マーチ

ムラサキハルカ

今川とマーチ

 俺のクラスには変わった女がいる。

 学校指定の紺のセーラー服に身を包んだ今川ほむらという名の少女の腕には、いつも実寸大の黒い猫のぬいぐるみが抱えられている。伸びるままに任せたといわんばかりの長い長い漆黒の髪はわずかにぎとついていて、定位置である窓際の一番後ろの席に差す日光によって、時折淡く光ったりもした。ある意味一番目立たない場所に陣取っているにもかかわらずそいつの存在感はなかなか無視しがたい。というよりも、ぬいぐるみとか明らかに校則的にアウトだしな。


「今川さん。何度も言ってると思いますが、せめて授業中はそのぬいぐるみをしまいなさい」

 今日も、数学の中年女教師が今川に注意をしている。しかしながら、当の今川は先生のありがたい言葉を聞いているのかいないのか無言のままだった。こうした態度は多くの教師をイラつかせ、時には力ずくで黒い猫のぬいぐるみを鞄にしまわせようとしたが、残念ながらいまだになしとげられていない。何人もの大人がこの、学業に不用なものをしまわせようとしていたが、その度に当の今川は体で覆い隠したり、小柄な体に似合わない筋力を駆使してぬいぐるみを守りきった。また、体育の時間なども今川は基本的に欠席しているため、黒い猫のぬいぐるみとの付かず離れずの生活は学校にいる間中、ずっと守られている。

 一クラスメートの俺としては今川に振り回される教師たちに同情する一方で、どうせとりあげられないのだから無視して授業を進めた方がいいのでは、という気持ちにもなっていた。なにせ、ぬいぐるみと少女自身の清潔感の無さに目を瞑れば、無害であるのだから。とはいえ、おおむね無害だから見逃せという意見が説得力に欠けるのは、理解している。ここら辺は隠すことでもないが、今川に対して、俺個人のあからさまな贔屓があった。なぜかと言われれば、


「学校辞めたい」

 昼休み。中庭に呼び出された俺は、ぐったりとした今川にそんなことを訴えられた。いつもと同じ台詞である。

「お前の気持ちはわかるが、高校くらいは出といた方がいいってウチの母さんも言ってただろう。将来の選択肢がどうとか」

 そして、俺の方も普段とほぼほぼ同じような言葉で応じる。今川を、俺の母さんはよく甘やかす一方、真剣に心配もしているため、アドバイスも比較的現実に沿っている。

 今川は、猫背のまま、ぬいぐるみの背中を優しげな手で撫でたあと、

「わかってるけど、いちいちマーチのことを注意されるのは鬱陶しいし」

 苦々しげな顔をして、マーチと呼んでいる黒い猫のぬいぐるみを強く抱きしめる。俺は、また始まったな、と溜め息を吐いた。

「先生の気持ちもわかってあげろよ。そもそも高校にぬいぐるみを持ちこむのは」

「わかってる。けど、この子を置いていくなんて無理」

 きっぱり言い切った今川は、パック牛乳をストロー越しに吸いあげた。

 本当に無理なんだろうか? 俺の中の理性は今川自身のわがままなのではないかという現実的な可能性を訴えるが、同時に女の言う通りなのだと察してもいるし実感してもいる。

「そっか、無理か」

「そう。無理」

 無表情で言い切った今川は、再び飲み物を吸いあげたあと黒い猫のぬいぐるみを差しだしてくる。

「撫でてほしいって」

 まるで、ぬいぐるみの声が聞こえているみたいな物言いを、少なくとも今川自身は信じているのだろう。

「わかった」

 ウエットティッシュで弁当で汚れた手を拭き、ハンカチで水気を取り直してから、ぬいぐるみの頭に手を描ける。表面の布は経年劣化により、多少なりともくたびれてはいたものの、いまだにほんの少しふわふわしていて、適度に気持ちがいい。

