第二章:夢の中の月曜日
「こんにちは、いや、こんばんはだね」
目の前に、美しい女の人がいた。二十代? でも表情に落ち着きがあって、もっと年上と言われても不思議ではない気がした。
着物をふわりと着こなしている。というか、着物のあちこちは重力に逆らって浮いているような……? 手には琵琶を持っていた。
周囲の光景は、夕方訪れた神社に似ていた。
「君が神社に来てくれたおかげで、縁が再び強まった。おかげで私から関わることもできるようになった」
「あ、あの……何の話ですか?」
「ちょうどたわむれ半分に、かりそめの世界を作ってみたところだった。その中心に君の魂をはめ込むことで、この世界にはしばし命が吹き込まれて動き出す」
わたしの質問には答えず、彼女は話していく。
「期間としては、今夜を含めて三夜。君の夢の中でのみ、この世界は稼働する。それが終わればすべては元通り。夢の記憶を経験として、君には芝居をがんばって欲しい」
繰り返し同じことを話されているわけでもないのに、それらの言葉はわたしの記憶にしっかりと染み入っていく。忘れてはならないことであるかのように。
でも、忘れることはないけれど、何を言っているのかはまだよくわからなかった。
「ただ、一つ忠告だ。この夢で本気の恋をしてはいけない」
その声を最後に、女の人の姿も神社の景色もかき消すようになくなって――
*
「イサム、いいかげん起きなさい!」
怒鳴るような声に目が覚めた。
目を開けると、母がわたしを見下ろしている。でも普段はあまり縁がない、きつめの表情。怒ってる? 苛立ってる? そこに呆れも加わっているような。
驚いてがばりと身を起こすと、母は意外そうに目を軽く見開いた。
「今朝は寝起きがいいみたいね。でもちんたらしてるとまた遅刻よ。早く支度しちゃいなさい」
つっけんどんに言うと、そそくさと部屋を去っていく。
「どうしちゃったんだろう、お母さん……」
ベッドから起き上がりながら、わたしは『いつものように』小学校の教科書とノートを黒いランドセルに詰めていく。
今日は月曜日だから……と時間割表を確認している最中、異常に気づいた。
わたし、高校二年生なのに。
どうして小学校へ行く準備をしているの?
それに、この黒くて傷だらけのランドセルがわたしのもの? 薊女学院の初等部時代、わたしはもっときれいで可愛いランドセルを使っていたのに。中に入れた教科書やノートもずいぶん汚い。
そして、それらを取り扱う手も、ずいぶん色黒になっていた。まるで毎日外で遊び回ってる……男子みたいに。
愛用のコンパクトを探すけど、机やランドセルの中に見当たらない。
部屋を見渡す。わたしの部屋ではあるけれど、置いてあるものはずいぶん違う。それでも長い姿見は変わらずあった。部屋の隅、全然使いはしないけれど一応ありますという置き方で。
そこへ駆け寄って、自分の姿を見る。
鏡に映っていたのは、どこからどう見ても男の子だった。
短い、それも女子のショートカットとは全然違う、まるで坊主頭みたいに短く刈り上げた髪の毛。本来の『わたし』は、背中近くまで髪を伸ばして一部を可愛く編み込んでいるのに。
全身が日に焼けている。日焼けを気にしてケアに気を遣っている『わたし』の肌とは全然違う。まだ小学生くらいだからか、にきびとかは一つもないけれど。
身長も低い。本来の『わたし』よりも十センチ以上低いだろうか。
「嘘……どうして……」
自分が自分でなくなったというショックは大きくて、わたしは悲鳴を上げそうになる。
でも、その寸前で思い出した。
目覚める前に会話をした女性。彼女の言っていた『夢』という言葉。
「夢、なの?」
夢というにはあまりに生々しいし、感覚もはっきりしているけれど、
わたしは、改めて鏡を見てみた。
わたしに弟がいたら、こんな風なのかもしれない。
