第五章:火曜日
一話の残る部分の収録は、一昨日までの停滞が信じられないほど順調に終わった。不充分だけどしかたないかとしていた部分の録り直しすらする余裕があった。
二話の台本と映像を受け取り、スタジオを後にした。
*
声優としての仕事は、一つの難所を越えてまたうまく回り出した手応えがある。
けれど、それとはあまり関係なさそうなことに、わたしは意識を向けざるを得なかった。
薊女学院の高等部一年に、宇賀神美音という子はいなかった。
今日、学校で改めて調べた。親しくしている一年生に訊ねたし、最後は先生にも確認したからまず間違いない。
現実世界に、どうやら彼女はいないようだった。
可能性としてはもちろん、別の高校に通っているだけで実在しているということも考えられるだろう。でも、女神様がこしらえたという「かりそめの世界」でそんなアレンジを加える必要があるとも思えない。
それが何を意味するかはわからない。
もう一つの手がかりを当たってみてから考えようと思った。
*
最寄り駅まで帰ってきたわたしは、家まで歩く。
神社の近くへ来たところで、待ち伏せするまでもなく、神社の境内へ向かおうとしている人を見かけた。
今朝の夢の中で、現実でもこれで三日連続、遭遇したのは――
「こんにちは。あの、宇賀神さんですよね?」
声を掛けてみると、驚いたような顔。母の娘であることを説明する。
夢の中で母は、『伊佐美』の流産をきっかけに「それまで以上に親しくなった」と言っていた。ならば、元からある程度は親しかったと考えられる。
「打ち上げの写真などで、宇賀神さんのお顔とお名前は母から伺ってました」
アニメは制作完了の際に打ち上げがある。制作会社の一員として、事務の宇賀神さんも参加していておかしくないはずだった。
幸い、疑いは持たれなかったようだ。
「ああ、妙音さんの……大きくなったのね。そう言えば声優になったんですって? おめでとう」
「ありがとうございます」
踏み込み過ぎかなと思ったけれど、訊かずにはいられない。
「一昨日と、昨日も、こちらにお出ででしたよね? ちょっと沈んだご様子だったので、声を掛けるのをためらってしまったんですけれど」
「若い子に気を遣わせちゃうなんて、駄目な大人だわ」
宇賀神さんは自嘲するように言うと、境内の中にあるベンチへ腰掛けた。促されてわたしも隣に座る。
「うちの夫婦は子がないの」
うすうす予想していたことだけど、ずばりと切り出されるとやはり衝撃を受ける。
あの子は、やっぱり現実には存在しない子なんだ。
「私も夫も、家族関係ではちょっと色々あってね。だから、結婚はするけど子は持たないようにしようと決めていて。つまり当初からの予定通りではあるんだけど、最近になってこれで良かったのかなって考えちゃうようになってきたんだ」
「は、はい……」
「そのうち、私は体調も崩しがちになってね」
夢で母から聞いた話と一致した。
「別に、何か神頼みしたいわけじゃないの。でも、カウンセリングとか受けてみても、聞く前から見当がついてたようなことしか言われないし」
ここの神社は神頼みが効くようだけど、そんなことをいきなり言い出してもわたしがおかしいとしか思われないだろう。
母だったら同年代でそれなりに親しい間柄として、適切な助言とか励ましとか、そこまでいかなくても親身な共感とかができるのかもしれない。
でも、わたしが何を言っても薄っぺらな言葉にしかならない。
せっかく話を聞いたのに何も言えずにいると、宇賀神さんは微笑んでくれた。
「優しい子ね。言葉を大切にしてる」
自分の不甲斐なさにいたたまれない思いがした。
*
夜、第二話の台本に目を通してみた。
今度のハヤトは、ゲストキャラである中学生のお姉さんにメロメロになる。中学生とは思えないくらいセクシーな女の子のようだ。
トシオがテレビの話をする時の姿が参考になりそう。あいつ、色っぽいアイドルとかの話をすると鼻の下が伸びてかなりすごいことになるし。
そんなことを考えながら読み進めていくと、意外な展開。そのお姉さんキャラが、敵の手にかかって魂を削り取られて喰われてしまう。
死にかけたその人をどうするのかと思っていると、ハヤトはわたしの思ってもいない行動に出た。
自分の魂を分割して、その人に分け与えたのだ。別に意識や記憶が分身状態になるわけではなく、エネルギーとしての自分の有り余る魂を輸血みたいに提供したという理屈らしい。
ヒーローってすごいなあ、かっこいいなあと思いながら読んでいく。自分がこの子をどれほどしっかり演じられるのか不安にもなるけど……それでも、この魅力を伝えられたら楽しいだろうなと思った。
仕事については爽快感や期待を覚えて、けれど夢に関しては微妙な不安を抱えて、わたしはベッドに入った。昨夜とは正反対だ。
あの夢の中の「かりそめの世界」が、誰のために何のために作られたかはおぼろげながらわかった気がする。でも、わたしはそこで何ができるんだろう。
それともわたしは、男子の感覚を学びさえすればそれでいいんだろうか。
気になることがあってもいつまでも起きてはいられない。いつのまにかわたしは眠っていた。
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