「のども、撫でてほしいって」

 頷き、撫でる箇所を変えてみる。こちらはより布自体の疲れを感じさせる保存状態だったが、こころなしかゴロゴロという音が聞こえてくる気がした。たぶん、気のせいだが。

「嬉しいってさ」

 教室でみせる無表情から一転。薄く、それでいて心から歓んでいそうな微笑みに、俺は幼なじみとしてほんの少しだけ安心する。少なくとも、こいつの感情は死んでいないのだと。


 昼に機嫌が良くなったらしい今川は、帰りのホームルームが終わってすぐ、一緒に帰ろうと誘ってきた。

 今日は放課後に仲の良い男子クラスメートたちと町を冷やかす予定がなんとなくできていたが、当の友人たちは、俺たちのことはいいからさ、とか言って生温かな目を向けてきたり、夫婦仲を邪魔なんてしないぜ、とかいういかにもわかってますみたいな表情を浮かべたり、絶交だかんな二度と帰ってくるな、などと苦々しげに告げるやつがいたりで、とにかく予定は秒速で解体されることとなった。

「空いてて良かったよ」

 そもそも空いてなかったんだけどな。満面の笑みを浮かべる幼なじみに心の中で突っこみつつも、あえて口に出すのも野暮な上にめんどくさいので、とっとと帰ろうと決める。この女が人の予定など気にしないのは、今に始まったことでもないのだから、気にするだけ無駄だった。


 帰り道。置き勉しているのもあり、筆記具くらいしかまともに入ってない肩掛け鞄をぷらぷらさせる今川の腕には、相も変わらずすっぽりと黒猫のぬいぐるみがおさまっている。特に話しかけてもこないが、最近はまっているらしいロックバンドの曲を口ずさんでいるあたり、いつになく楽しげだった。

 邪魔するのも悪いと思ってほんの少し距離をとりながら並んで歩く。その際、黒い猫のぬいぐるみことマーチと目が合う。本物の猫に似せて作られた眼は、たしかに俺を見ている気がした。

「早く家に帰りたいって」

 鼻歌をやめた今川の言葉を、一瞬後に、黒い猫のぬいぐるみの心の翻訳だと理解する。実際に言っているかどうかは、少女のみが知ることだろう。

「そうか」

「うんうん。やっぱ、家に帰らないとくつろげないしね」

 そう言って、ぬいぐるみの頭を優しく撫でる。いつものことながら、生き物に対して向けているみたいだ、と思う。いや、もしかしたら、本当に生き物に対してなのかもしれない、と俺も半ば感じている。なにせ、


が本当にいるかどうか、ね」

 帰ってからしばらくしたあと、ソファの上で猫のぬいぐるみを抱きごろごろする今川――の体でマーチとして振る舞う少女は、学校にいる時よりもきりっとした顔で、俺の問いかけに首を傾げた。

「今更、どっちでも良くないかそんなの」

「それはそうだけど……ちょっと気になってな」

 とはいえ、本音としてはたしかにどっちでも良かった。少なくとも、出会った頃から俺は今川とマーチのそれぞれを、別人として接してきていて、これからもたぶん変わらないだろうから。

「とりあえず前提の確認なんだが、おれがいるの、『いる』の定義はどういう感じを想定している」

「……一応は、今川が口にしていることが真実かどうかってところかな」

 かつて今川が交通事故にあった際、両親とともに命を落とした愛猫の魂がぬいぐるみに宿り、気が向いた時に元飼い主の少女の体を借りるかたちで表に出てくる――それが、今川とマーチが語ったことであり、俺が出会ってから今にいたるまで受けいれ過ごしている物語だった。

「おいおい、信じてやってないのかよ。ほむらが聞いたら泣くぜ。っていうか、今聞いてカンカンだ。『友だちに対して、なんでそんなに薄情になれるのさ』だって」

 今川の下の名を口にしながら、茶化すようにいうマーチ。設定に乗ろうと乗るまいと、今川の体であるのだから、俺の話が聞こえること自体は別段、おかしくはない。同時に演技している可能性を捨てられなかった。