顔立ちは悪くないし、身なりを整えてもう少し髪を伸ばせば、なかなかの美少年と言えるかもしれない。
おそるおそる、パジャマのズボンと下着を下ろしてみると、股間にちょこんと飛び出たものもあった。
「ほんとに男の子になってる……」
「イサム! ほんとに遅刻するからね!!」
一階からお母さんに怒鳴られ、反射的に恐怖に駆られたわたしは考えるのをやめた。再び『いつものように』支度を続け、着替えを済ませランドセルを背負い、ご飯を急いで食べるために階段を降りた。
*
本来のわたしの朝食とは全然違う、おにぎりだの何だのを口にひたすら詰め込むような朝食を『いつものように』済ませ、玄関を出て急ぎ足で進む。『いつものように』登校していると足は自然と通ったことのない小学校へ向かい、その道すがら、クラスメートと思しき男子たちに声を掛けられる。『いつものように』受け答えをする。学校に着いて教室へ入る。
そんなことを重ねていくうちに、わたしは今の立場や名前を少しずつ理解していった。身体が覚えている記憶が、少しずつ心にまで染み入っていく感じ。
家の近所にある公立の城南小学校に通う六年生の、妙音伊佐武。それが、この夢の中でのわたしの立場だった。
わたし、男の子になっちゃってるんだ。『伊佐美』じゃなくて『伊佐武』なんだ。
改めて思い、席に着いた自分の身体を見下ろしてみた。
胸にブラジャーをしていないなんて、いつ以来だろう。その一方で、股間にはいつもと明らかに違う異物の感触がある。
「ほら伊佐武、持ってきたぞ」
友達のトシオが席に近づいてきて、すっと紙袋に入れた漫画の単行本を差し出してきた。そそくさと受け取ってランドセルの中にしまう。
「サンキュ」
このやり取りは、全部『いつものように』。漫画の持ち込みはこの小学校では禁止されているけれど、伊佐武やトシオや他の男子は人目を盗んで貸し借りしているみたい。
伊佐美として小学生だった時、わたしはこんなことをしたことがなかった。薊女学院でも初等部の頃は、漫画を持ってくるなんてそもそもありえない話だった。
でも、中等部以降になると、みんな平然と貸し借りを始めるようになって、わたしも最初は呆気にとられつつ、次第にそういうものだと受け入れていった。
そんな経験をした高校二年のわたしにとって、漫画の貸し借りは少しドキドキするけど拒むようなものではない。
けれどそう考えない真面目な小学六年生もいるもので。
「妙音、鈴木、今何してたの」
厳しい声とともに、背の低い女の子がわたしたちの前に立った。可愛らしい顔立ちだけど、睨むようにわたしたちを見据え、腕組みして仁王立ちしてる。
「委員長には関係ないだろ」
トシオが唇を尖らせる。
そうだ、この女の子は学級委員の富樫さん。一学期から立候補して学級委員をやっている、お堅いけど一生懸命な子。そして、トシオや『伊佐武』とは犬猿の仲。
今も、わたしたちが持ってきてはいけない漫画を持ってきたのではと見当をつけて、注意しに来たのだろう。
その律義さは好感が持てる。小学生の時のわたしに似てる。
でも、ちょっと幼いなとも、今のわたしは思ってしまう。
「ルールを鵜呑みにしてればいいってもんでもないよな」
気づけばわたしは富樫さんに話しかけていた。
「漫画を学校に持ってくると学校で読んでしまう、学校で読んでしまうと授業を疎かにしてしまう、だから漫画の持ち込みは禁止されている。でも、学校で読まないなら持ってきても問題ないんじゃないか?」
思いもよらない意見を聞いたかのように富樫さんは口をポカンと開け、それから軽く首を振ると言い返してくる。
「ルール違反を正当化してるようなものじゃない!」
「まあ、その通りだけどさ。ルールは何のためにあるんだって話」
