ハッケンくんのための777文字

羊蔵

ハッケンくんのための777文字


「ハッケンくんが脱走するんだ」

 長話の常連さんはどこの書店にもいる。

 津田さんもその一人だった。

 お仕事も定年を迎えて一日を持て余している様子である。

 しかし相談を受けたのは、その日が初めてだった。

 ぬいぐるみが夜ごと家を抜け出して困るという。

「ハッケンくん」というのは角川書店のマスコットキャラである。

 びっくりマークのついた黒い犬くんである。


「夜中に見ると飾ってあった本棚から消えている。朝には戻っているんだが、泥で汚れてたりするんだ」

 津田さんは、困り顔でそう訴えた。


 キャッチフレーズが『発見! 角川文庫』であるから、ハッケンくんが何かを発見しに外出してもおかしくはない。

 それがフィクションの世界でなら、だけれど。

 いってはなんだが、津田さんはご高齢である。かといって妄想扱いするのもいかがなものか。


「分かります」

 私の横で先輩が相づちをうつ。

「私も野良ぬいぐるみを見た事があります。深夜、綿も痩せ果てたネズミのぬいぐるみ達が、順番に下水へ飛びこむのです。下水管を遡ってトイレからご家庭に侵入、食べ物を荒らしたりするのです」

 茶化していると受け取られないか横で不安になったが、津田さんは身を乗り出して食いついてきた。

「そんな汚いことをするようになったら困るよ。ハッケンくんは孫から贈られたものなんだ」

「お任せ下さい」と先輩。

 先輩は文房具コーナーからオシャレな日記帳を持って戻ってきた。お値段高めのやつだ。

「さあ。津田さんがハッケンくんのために物語を書いてあげるのです。外より面白い発見があれば脱走は必要なくなるでしょう」

 先輩は津田さんに一日777文字以上という厳しいノルマを課した。


 それから脱走はなくなったようである。

 ハッケンくんの脱走は事実だったのか。

 それともやはり妄想で、執筆ノルマはその妄想を昇華させるためのものだったのだろうか?


 先輩は笑うばかりで答えてくれない。

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