ゆるやかな崩壊
気が付くと、私は学校の教室にいました。
……少年が学校に通うのは、当然のことです。
私は、真ん中より、少し後ろの席でした。
居眠りでもしていたんでしょうか。それともたった今、登校してきたばかりなのでしょうか。
……………………それにしても、困ったことがあります。
周りの友達の顔が、みんな虫なのです。
カブトやクワガタなんかはいいのですが、スズメハチやカミキリムシ、クモなんかもいます——ぞっとしてしまい、目を合わせられません。
ちらっと見たところ、私の真後ろの人はマルハナバチでした——刺されないかどうか心配ですが、まだかわいい方です。良かった。
あ、あの長い触覚はもしかしてゴキブリでしょうか。目がどこにあるかわかりません。できるだけ、あっちは見ないようにしましょう。
それにしても、結局視界に何かしらの触覚や角を移さない訳にはいきませんでした。
みんながやがやと騒いでいます。うるさすぎてもはや、何一つ聞き取れません。
あ、そうしている内に、教室に先生が入ってきました。先生はカマキリです。鋭い目つきで教室を見まわして、怒鳴ります。
「鮟吶l縲√け繧コ縺ゥ繧ゅ′!」
何を言っているのかさっぱりわかりません。
しかし、周りの友達はピタッと話すのをやめ、先生の声に耳を傾けます——どこに耳があるのかわかりませんが。
「莉頑律繧ゆソコ縺後♀蜑阪◆縺。繧呈ュ」縺励¥蟆弱>縺ヲ繧?k!」
カマキリ先生は甲高い声で叫びます。耳が痛い。
でもみんなは平然としています。
……もしかして、先生の言っていることがわからないのは、私だけなのでしょうか?
それにしてもさっきから、教室のあちらこちらから、異音が聞こえてきます。触角をこすり合わせる音や、喉を鳴らすような音です。こちらも耳障りでとても不愉快な音でした。
その後も先生の話は続きましたが、だんだんとそれらの異音は大きくなってきました。これでは、誰も聞き取れないのではないでしょうか。
しかし、先生は気に留めないようです。
「繧上°縺」縺溘°!?」
突然、先生がひときわ大きな声で叫びました。
「「「縺?●縺!!!」」」
みんなが一斉に、不揃いな鳴き声を出します。返事と言うことでしょうか。
慌てて私も、「はい」と返事を合わせました。
その時、先生が私の方をぎろっとにらんだ気がして、背筋が凍りました。
なんでしょう。なにがいけなかったのでしょうか。
私の返事はきちんとしてましたし、私より返事が遅れた人も、たくさんいたのに。
もしかして、日本語を使ったのが、いけなかったのでしょうか。そんなの、どうしようもありません。
「縺セ縺ゅ>縺?□繧阪≧。縺昴l縺ァ縺ッ、莉頑律縺ョ謗域・ュ繧貞ァ九a繧。」
先生が何か言って、教卓から何か取り出しました。教科書のようです。
みんなもごそごそと、自分の机を探り始めます。
慌てて私も、机の中を覗いてみます——そういえば、何を出せばいいのでしょうか。
周りの様子を見てみます。
あれは——お菓子の袋でしょうか。どうして学校にそんなものを。
あれは——蛇の抜け殻、でしょうか。ずいぶん大きくて長いです。
そしてあれは——なんてことでしょう!コバエがたくさん出てきました。こっちに飛んできます!
ハエたちはなぜか、一直線にわっと、私の顔めがけて襲ってきました。
私は思わず目を閉じます。
顔にたくさんの細かい羽根の動きを感じます。ぞっとしました。
「謨咏ァ第嶌荳牙香蜈ォ繝壹?繧ク繧帝幕縺!」
先生はそんなことはお構いなしに、また何か叫びました。
私は先生に助けを求めようと思い、恐る恐る目を開けます。
……あれ、ハエたちはどこに行ったのでしょう?
確かに、顔にぶつかる感触はあったのに。
自分の顔をなでてみましたが、きれいなものでした。
「繧医♀縺、縺昴l縺倥c縺ゅ◎縺薙?蟆?擂諤ァ縺ョ縺ェ縺輔◎縺?↑縺イ繧?m縺後j。縺薙%繧定ェュ繧!」
先生が何かを言うと、私の隣の席のカナブンが「ぎえっ」と言いながら立ち上がりました。教科書を朗読するようです。
ところで、私の教科書は?
