第六章:夢の中の水曜日


 今回も女神様に会うことはなく、夢の世界にそのまま入った。

 男子の生活、小学生の生活、わたしは今日で最後のそれらをできるだけ濃密に体験しようとする。

 でも、意識の一部は常に放課後に向かっていた。



 放課後、公園で美音さんに会った。

 こちらの世界にしかいない女の子。

 背はすらりと伸びているけれど、どこか幼くて愛らしい子。笑顔や仕草がいちいち可愛らしい子。思わず愛おしさを感じてしまう子。

 なのに今日、最後に会える機会なのに(それを知っているのはわたしの方だけなんだけど)、彼女は暗く打ちひしがれたような顔をしていた。


 最初、彼女は公園脇の歩道を通り過ぎようとしていた。昨日の宇賀神さんと同じように、家へ帰ろうとしていたのだろう。

「美音さん」

「あ……伊佐武くん……」

 呼び止めると、無視はしないで公園へ来てくれる。

 でも表情は憔悴しきっていて、とてもゲームを楽しむという雰囲気ではなかった。

「どうしたんですか?」

 訊いてはみたが、答えてはもらえない。

「……アフレコで何かありましたか?」

 そこまで言ってみると、やっとこちらを向いてくれた。

「昨日、家に帰ってから母さんに色々聞きました。美音さんが声優だってこともその時に知って。だから、そっちで何かあったのかなって」

「伊佐武くんはすごいね。大正解」

 わたしならではの事前情報があれこれあってのインチキに近くはあるけれど、今はまあ置いといて。

「新しいアニメで主演をすることになったんだけどね。今まで演じたことのない役で上手にできないんだ」

 昨日、伊藤さんと話していた時よりも、さらにつらそうな顔。

「今日は学校の創立記念日だから、朝から収録に参加させてもらったんだけど……全然駄目で」

 そんな顔をしないで、と思う。

「せっかくデビューできて、今まではうまくいっていたのに、わたしって本当はへたくそなのかなとか、向いてないのかなとか、色々考えちゃう」

 あなたに似合うのは笑顔なのに。

 この子が苦しんでいる顔を見たくない。

「だから、ごめんね。今日はちょっとボルモンするような気分じゃ――」

「ちょっと、話をさせてもらえませんか」

 わたしは後先考えずに口にしていた。

「ボク、声優オタクなところがあって。少しは役に立てるかもしれません」



 アニメは人気の漫画が原作で、その原作と美音さんが演じるキャラのミカについて、運良くわたしは知っていた。

 ミカは可愛さが前面に出た美少女キャラ。女性声優なら誰でも普通にこなせそうな役ではあるけれど。

「じゃあ、試しに演じてくれませんか」

 お願いして台詞を口にしてもらう。

 ――ああ。

 量産型の「可愛い女の子」。それなりに体裁は整っているが、駄目だ。これはわたしが音響監督でもリテイクを要求する。

 そうか。役柄は違っても、わたしがハヤト役で勘違いしていたことと同じだ。

「可愛いキャピキャピした声なんて、美音さんに求められていないんです」

「ひ、ひどくない? その言い方……」

「美音さんの特徴である落ち着いたトーンを保ちながら、すっとぼけたりおろおろしたり慌てふためいたり、つまりいつもの美音さんのようにすればいいんです!」

「わたしたち会ってまだ三日だよね?」


 苦労して、わたしは彼女を説得した。

「でもこの子って、もっと高いトーンの声が一番似合うと思うんだけど……」

「だから、それなら美音さんを選んだ意味がないんです。美音さんの声質を活かしつつ台詞が楽しく面白く聞こえるように演じるのがベストだと、スタッフは考えているんだと思うんです」


 どうにかこうにか、彼女を納得させた。

 わたしが演じられないのはもどかしかったけど、『伊佐美』の声だと美音さんの誤ったイメージに沿った演技が一番嵌まってしまうので、これは却ってよかったんだろう。

「それですよ、それ! 少しテンション低く、でも鋭く的確なツッコミを入れる。一見真面目なようでいて、けど内心では動揺しまくっているのがほんのり滲むように演じる。それならきっとオーケーが出ます!」

「そ、そうかな……?」

 不安は残りつつも、何かしら手応えも得られたような、そんな彼女の顔を見ていると……自分の演技が認められた時にも匹敵する満足感があった。

 この世界で学んだものを、少しは彼女に返せたような、そんな気がした。


「伊佐武くん、ありがとう」

 意外と長い時間、公園でやり取りをしてしまった。そろそろ互いに家に帰る時間だ。

 そしてこれが、別れの時間。わたしはこの世界にもう来ない。来られない。

 なのに、それを知らない彼女は言う。

「明日も、会えるかな?」

 わたしはイエスと答えてはいけない。気を持たせるようなことを言ってはいけない。できない約束をしてはいけない。

 でも、同時に思った。

 嘘も方便というじゃないか。意味もなく相手を拒むようなことをしてはいけない。かと言ってこんな入り組んだ信じられない状況をこの場でいちいち説明なんてできるわけもない。つまりここでノーと答えることはありえない。

