この夢で本気の恋をしてはいけない

入河梨茶

第一章:日曜日

ハヤト「ケンイチ、行こうぜ。委員長に見つからないようにこっそりな」

 自習中の教室。七月で、前後の引き戸は開け放たれている。

 廊下側後方の席にいるハヤトは後ろの席の悪友ケンイチに小声で告げると、屈んで席を離れ、教室から抜け出そうとする。

 窓側前方の席の委員長、目敏く彼らの動きに気づく。

委員長「こらっ、ハヤト!」

ハヤト「いけねっ!」

 ハヤト、立ち上がると全速力で駆け出して教室から脱出。



「いけねっ!」

「うーん、休憩しようか」

 音響監督の一声で、収録ブースの外の空気は和らぐ。

 でもブースの中に一人でいたわたしだけは、緊張を解くことなどできずにいた。

 妙音(みょうおん)伊佐美。高校二年生。全国規模の声優発掘オーディションを勝ち抜いて去年デビューした声優。デビュー作のアニメで主演し、演じた美少女キャラクターはかなりの人気となり、演技や作品の評判も上々。その後もいくつかの作品にサブキャラやゲストキャラで出演することができ、この春には新人賞も受賞した。得意とするのは可愛い女子キャラ。

 ……そんなわたしが、この新作の収録では大苦戦している。

 デビュー作に次いでの主演アニメ。ただし演じる役柄は、小学生の男の子ハヤト。


「伊佐美ちゃん、ずっと薊(あざみ)女学院だったんだっけ」

 ブースをひとまず出てベンチに腰を下ろしたわたしへと、マネージャーの伊藤さんが訊いてくる。

「は、はい」

「あそこって、初等部からの一貫校だったかな。男子とはまあ接点ないよね」

 伊藤さんもすでに知っているはずのこと。口調は軽く、わたしのプレッシャーを減らそうとしているのだろうと思う。

 でも、言葉の裏にあるかもしれないものを、わたしは被害妄想気味に受け取ってしまう。

 ――男子に興味も関心もないのか。なくてもいいけど観察くらいはしてこなかったのか。あなたは声優になろうとして、実際になったのに。

 こんな言われてもいない言葉が聞こえてくるのは、わたし自身が内心でその通りだと認めているからかもしれなかった。

 幼稚園の頃、乱暴なことを言ったりしたりしてくる男子が苦手だった。男子がいない学校に行けるならとお受験はがんばった。

 小さいうちは好きなアニメも男子がろくに出ないようなものばかりだった。それでも、アニメや絵本や漫画や小説など、次第に男性が登場する作品にも接するようになっていったけど……同年代やそれ以下の男子にだけは苦手意識が染みついたままになっていた。赤ちゃんは可愛いけど、小学生から高校生はきつい。

 ただ、朗読の仕事で少年が主人公の文学作品にもチャレンジして、それなりに手応えもあったので今回もいけるかと思っていたんだけれど……。


 休憩終了後も、わたしは何度もリテイクを重ねた。

 やり直すたびに、自分の演技に自信がなくなっていく。スタッフの皆さんに迷惑をかけていることにいたたまれなくなる。自分が声優としてこの場に立っていることが何かの間違いなんじゃないかと思えてくる。完全な負のスパイラル。自覚しても抜け出せない。

 ついに、押さえていたスタジオの時間がもうすぐ切れるところまで達した。

「明日、改めて録音します」

 じっとわたしと音響監督のやり取りを見守っていた監督が宣言した。低いクオリティで諦めることにならなくてよかったという気持ちと、明日もこの拷問のような時間が続くのかという拒絶感、二つの思いが心の中で拮抗している。

「ちょっと待ってください」

 伊藤さんが手を挙げる。

「伊佐美ちゃん、たしか今度の水曜が創立記念日だったよね? 明日明後日は気分転換して、水曜日に全力投球するって手もあるよ」

「……いえ、明日、終わらせるつもりでやります」

 気分転換なんてできそうにない。二日間を焦りと悩みと苦しみの中でじりじり悶えながら過ごすよりは、明日済ませてしまいたい。

 監督は、わたしに微笑みながら言った。

「アクションシーンとかでのかっこよさは、よく出せています。そこはオーディションの時の演技からこちらが期待していた通り」

 嘘ではないのだろう。実際、それらのシーンは早い段階で録り終わっていた。

「ただ、決め台詞だけ言ってればいいキャラじゃない。ハヤトは普段は普通の小学生として、明るく楽しく日常生活を送っているんです。そこも大切にして欲しい」

「はい……」

 収録中も何度となく指摘された内容。それを実現できない自分の不甲斐なさがひたすらつらい。

「まだ、『ハヤト』を演じているというよりは、『他の声優さんが演じている少年キャラ』を真似ているように聞こえてしまう。妙音さんならではの演技を聞かせてくれるのを、楽しみにしています」

