第四章:夢の中の火曜日

「伊佐武、起きなさい」

 今回の夢は、母に起こされて始まった。

 昨夜の夢の始まりに出会った、美しく不思議な雰囲気の女性は、もう出ないのだろうか。たぶんあの人がこの夢の世界を作った女神様みたいな存在だと考えられて、ならばもう少しあれこれ詳しく訊きたいのだけれど。

 例えば「本気の恋をしてはいけない」という言葉の意味とか。



 学校に行くと、トシオと駄弁る。

 ふと、女神様の言葉を思い出してしまった。本気の恋。

 ないない。トシオは親しい立場で接してみれば意外といい奴だとわかるけど、それにしたって幼すぎる。わたしは本当は高二女子なわけで、彼はせいぜいやんちゃな弟というところ。

「ぼーっとしてどうしたんだ? 伊佐武」

「いや、恋って何だろうってふと思って」

 深く考えずに言ってしまってから、悪手だと悟ったけど遅かった。

「何だおまえ、女子みたいなチャラチャラしたこと言ってんなよ」

 ああ、そうだよね。『伊佐武』の考え方がかなり取り込めるようになってきたからわたしにもわかる。

 思春期一歩手前の男子って、女子をことさらに遠ざける。いや、思春期になって大人になって、女性の体にはご執心になっても女性は相変わらず嫌い、という連中もたくさんいるようだけど。

「女子がどうしたって?」

 そこへ富樫さんが絡んできた。

「あ、えっと、俺、トイレ行ってくる!」

 さすがに気まずいのか開き直りもせず、そそくさと逃げてしまうトシオ。

「ほんと、男子ってしょうがない」

 同意しかない。

「その……ごめんな、色々と」

 現実で彼女に謝ったことを思い出し、むしろわたしがトシオの悪友として謝るべき相手は夢の中のこの子だろうと思い至った。

「妙音にいきなりまともになられても何かキモいんだけど」

「う……」

 女の子にキモい呼ばわりされるのって、こんなに心にダメージが来るんだ……。

「それで?」

「ん?」

 いきなりよくわからない質問をされてしまう。

「誰が好きなの?」

「そういうんじゃなくて、恋ってどんなものなのかなって」

「そういう抽象的なものが気になるだけなんて、お子様ね」

 小学生にお子様といわれると、高校生としてはカチンと来る。

「なら、委員長は誰が好きなんだよ」

「……別にいない。そんなことに夢中になるほどお子様じゃないし」

 お子様言いたいだけなんじゃないかと思ったけど、口にしたらそれこそ同レベルになりそうな気がしてわたしは黙るしかなかった。


 というか、わたしはこう見えても女子高生なんだ。小学生相手に恋なんて、まして本気で恋するなんて、まずないだろう。

 今はそれより、今日と明日しか味わえない男子の生活をできる限り体験しておかないと。



「行くぞ伊佐武!」

 二時間目と三時間目の間の休み時間は二十分ある。トシオに引きずられるように、わたしは校庭に出た。トシオはどこからかサッカーボールを取り出していて、わたしたち男子数人は闇雲にボールを蹴り出した。

 小学生の時間の使い方って、高校生の立場から見ると不思議だ。二十分しかないのに外に出て遊ぶなんて。まあ、女子や賢そうな男子は教室にいたから、六年にもなるとトシオとか伊佐武みたいなタイプ限定かもしれない。

 でも、後先考えない勢いで走り回っていると、なんだか楽しくなってきた。体をとにかく動かす。何も考えない。解放感。

 こんな気分になるのっていつ以来だろう。もしかすると幼稚園に通っていた頃?

「伊佐武、行ったぞ!」

「任せろ!」

 トシオが相手からクリアしたボールが、意外と速く、やや大きめにバウンドしてくる。いったん胸かお腹で受けて、そこからパスを出そうか。

 ……などと思っていたら、バウンドの軌道とその前に立った自分の位置を読み損ねていた。

 地面から跳ね上がったボールが、股間に当たる。

「?!?!?」

 生まれてこの方経験したことのない痛みが全身を突き抜けて、わたしは両手で股間を押さえるとその場にくずおれた。

 ――こんなに! こんなに痛いんだ!