 何よりわたしは……可能なことなら、明日も彼女に会いたいんだ。

 だから。

「はい!」

 言った、言ってしまった、その瞬間。

 世界は文字通り暗転した。



「やってしまったね」

 声がした。

「でも、これは恋じゃ――」

 あわてて否定しようとするも、相手は反論なんて許さない。

「君は、彼女にもう会えないことを知っていた。けれど会いたいと願った。相手に会いたいと言われて、会おうと言ってしまった。それはもう、どうしようもなく本気の恋心じゃないか」

 二日前の夢で聞いた声。女神様の声。

「何よりの証拠が、この世界に生じた変化なんだよ。本気の恋こそは、世界を動かす原動力。このかりそめの世界の中心にいた君によって恋心が吹き込まれたことで、世界は命を宿した」

 姿が現れる。あの時と同じように、美しく、けれど物理法則をところどころで無視した立ち姿。

「一人の女性の、子のない人生への後悔が、私の琴線に触れてこの世界を産み出した。その女性が子をなした場合の世界。それをもたらす分岐点にいた君こそが、この世界を一時的に動かすにはふさわしかったから、悩みの克服にもなるかなと思って招いたわけだけど……その恋心によって、かりそめの世界は独立し、自律的に動き出した」

 一人の女性、それはたぶん宇賀神さん。美音さんのお母さん。

 彼女は普通に生きていたら子を作らない。実際、現実にはそういう風に生きてきた。

 けれど自分に子がいたらと想像し、この世界が作られた。

 あの人がその選択をする理由としてありえたのが、わたしの母が『伊佐美』のいない悲しみに沈んだ出来事。

 そんな縁があったから、このかりそめの世界を動かすのは元々わたしがうってつけで、この前お参りしたことがきっかけで女神様とわたしのつながりが強くなって、わたしの悩みを解決する女神様の意図もあって、この世界が動き出して……でもこの三日目で止まるはずだったものが、わたしの心の影響を受けて止まらなくなった。

 ということなのかなと、わたしは理解した。

「それは、してはいけないことだったんですか?」

「それ自体は善でも悪でもないさ。ただ、君はこれからつらい思いをすることになる」

 わたしの問いに答えつつも、女神様は話すべきことを話し続ける。

「君には選択肢がいくつかある」

 指を一本立てた。

「まず一つ目は、この新たな世界で男子小学生の妙音伊佐武として生きていくこと。そうすれば君は、宇賀神美音との恋を成就させることができるかもしれない。ただしそれは、女性として、女性声優として、これから生きていく道を諦めることになる」

 それは、嫌だ。

 わたしは伊佐美だ。伊佐武じゃない。女であって、男じゃない。せっかく声優になったのに、小学生のしかも男子になって人生を巻き戻されるなんて嫌だ。たとえ美音さんと一緒にいられるとしても。

 二本目の指を立てる。

「二つ目は、元の世界に戻り、元通りに妙音伊佐美として生きていくこと。そうすれば君は、男子の気持ちを深く理解し恋心までその身に宿した女性声優として、これからもっともっと活躍できる。ただしもちろん、元の世界に存在しない宇賀神美音とは二度と逢えない。それだけでなく、君の恋心というエネルギーの供給を断たれることで、まだ命を吹き込まれたばかりのこの世界は死に至る」

「そんなの……」

 二つ目の選択肢は絶対にありえないということじゃないか。

 美音さんにただ逢えないだけなら、つらいけどまだ諦めもつくと思っていた。でも、この世界が死んでしまうということは、彼女も消えてしまうということだ。そんなの、認められるわけがない!

 だったら、しかたない。わたしが今いなくなったら彼女が消えるというのなら、わたしはこの世界で生きよう。男の子になっても構わない。

 けど、どうしても気になることはあった。

「わたしのいない元の世界で、わたしの存在はどうなるんですか?」

「消えることになるね。元の世界にかりそめのコピーは置けない。一つ目の選択をすれば、元の世界の妙音伊佐美はいなかったことになる」

 コピーだらけを置いていた世界に命が吹き込まれるのと、命ある世界に『わたし』のコピーを置くのでは話が違うということか。

「さあ、君は何を選ぶ?」

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