「は、はい」

「掛け合いシーンもいくつかあるのに分散収録なのは申し訳ないね。先輩たちが一人でもいれば、また違った形になっただろうに」

 音響監督がそう言うように、感染症の陽性反応が立て続けに出てスケジュールが狂い、今日はわたし一人で収録していた。

 でも、先輩方にこんな姿を見せずに済んでよかったとも思ってしまう。音響監督の言うように、掛け合いの中でいい部分を引き出せてもらったり、アドバイスをもらったりもできるかもしれないけれど……今はそんなイメージが湧かなかった。

「こちらこそすみません。五日後にはうちの事務所の連中は復帰できるはずです」

 伊藤さんが頭を下げた。

「そこまで伸びるとPV第一弾との兼ね合いもあるからちょっときついけど……普段は絵の方が完成遅くて迷惑をかけてるしね。たまには逆もありかな」

 作画監督としても実績のある監督が笑った。



 帰り道は気が重かった。

 こんなことなら男子を避けるんじゃなかったと思った。いや、現実では避けても、せめて物語の中では慣れ親しんでおくべきだった。第一線で活躍する人たちの少年キャラを猿真似して、これでいけるなんて甘く見るべきではなかった。

 猶予は与えられたけどたった一日。それで何を変えられるだろう。


 悩みながらも、家の最寄り駅まで到着する。電車を降りて、夕焼けの光が沈みつつある中、家路をたどった。九月も下旬だけど、まだ夏と言いたい暑さ。

 日曜日を朝から犠牲にして、何も得られなかった。この仕事は平日とか土日とかあまり関係ないけれど、それでもスタッフの皆さんの日曜日を無駄にしてしまった。そんな風に考えるとますます足取りが重くなる。

 歩くうち、家の近所の神社が見えた。

 不意に、声優発掘オーディションを受ける時にお参りしたことを思い出す。芸能の神様が祀られていると母に聞いたのだ。

 あれからずっと無視していたのに今さらまた神頼みなんて、と思いはしたが、わたしの足は神社の境内に踏み入っていた。

 その時、境内から出てくる女性とすれ違った。わたしの母と同じくらいの年代だろうか。その年代の人には少し珍しく、背中まで届きそうなほど長い髪をうなじの辺りで束ねているのが印象的だった。

 わたしは賽銭箱にお金を入れ、手を合わせた。それでも、新たな頼みごとをするのはやはりためらわれて、オーディションのお礼だけをした。


 家に着くと、事前に送られていたアニメの映像を何度も再確認した。

 求められているシーンはハヤトの日常風景。朝は先生の目を盗んで友達と駄弁り、宿題をやっていないことに焦り、騒いで優等生の女子に睨まれると反発し、きれいな女の人にはスケベな反応をして、家に帰ればおやつを漁る。

 ……考えれば考えるほど、自分との違いばかりを意識してしまう。わたしはけっこう真面目なタイプの小学生生活を送っていたので、先生の話はよく聞いたし、宿題を忘れたことはないし、委員長として騒ぐ子を注意したこともあるし、テレビなんかで見る男性の何かいやらしい目線には反感しか覚えなかったし、太るのを警戒しておやつをむさぼったりはしなかった。

 でも、デビュー作で演じた女の子にしたって、魔法少女に変身する前の日常シーンは、別にわたしと似ていたわけじゃない。短気で口が悪くて向こう見ずで喧嘩っ早い。けど、まっすぐで優しい子でもあって、わたしは彼女のそんなところを好きになって、彼女の魅力を伝えられるようがんばったんだと思う。

 ハヤトのことも、嫌いなわけじゃない。戦闘シーンのシリアスなかっこよさは好きだ。ただ彼の日常は、わたしにとってはどうにも遠すぎて、うまく自分を重ねられない。


 結局悩みは解消しないまま、わたしは寝床に入る。

 そして、夢を見た。

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