第三章:月曜日

「いいですね。オーケーです」

 ブースの向こうから、監督の満足げな声がした。

 昨日まであんなに苦しんでも認めてもらえなかった演技が、今日はあっさり認められた。

 理不尽とは思わない。自分でもわかるのだ。わたしはあの夢で成長できたと。


 今朝、ベッドの中で目を覚ましたわたしは、当然だけど『妙音伊佐美』だった。高校二年の女子であって、小学六年生の『妙音伊佐武』じゃない。

 でも、夢の中でわたしは、朝に目を覚ましてから夜になって眠るまで、間違いなく男の子だった。しかもこの夢は、起きて数秒で記憶から消えてしまうようなよくある夢と違い、生々しい手応えとともにわたしの心に焼きつけられた。

 単に朝から晩までの行動の数々だけでなく、小学生男子の思考パターンのようなものまで。


「ハヤトのいまいち視野の狭い感じ、よく出せてます」

「ありがとうございます!」

 夢の中での、トシオとの漫画の貸し借りとかから何となく掴んだものがある。

 男子って、すごく狭い範囲で仲間意識が強い。

 それはさすがに雑な捉え方かもしれないけど……少なくとも、明るく楽しく能天気に小学生をやっているような子は、半径二メートルの友達がすべてなのだ。先生も、女子のクラスメートも、家族すらも、その輪の外側になる。まったく気にならない・どうでもいい・知ったことじゃない、ということではないけれど、ちょっと気持ちを切り換えないとそこまで想像力が向かわない。

 監督はさらに付け加えてくれた。

「委員長とのやり取り、いい味が出ると思いますよ」

 アニメで委員長を演じるのはキャリア十年の有名な方だ。別録りとは言え、そんな先輩との掛け合いがよくなりそうと言ってもらえるとうれしくてたまらない。

 夢の中での委員長――富樫さんとの会話も活かせているのかも。


「上出来よ」

 小休止のためブースから出たわたしを、マネージャーの伊藤さんも笑顔で迎えてくれた。

「たまたま、じゃなさそうね」

「はい」

 確認するような質問に、確信で答える。

「じゃあ今日はここまで」

「え?」

「監督たちとも話し合って決めたことだから。この調子を維持できるのなら、いったん休んで今夜はよく寝ておきなさい。ここ最近ろくに眠れてなかったでしょ?」

「は、はい」

 収録に苦戦して、不眠気味だったのは事実。昨夜は不思議とすんなり眠れてあの夢を見たわけだけど。



 スタジオを出て、帰宅する。放課後からの収録だけど順調だったから、今日は陽が沈む前に最寄り駅に着いた。

 家の近くまで来たところで、ランドセルを背負った小学生たちとすれ違う。学校帰りにしては少し遅いけど、塾からの帰りだろうか。

 と、その中の一人の女子が目に留まった。

 ――富樫さん?

 あの子、現実に存在しているの? 夢の中だけの存在じゃなくて?

「あ、あの、富樫さん」

「え?」

 思わず呼び止めてしまったけれど、相手は怪訝な顔。そりゃそうだ。今のわたしはクラスメートの男子じゃなくて女子高生なんだから。

 夢の中では同じくらいの身長だった富樫さんが今はわたしを見上げている。言い合った時よりもさらに幼く見える相手に、申し訳なさをつい感じた。

「ご、ごめんなさい」

「はあ?」

 怪訝さがさらに強まっていく。当然の反応ですね、本当にごめんなさい。

 落ち着けわたし。一応は期待の新人声優なんだ。これくらいはアドリブと演技力で切り抜けないと。

「その、わたしの知り合いに悪ガキがいて、その子があなたのクラスにいるの。ええと、トシオって名前なんだけど」

 そう言うと、富樫さんは顔をしかめながらも「ああ」と納得したように肯いた。

 とっさに名前を出したけど、トシオも実在してるんだな。

「何かと迷惑かけちゃってるでしょ? わたしからも謝りたいなと思って」

 だからってどうしてこちらの顔も名前も知ってるんだと思われたらやばいと考えつつも、トシオを共通の敵に仕立てることで仲間意識を持ってもらえるよう目論む。トシオ、ごめん。