 大きな男が襲い掛かろうとしたら小さな子に蹴られて悶絶するなんてシーンをアニメでたまに見て、大げさすぎじゃないのと思っていたけれど、全然オーバーじゃなかった。そこそこのスピードのサッカーボール程度でこんなに痛いんなら、必死で抵抗する相手の渾身の蹴りが直撃したら……。

「お、おい、大丈夫か伊佐武?」

 トシオたちが集まってくる。後から考えると、誰一人として茶化すことがないのは彼らの普段のノリを考えると不思議だったけど、全員が身に覚えのある痛みだったからかと気づいた。

 でもその瞬間はそこまで頭が回らない。

「とりあえず立て。それでジャンプするんだ」

 言われるままに動く。トシオに腰の辺りを叩かれる。何となく楽になったような。

 そりゃこれも男子でなければ味わえないけれど。こんな経験はしたくなかったよ……。



 幸い、その後は大きなアクシデントもなく、放課後になった。

 今日はトシオは水泳教室があるということで、他の遊び仲間にもそれぞれ用事があって、わたしは一人で下校して昨日の公園に着いた。


 ボルモンをしたりしながら少し時間を潰していると、昨日のあの女子高生が来た。

 昨日自分がいた辺りを、きょろきょろと探し物をしている。

 背が高くてスタイルも良くて、腰に近いくらいまでまっすぐ伸ばした黒髪はきれいで、立ち姿や歩く様子も決まっているのだけど……うろうろとさ迷い歩くその様とはやはりアンバランスで、第一印象とは大きくずれるものがあった。でもそれは悪いことではなくて、やっぱり可愛い。

「あの、もしかして、これ探してますか?」

 ランドセルからヘッドホンを取り出して、訊ねる。

「あっ! ありがとうございます!」

 ペコペコペコとすごい勢いで頭を下げる。礼儀正しい、腰が低い、どっちの言葉で表現すべきか判断に迷う。

「これ、すごく大切にしてるんです! 見つけてくれて本当に助かりました!」

 そのわりには扱いが雑な気がするけど……。

「お礼に何かできることありませんか? 何でもします!」

 この子、大丈夫なんだろうか。色々危なっかしくて不安になってくる。

「えっと、それじゃ、もうすぐボルモンの五つ星レイド始まりますから、一緒にやりませんか?」

 ジムでは時々、強化されたボルモンが出現するレイドというイベントが起きる。複数プレイヤーで挑める、というか、星が多いレイドになると複数プレイヤーで挑まなければ勝てない。

「は、はい!」


 レイドが終わる頃には、かなり打ち解けていて、向こうも小学生相手に敬語は使わなくなっていた。

 そして、遅ればせながら自己紹介。

「わたしは宇賀神美音。美音って呼んでくれればいいよ」

 宇賀神? 珍しい苗字だけど、不思議と聞き覚えがあるような気がした。どこで誰から聞いたんだっけ?