「いや、俺からすると、お前と今川に会ってから今日にいたるまで、お前たちが今とあんま変わんなかったから、そういうものだと思って当たり前のように過ごしてきたけど、冷静になるとお前らってなにもかもおかしいなって」

「ひっで」

 思い切り顔を歪めて笑う。少なくとも今川が表に出てる時はここまであからさまに感情を露にしない。

「まず、発端のぬいぐるみに魂が宿るっていうこと自体が、現実離れしてるだろ」

「証拠は出せないしな。ただ、ぬいぐるみがほむらとおれの手から離れた時に起こることからすれば、この体とぬいぐるみの強いつながりは明らかだろう」

 たしかに。今川からぬいぐるみがある程度離れてしまうと、この少女の体は倒れて痙攣しだしてしまう。病院にいってみても原因はわからず、ただただそうなる、ということだけがわかっている。魂が宿っている云々の話には直通しないものの、たしかに今川と黒猫のぬいぐるみの間の強いつながりに関してはもはや疑いようがなかった。

「更に言えば、今川が全部わかってお前を演じている可能性も捨てきれないし」

「そこは証明不可能だな。おれはほむらと自分が別の存在であるというのを実感しているが、同じ体の住人じゃないお前には無理な話だし」

 一緒の家に住んでいるのに難儀な話だよな。マーチの口ぶりは若干茶化すようなものだったが、事故以後からこの家に預かられるかたちで過ごしている少女なりに、同じところに住んでいる俺に心の奥底が伝わらないことに関するもどかしさがあるように聞こえた。

「ただ、お前の知ってるほむらは、おれを演じられるほど器用な女だと思うか?」

「……思わない」

 少なくとも俺の知ってる今川は、演技ができるような器用さは一切持ち合わせていない。

「逆にマーチ。お前が今川を演じているんだったらどうだ?」

「おれだったらわざわざほむらのふりなんてしないっつうの。ぬいぐるみの問題さえなければ、一人でも充分満たされているし、第一」

 そこで言葉を止めて、俺の方を見つめる。

「友だちもお前がいるから、わざわざ増やす必要もないしな」

 意味深な笑みとともに、俺のことを高く買うような言葉に照れ臭さをおぼえる。

「てなわけで、おれがおれである証明は困難を極めるわけだ。形に残るような証拠なんてどこにもないしな」

 たしかにどこまでいっても、今川の心の中の話でしかない。俺が俺でしかない以上、他人の思っていることの深いところなんてわかりようもない。いや、浅いところですら、自分事でないからには証明しようがない。

 そこでマーチが背中を反らせながら欠伸をする。

「だから、おすすめは実際に目の前にあるものをそのまま受けいれることだな」

 右手を猫の手にして、顔をこするマーチ。その言は元々、考えていたこととも一致する。

「マーチはマーチで、今川は今川ってことをこれまで通り受けいれろってことだよな」

「ああ。それで何の問題もないだろ?」

 本当にそうだろうか、という疑問もなくはない。とはいえ、仮に今川とマーチの在り方がなんらかの精神病の類だったとしても、わざわざ人格の統一をはかるべきだみたいな気持ちはない。二人のどちらかが消えたいだとか一つになりたいと思っていたりするのであれば別だが、今のところそういう訴えは起こされていない。むしろ、二人とも今が続くのを臨んでいる節があった。

「ゆるゆるやろうぜ。難しいことなんて疲れるだけだし」

 マーチの訴えに頷き、ソファの空いているところに腰かける。

「なあ」

「なんだよ」

「ほむらが撫でてほしいってさ」

 寝転がったまま黒い猫のぬいぐるみを差しだしてくる。一応、二人の話を信じれば、マーチが表に出ている時、今川の魂はぬいぐるみの中にいるということらしい。俺は頷いて、頭を撫でる。

「気持ちいいって」

 慈しむようにそう口にするマーチの口ぶりに合わせて、俺も手を動かす。こころなしか、こちらを上目遣いで見上げるような黒い猫のぬいぐるみの表面は先程よりもほんの少し油っぽい気がした。


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