「いえ、男子ってしょうがないですよね」

 狙い通り、どことなく共感めいたものをもたらすことができた。富樫さんはちょっと背伸びしてるみたいな澄まし顔でわたしに応じる。

「ごめんなさい、それだけだったの。それじゃあがんばってね」

「は、はい」

 戸惑い顔の富樫さんを残してすたすたと歩き出す。ごまかしきれたかな。もし再会したら気をつけないといけないかも。


 ――でも、

 速足で歩きながら、考える。

 ――それなら、やっぱりあの子も現実にいるんだな。

 笑顔が可愛いあの女の子。薊女学院の高等部一年生。かなり背が高い。名前は「美音」。たぶん読みは「みおん」。

 今日の昼間は学校で暇さえあればあの子の姿を探していた。けれど見つけることはできなかった。

 まあ、学年が違えば行動範囲はかなり違う。今日はたまたま休みだったのかもしれない。


 少しすると、昨日お参りした神社の前に出た。

 そう言えば、夢の中のあのきれいな女の人は、わたしが神社にお参りしたことがきっかけで、わたしと縁がつながった……みたいなことを言っていたっけ。かりそめの世界にわたしの魂をはめ込むとか何とか。

 どういう意味なのかはよくわからない。今度会ったら訊きたいと思う。

 この夢で本気の恋をしてはいけない、という言葉の意味も。

 そんなあれこれを考えていると、前から女性が歩いてきた。

 ――あ。

 昨日も見かけた、母と同年代くらいの女の人だ。今日も長い髪をうなじで束ねている。服装は、昨日もそうだったけどスーツ。足取りはきびきびしていて、いかにも仕事ができそうな人に見える。

 その人はわたしとすれ違うと、神社の境内へ入っていった。

 あんな人が、二日連続で神社へお参りするというのが何か意外に思えた。



 わたしの両親は、どちらもアニメ関連の仕事をしている。父はアニメ雑誌の編集長で、母はアニメ制作会社の色彩設計。

 仕事から早く帰って来られたのは母だけで、わたしが作っておいた夕食は二人で食べた。父の分は取り分けてラップしておく。

「今日の収録はどうだったの?」

 母がごく自然な調子で訊いてきた。わたしに変なプレッシャーはかけてこない、さりげない口調。

「うまくできたと思う。無理して今日終わらせるよりはってことで、明日も収録で……」

 母はわたしにいつも優しい。これまでは当たり前のことだったけど、あの夢を経験すると、これは特別なことのようにも思えてくる。

 どう訊いてみればいいんだろうと悩みつつ、口を開いた。

「お母さん、わたしの弟や妹は欲しくなかったの?」

 母は固まったようになってしまった。話題が強引過ぎただろうか。

「言いたくないなら別に――」

「あなたを妊娠してた時、ちょっと難しい局面があってね」

 止めようとしたわたしの言葉を遮って、母は話し始めた。

「運よく、あなたは無事に生まれてくれたけど。またああいう気分を味わうのはちょっとしんどいなって思って、二人目はやめることにしたの。こどもは欲しかったけど、一人でいいやって」

「そうなんだ……」

 わたし、けっこう危なっかしい形で生まれてきたのかな。

「でもどうしてそんなこと?」

 疑問だよね。わたしもあの夢がなかったらこんなこと訊かなかったと思う。

「……男の子の役を演じてみて、弟とかがいたらどんな感じだったのかなって想像して」

「なるほどね」

 母は、腕組みして考え込む。

「息子がいたら、わりとビシバシやったかもしれないわね。もちろん殴ったりはしないけど」

「え、意外……」

「伊佐美の場合は、生まれた時の状況が状況だったしね。大切に育てて、本人も気立てのいい子に成長したんだから、そりゃビシバシ行く理由もないでしょ」

 説明を聞くと、夢の世界での伊佐武への母の態度もわかるような気がした。

 母のこと、わたし自身のこと、わたしは意外と知らずにいたんだな。


 ついでにと、もう一つ訊いてみた。

「お母さんくらいの世代って、神社に行こうとか考えるの?」

「どういうこと?」

 昨日と今日見かけた光景について話す。

「まあ、一般に年取ってるほどそういうところへ行くようになるよね。伊佐美が気になったのは、その人が神頼みなんて無縁そうな人だったから、というところ?」

「うん」

「この年になるとね、色々あるよ。四十代になって厄年なんて言われるのも、昔から経験として、この年代は生活でも肉体でもガタが来やすいから気をつけろって意味だったんじゃないかな」

 わたしにとっては二十五年くらい先のことだ。よくわからない。

 母は、独り言のように続けた。

「精神的にもね。後悔とか、そこまではっきりしなくても、自分の進んできた道はこれで本当に正しかったのかとか、そういうことを考え出す時期」

 と、母はいきなりわたしを強く抱きしめる。

「もちろん、伊佐美に関しては私も父さんも何一つ後悔も迷いもしてないからね!」

 痛いくらい力が込められていて、さっき聞いた話もあって、母の言葉をわたしは素直に信じた。

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