「ボクは伊佐武です」

 流れで、まあ苗字までは言わなくていいかなと思う。


 それからも少しボルモンで遊んだ。

 美音ちゃん――いや、何か落ち着かないな。『伊佐美』にとっては年下だけど『伊佐武』にとっては年上だし――美音さんは、話すほどに面白い子だとわかってくる。

「フレンドになったしボルモン交換しない? わたし、交換ってやったことないの」

「身近にフレンドいなかったんですか?」

「だってわたし、友達にはなぜか真面目でお堅いって思われてるみたいだから、ボルモンやってるって言い出せなくて……」

 たぶんばれてるんじゃないかな、と思いはしたけど口には出さないでおいた。

「あ! またレイド始まるよ! 今度はわたしもお役に立つからね!」

「ボルモンは相性があるんですから、今度はお気に入りメンバーで固めないでくださいね」


 そんな最中、彼女のスマホが鳴る。画面には通話相手が表示されているのか、確認した彼女の顔が強張った。

「はい」

 答える声も硬い。

「はい。明日は九時半からに変更ですね、わかりました」

 九時半の用事? 夜? と一瞬思ったが、薊女学院は明日が創立記念日だ。

「はい、昨日と今日は気分転換できたと思います。明日はちゃんとやれると思いますから……伊藤さん、ご迷惑かけますけどよろしくお願いいたします」

 伊藤さん? いや、伊藤さんなんてすごくたくさんいる。

 でも、彼女の会話はすごく既視感があった。それは、収録を延期して創立記念日にまわした場合にわたしが現実でしていたかもしれない会話すぎて。

 美音さんが通話を終えても、緊張感はまだその場に根強く残っていて、わたしはそれを無視してさっきまでのように話しかけることはできずにいた。


「あ、お母さん!」

 淀んだ空気は思わぬ方向から破られた。

 公園脇の歩道を通り過ぎようとしていた、エコバッグを大きく膨らませた女性。その顔には見覚えがある。夢で会うのは初めてだけど、現実では神社で見かけた人。

「あら美音、スーパーで安売りしてたアイスまとめ買いしちゃったからよかったら運ぶの手伝って」

 長い髪をうなじで束ねたその人は、美音さんに気づくと公園に入ってきた。

「なくしたヘッドホン、この子が見つけてくれていたの!」

「まあ。それはありがとうございます。美音、ちゃんとお礼した?」

 現実とは違って、ずいぶんほがらかな様子だ。

「もちろんしたってば! もう伊佐武くんとは友達になったんだよ!」

 わたしもあいさつすることにした。

「妙音伊佐武といいます」

 すると、美音さんのお母さんが驚きの表情となる。それだけでなく、美音さんも。

「妙音さんの息子さん? うわあ、大きくなったのね。ああもう、できればじっくりお話ししたかったんだけど……」

「いえ、アイスが溶けちゃったら大変ですから」

「ごめんなさいね、お母さんにもよろしくね」

「伊佐武くん、またね。お母さんにも色々ありがとうございますって伝えておいて!」

 言いながら、二人は帰っていく。けれどわたしは呆気に取られてしまっていた。

 なんで彼女たちは妙音という苗字を、母のことを知っているんだろう?



 家に帰ってから、公園での出来事を軽く話して話を訊くと、あっさり事情はわかった。

「ええと、どこから説明しようかな。まず……あんたにはお姉さんがいるはずだったんだけどね。予定日通りだったら、あんたの五歳上になっていたのかな。高校二年生」

 現実世界でも聞いたばかりの話を思い出す。

「お母さん、流産しちゃって」

 話の流れから想像はついていたけれど、『伊佐美』が亡くなっていたと聞くのはなかなか落ち着かない気持ちにさせられた。

「で、宇賀神さんはうちの制作会社で事務をしてるの。何年か前にちょっと病気になって、今はフルタイムでは働いてないから、今日も夕方には上がってたんじゃないかな」

 ああ、そこは現実も同じなのかもしれない。だからわたしは神社で連日あの人を見かけたんだろう。そして聞き覚えがあったのは、現実の方で母が話すのを聞いたことがあったのか。

「流産直後の頃、体調を崩してなかなかそれまでのように働けなくて、事務を担当していた宇賀神さんとはそれまで以上に親しくなったわけ。そしたら少しすると、今度は彼女が妊娠して出産して」

「うん」

 あんた妙に物分かりがいいわねと、少し怪訝そうな顔をされる。もう少しバカっぽく振る舞った方が良かったのかと焦るも、母は流して話してくれた。

「生まれなかったあの子の生まれ変わりみたいに感じちゃって、小さい頃は誕生日のたびにプレゼントとかもしてたのよね。あんたが生まれてからは、小中高の入学祝いくらいしかしてないけど」

「どんなプレゼントしたの?」

 母の話を聞いて、一つ思い当たることがあった。

「ヘッドホンとか、贈った? 美音さん、少し古い奴を大事そうにしてたからもしかしてって思って」

「ああ、中学入学の時にワイヤレスのを贈ったっけ。それはうれしいわねえ」

 そして、こちらが水を向けるまでもなく訊きたいことを話してくれた。

「小さい頃から歌や音楽が好きな子でね。まさか声優としてデビューするとは思わなかったけど」



 自室に戻ってから、「宇賀神美音」をスマホで検索してみた。

 最初にヒットしたのは事務所の紹介ページ。『伊佐美』が所属していた事務所でもあり、やっぱり夕方の電話の相手はマネージャーの伊藤さんだったようだ。

 代表作は、『伊佐美』の出演作とかなり重なっている。けれど演じた役はだいぶ違っていた。落ち着いた、あるいはクールな、美人と評したくなるような女子の役が多い。

 そしてデビューの経緯は、現実ではわたしが選ばれた去年春の新人発掘オーディション。『わたし』がそもそも生まれなかったこの夢の世界で『妙音伊佐美』の代わりに選ばれていたのは、あの子だった。

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