おつかれさまのパン職人

黒いたち

おつかれさまのパン職人

 なにかを殴りたい気分だ。

 きれいに右ストレートを決めるのではなく、不格好ぶかっこうに両手でボカスカなぐりたい。


 残業おわりの午後九時二分。

 駅で事故が起こったらしく、電車はとても混んでいた。

 すしづめ状態でなんとか乗りこみ、手すりにつかまり息をはく。

 

 理不尽な上司、ずるい同僚、生意気な後輩。

 どこにでもある、たいしたことのない話。

 それがなぜか今日に限って、私の業務に集中した。

 きっとかれらは「責任感」を、最寄りの駅に落としたのだ。


 ガタン、と電車がゆれ、となりのサラリーマンがぶつかる。

 チッと舌打ちが聞こえて、私は反射的に謝った。





 

「なんで私が謝らんなんの!!」 


 ぺちん。

 怒りの方言をぶつけたパン生地は、気の抜ける音をたてた。


「資料がおそい! 人のせいにすんな! しゃべってねーではたらけ!!」


 ばちん、べちん、ぽちん。

 まとまらない生地は、台にひっついてぐちゃぐちゃになる。


「あはー? 私の心が可視化かしかしたかなぁ?」


 ゆびでかきあつめ、また台にたたきつける。

 パン生地はこねるもんじゃない。たたきつけるものだ。


「クソハゲ! チビデブ! ぶりっ子がぁ!!」


 たたきつける。たたきつける。たたきつける。

 そのうちにパン生地が憎らしくなり、うえからこぶしでなぐりつけた。


「――痛ったぁ」


 にぶい音とともに、骨まで衝撃がひびく。

 そりゃそうだわ。アラサー女の貧弱こぶしが、木のこね台に勝てるかよ。


 涙がこぼれる。痛いから。


 まとまらないぐちゃぐちゃの感情が、どんどん気持ちを暗くする。


「……なんで私が」


 誰かを悪者にしなくては収まらない。

 だから、押しつけやすい人間を生贄いけにえにえらぶ。

 悪くないのに謝った。屈服したのではない。大人の対応をしただけだ。なのに謝ったとたん、ほらおまえのせいだっただろと開き直るおまえたちは何だ。

 

「くっっそぉぉおお!!」


 野太く叫び、服のそでで目をこする。

 パン生地をあつめ、またこね台にたたきつける。


 私はあんな人間にはならない。私だけは私を潔白だと知っている。でも、このむなしさは何だ。戦えばよかったのか。あらがえばよかったのか。だれもが納得せざるをえない正論をお見舞いして、完膚なきまで全員をやりこめることができたなら――。


 ぐちゃぐちゃの感情のままでこねつづける。

 そして気づくと、パン生地はまとまって、表面がつやめいた。


「あ……」


 こね終わりの合図だ。

 おわった。

 おわったんだ。

 もうおわったじゃないか。


 しばらく私はしゃがんでいた。






 オーブンに天板を入れる。

 ちいさなパン生地が、みるみるふくれあがっていくのを見るのが好きだ。

 白かった表面が、どんどん色づいていくのが好きだ。

 イーストのにおいが、香ばしくなっていくのが好きだ。

 だから私は、庫内に魅入みいられる。


「3……2……1……」


 終了音。

 とびらをあける。

 ひっつかんで、焼きたてをかじる。

 

「熱っ!!」


 舌より指をヤケドする。

 おてだましながら皿にのせ、片手ずつ流水で冷やしながら、こりずにパンをほおばる。

 おいしい。

 死ぬほどおいしい。

 ぐちゃぐちゃな負な感情が、ぜんぶ死んでしまうほどに。

 

 あっというまに食べ終え、こんどはちゃんとミトンをはめて、オーブンから天板を取りだす。

 ヤケドしないように皿にのせ、きちんとテーブルに座って合掌する。


「いただきます」


 パリッとした外皮クラストに、ふわっふわの内相クラム。焼きたては、ふれるだけでへこむほどやわらかい。

 小麦の甘さがしっかりしていて、嚙むごとに香りが鼻にぬける。


 たいせつにひとつずつ食べていく。

 全神経を収集させ、焼きたてパンを味わう。

 どこから食べてもおいしいし、何口目でも変わらずおいしい。

 これつくったひと天才だわ。自分最高。はい拍手。


 自画自賛しながら笑う。

 あれだけ怒っていたことが、いまでは何だかおかしい。


 今夜の私はマイナスをプラスに変えることができた。

 それだけで満点だ。


 そうやって、自分を認めて生きていこう。

 ぐちゃぐちゃな生地が、おいしいパンになるように。

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おつかれさまのパン職人 黒いたち @kuro_itati

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