目の前の女の子を見ていると、融通が利かなさ過ぎるようで不安を覚えてしまったのだ。余計なおせっかいかもだけど。
「スマホだって、昔は学校に持ってくるな、小学生がそんなもの持つなって言われてた。でも公衆電話も少なくなってきたし、そんなこと言ってる小学校は減ってきてるだろ? うちみたいにオーケーにしてるところは珍しくない」
自分が中学に入った時のことを思い出す。漫画の貸し借りを目の当たりにして、おかしくない? と思って、でも空気が悪くなるかもと何も言わなくて、しばらく悶々としてようやく折り合いをつけた。
わたしは、あの時のまだ幼いわたしに向けて話しているのかもしれない。
「漫画読んでたら叱ってくれていいからさ、そうでないうちは見逃してくれないかな」
「うー……」
顔を赤くしている。もしかしたらやり過ぎたかも、泣かせてしまうかも、と不安になったけど、富樫さんは受け入れてくれた。
「そういう考え方もあるのね。勉強になった」
*
休み時間、トシオにトイレへ誘われた。女子だけでなく男子でもこういうことってあるんだ、なんて考えつつ、わたしも小をしたかったのでトシオについていく。
「伊佐武って意外と頭良かったんだな。委員長に言い返せるなんて思わなかった」
廊下を歩いているとトシオが言った。
「意外と、は余計だろ」
言い返しながら、男子トイレの前に立ったところで我に返る。
(わたし、男子トイレに入ろうとしてる?!)
いや、今のわたしは男子なんだからおかしくない。でも内面としては女子なわけで、自分がとんだ変態になったような気がしてしまう。
(い、いつものように、いつものように……)
ここでも『いつものように』を意識することで、動き自体はスムーズになる。けれども内心は動揺し続けていた。
(あっちの壁にずらっと並んでるのが小の便器なんだ……)
個室しかない女子用のトイレとはもちろん違う。小用の便器は五つほど並んでいて、女子のトイレが混むのに男子でそういう話を聞いたことがない理由がわかる気がした。
足は小の便器に向かう。トシオは早くも隣でズボンのファスナーを開けている。男子は人前でおしっこをするのに慣れているというのが新たなショックをもたらす。
そしてわたしも、今から人前でするんだ。
そこまで考えて、手がズボンのファスナーにかかったところで、今から自分が何をするかに気づいてしまった。開いたファスナーの中に指を突っ込んで、パンツの割れ目からアレを引っぱり出して……。
それは、耐えられない。
伊佐武がいつもしていることでも、わたしは今朝目覚めるまで十七年間女子だったわけで。こんなモノに触る心の準備はできてないよ!
わたしは自分の意志で動くことにした。ズボンとパンツをずり下ろすと、そのズボンの縁を使って、直に手で触りはせず、間接的にコントロールしながらおしっこをした。
男子として初めて経験する。立ったまましていることが不思議。
隣のトシオがちょっと怪訝そうに見ている。でも何も言ってはこなくて、ならばまあいいかと思った。
*
授業中に指された時、正解を答えると少し教室がどよめいた。それなりに優等生として過ごしてきたわたしにとってはこれも初めてのことで、『伊佐武』はそんなに勉強ができないのかと姉気分で思ったり、勉強ができない子は周囲からこんな風に扱われるのかと周りをそっと観察したりした。
それ以降は特に何も起きず、放課後を迎えた。
「おっ、ジム空いてるぞ!」
帰り道、スマホを弄っていたトシオが言った。
彼と『伊佐武』は、ボルモンを集めるアプリゲームをやっていた。そのゲームはわたしもやっていて、問題なく話についていける。
プレイヤーは赤青黄色の三陣営に分かれていて、あちこちにあるボルモンジムもそれぞれの陣営で奪い合っている。プレイヤーは集めたボルモンをジムに一人一体配備できて最大六体まで配備可能。近くの公園にあるジムは、『伊佐武』たちの赤陣営だけどまだ三体しか配備されていなかった。
