

「シジルが宿った者は、みんなどこかにそんなアザ……えっと、特徴が出るのか?」

「はい。だから『聖印シジル』なんですね」

 もしかしたら服の内側にあるのかもしれない。そういえば、フィオの【祝福】を初めて見たとき、胸のあたりが掻き毟られたように疼いたっけ――。



「私、聖印教団に合流するために旅してるんです」

「ああ、神官って言ってたもんな」

「はいぃ。無事合流できたら、あなたのシジルについて調べることができるかもしれません。もしよかったら一緒に来ませんか?」

 そりゃ願ってもない申し出だ。

「もちろん。フィオがいいって言うならついていきたい」

 俺が快諾すると、彼女も満面の笑みを浮かべる。

 子供っぽくてかわいいな……。

「やったぁ! よろしくおねがいしますぅ! えーっと……」


 そこで話は振出しに戻った。俺の名前である。

「なにか、手掛かりのようなものはありませんか?」

「それが何もなくて……」

 一通りポケットや衣類を検めてみたが、名札らしいものはなにもなかった。

 ほかに調べていない持ち物といえば、この剣くらいか――、


「あっ!」

 剣の峰に何かが彫られている。アルファベット……のようで、微妙に形も文法も違う、見たことのない文字だ。当然読めない。

 しかし、フィオの聖印にあった文字に似ていなくもないような……。

「……あー、記憶のついでに文字も忘れたみたいだ」

 ちょっと冗談めかしてフィオに見せると、彼女も苦笑を浮かべながら受け取った。


「これは……意味のある単語ではありません、固有名詞ですね」

 ふむ、剣の銘ってとこだろうか。

 まさか持ち主の名前を書いたりはしないもんな。

「なんて発音するんだ?」


「”ルーゼ”、と」


 その時、俺は不思議な感覚を覚えた。

 まるで子供のころの親友のあだ名のような、なつかしさ? 寂しさ?

 どこか心が惹かれるような響きの、その言葉を気に入ったのは確かだ。


「じゃ、俺の名前はそれにしよう」

「え?」

「今日から俺の名前はルーゼだ、よろしくな」

「そ、そんなあっさり決めちゃっていいんですかぁ!?」


 戸惑っているようだったが、結局は俺の差し出した手を握り返してくれた。


「えっとぉ……よろしくお願いします。ルーゼさん」

「うん、よろしくな」



『フワァ……(あくび)。ねー、なにその紙』

『どっかのアホが落としてったメモー』

『こんなん読んでても仕方ないよっ。捨てちゃえー!』



聖印シジル』:アザとして浮き出る。発現者は奇跡スキルを使える。

『印の柱』:光を浴びるとシジルが発現したり記憶や人格を失ったりする。

『聖印教団』:神の言葉であるシジルを蒐集し、新発見のものを実験・検証してその意味を同定したり名付けたりする集団。公的には神・印の柱・シジルの三位一体を信仰対象とするが、実態は三つに分裂し、シジルを崇める者が多い。

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