「行くか」
ジムを十時間防衛するとゲーム内で使えるコインが100もらえる。コインは課金でも入手できて、わたしはたまにそうするけれど、小学生である『伊佐武』にとってはジム防衛の報酬がメインだろう。それはトシオも同じはず。
公園に入ったけれど、ジムに配備するにはまだ少し遠い。わたしとトシオは奥へ進んでいく。
「よし」
「があっ! ミスってドジョムズ選んじまった!」
普通にジム防衛に適したボルモンを配備したわたしと違い、トシオはかなり弱いボルモンを置いてしまっていた。悪ふざけ扱いされなければいいけれど。
そんな風に騒ぐのは楽しい。このゲーム、『伊佐美』としてのわたしは一人でプレイするのが基本で、たまに他の声優さんとボルモンを交換したりした程度だったけど、友達とこうやってしゃべり合いながら遊ぶとさらに楽しいんだなと改めて知った。
と、わたしたちに制服姿の女の子が近づいてきた。ずいぶん背が高いけど、あの制服はわたしが本来通っている薊女学院のものだ。高等部の三年生だろうか。
わたしたちが目的というわけではなさそうで、うつむいてスマホとにらめっこしながら歩いてくる。そしてわたしたちのかなり近くまで来ると、画面をタップした。
もしかして、と思いながらわたしは自分のスマホの画面内のジムを見ていると、六体目のボルモンがたった今配備された。
ジムに配備されたボルモンは、姿と共にプレーヤーの名前も表示される。「Mion」とあった。
女の子に視線を戻すと、ほっとしたような表情をして顔を上げていた。六体目を配備するのが間に合うかどうか不安だったのだろうか。
可愛いな、と思った。
同じ学校だけど、その顔には見覚えがない。身長やまっすぐ長く伸ばした髪のわりに顔立ちは少し幼いくらいで、笑顔もちょっとあどけなくて、アンバランスさに独特の魅力があった。
その子は、スクールバッグから何か取り出そうとごそごそしている。バッグを支えている左手はスマホも持ったままでどうも不安定に見える。
何か危なっかしいな、と思っていたら、バッグが引っくり返った。ペンケースだのノートだの教科書だの、中に入っていたものがあれこれ地面にぶちまけられた。
「大丈夫ですか?」
「ご、ごめんなさいごめんなさい! ありがとうございます!」
トシオと二人で拾い集めるのを手伝う。拾った教科書を見ると、一年生用のもので少し驚いた。
「ふ、二人ともありがとう! それじゃ!」
慌ただしく荷物を掻き集めてバッグにしまうと、彼女はそそくさと去っていった。そりゃ恥ずかしいよね。
わたしたちは、気を取り直してボルモンにしばし興じる。
「あれ? これ……」
ふと、少し先に転がっていたものに気がついた。
「あのお姉さんのものじゃね?」
トシオの言葉を聞きながら拾い上げる。
かなり使い古したワイヤレスヘッドホンだった。隅に「美音」と書かれたシールが貼ってある。
「でも、ゴミかもな」
トシオがそう言うのも理解できた。よく言えば使い込んだ、けど壊れていると言われても不思議のない、そんな品物。交番へ届けるのもためらわれる。
「じゃあ、オレが預かっとくよ。もしお姉さんにまた会えたら訊いてみる」
言って、わたしはそれをランドセルにしまう。
*
帰宅すると、母や父と過ごす。
宿題を早々に済ませていたら母に心底驚かれ、父はプロ野球の話題をやたら振ってくる。
これまで『伊佐美』として接してきたのとはずいぶん違う二人の姿が新鮮で、不審に思われないようにあれこれ注意しつつも楽しい時間になった。
深く考えないようにしてお風呂を済ませ、眠りに就いた。
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