見回してみると、なんと天井からぶら下がる蛍光灯に引っかかっています。
まさかとは思いましたが、私の名前が書いてあるので、間違いありませんでした。
先生は、気づいているのかいないのか、まったく気にしていないようです。
仕方なく私は、恐る恐る立ち上がります。……誰も、見咎めたりしませんでした。
私はホッとしましたが、どうも、手が届かないことに気づきます。
頑張って、できるだけ目立たないように手を伸ばし、なんどか試したあげく、ちょっとつま先立ちになってようやく届きました。
私はそそくさと座って、教科書を開いてみました——何が書いてあるのか、さっぱり読めませんでした。どのページも、意味のないぐちゃぐちゃな線がたくさん引いてあります。挿絵も、目玉や歯がたくさん並んでいる、不気味なものばかりです。見ていて、気分が悪くなります。
それにしても、隣の席の彼——彼、でいいのでしょうか——の声も、相変わらず耳障りでした。まるで電池が切れかかったおもちゃみたいです。ノイズが入っているようで、少し進んでは戻ってを繰り返すようなところもあり、しかも、今にも彼の頭が振動で爆発してしまいそうだ、とでも言いたげな危うい響きの音でした。
ようやく朗読も終わりました。……とても、疲れた。
彼が座ると、教室の中には静寂が訪れます。拍手も、先生の反応もありません。
おかしいな、と思って顔を上げると、先生と目が合いました。
……あ、もしかして、次は私の番だったのでしょうか。
私はあわてて教科書を手に取り、でも、読めないからなあ、と思い出しました。
どうしようか、と思った次の瞬間——私の左耳に、鈍い痛みが走ります。
一瞬、それが痛みであることすら気づけませんでした。
私の顎にかけて、生暖かい液体がこぼれ落ち、ポタリ、と、机の上に赤いしずくを落とします。
思わず耳を手で押さえ、何があったのかと振り返ると——後ろの黒板に、大きな草刈り鎌が突き刺さっていました。
よもや、と前に向き直ると、カマキリ先生の左手に、「もう一本」が握られていました。
……嘘でしょう?
教室中の虫たちの虚ろな視線が、私に向いてます。
「え、えっと」、と、私は何か言おうとしました。
しかし、先生は鎌をさっと供託に隠し、何もなかったかのように教科書を黙読し始めました。
「あ……。」
私はどうしようもなくて、椅子に座るしかありませんでした。
ずきずきと痛む耳の傷を抑えながら、何となく自分も教科書に目を通すふりをします。他に、どうしようもありません。
「鬩壹>縺!縺雁燕縺ッ遯√▲霎シ縺ソ蠕?■縺悟セ玲э縺?縺ェ縺!」
先生が何か叫んで、教卓をバンッ、とたたきました。
慌てて視線を前に戻します——やっぱり先生は、私に向かって怒ってたみたいです。
やっぱり、さっき立ち上がったのがよくなかったのでしょうか。
でも、どうやって謝ればいいのかも、わかりません。お願いだから、せめてもう、鎌は取り出さないでほしいです。
「縺医∴縺、霑比コ九b縺ェ縺励°!縺薙?縺ァ縺上?縺シ縺?a!縺雁燕縺ォ縺ッ逕溘″繧倶セ。蛟、縺ェ縺ゥ縺ェ縺!」
そう願うもむなしく、と言うか、私が余計な心配をしたからそうなってしまったのか、先生はまた鎌を取り出しました。
「縺?▽繧ゅ♀蜑阪i縺ッ縺昴≧縺!菫コ縺ョ險?縺?%縺ィ繧貞?縺冗炊隗」縺励※縺?↑縺……!繧ゅ≧謌第?縺ァ縺阪↑縺!縺医∴縺?、漉辟。荳!」
先生は目を真っ赤に血走らせて、腕を振り上げます。
私は観念して目をつぶりました。
……ぐしゃり、と嫌な音がしました。
見ると、教室の前の方に座っていたスズメバチの頭が、壁に磔にされていました。
どうやら、鎌を持つ手が滑ってしまったようです。
切り離された頭と胴体から、びしゃびしゃと赤い血があふれ出します。
わぁ、すごい。
スズメバチの頭はまだ生きているみたいに、あわあわと顎を開いたり閉じたりしています。
一方の胴体は、頭を失ったことなどまったく気にしていないようで、教科書をさかさまに持ちながら静止しています。
虫だから、あれくらい大丈夫なのでしょうか。
そして先生は、電池が切れたみたいにふっと動きを止めて、空中に視線を泳がせます。
そして、またしても何事もなかったかのように、授業に戻りました。
「繧ェ繝ウ繝サ繝上Φ繝峨?繝サ繝?繝ゥ繝サ繧「繝懊く繝」繝サ繧キ繝」繝?う繝サ繧ス繝ュ繧ス繝ュ繝サ繧ス繝ッ繧ォ。」
「「「繧ェ繝ウ繝サ繝上Φ繝峨?繝サ繝?繝ゥ繝サ繧「繝懊く繝」繝サ繧キ繝」繝?う繝サ繧ス繝ュ繧ス繝ュ繝サ繧ス繝ッ繧ォ!!!」」」
今度は、全体で復誦をするみたいです。
「繧ェ繝ウ繝サ繝上Φ繝峨?繝サ繝?繝ゥ繝サ繧「繝懊く繝」繝サ繧キ繝」繝?う繝サ繧ス繝ュ繧ス繝ュ繝サ繧ス繝ッ繧ォ。」
「「「繧ェ繝ウ繝サ繝上Φ繝峨?繝サ繝?繝ゥ繝サ繧「繝懊く繝」繝サ繧キ繝」繝?う繝サ繧ス繝ュ繧ス繝ュ繝サ繧ス繝ッ繧ォ!!!」」」
私は口だけ動かして読むふりをしますが、今度は目をつけられている様子もありません。
「繝ェ繝シ繝√う繝?ヱ繝?Γ繝ウ繧シ繝ウ繝√Φ繝?Δ繝、繧ッ繝上う繧ソ繝ウ繝、繧ェ繝斐Φ繝輔う繝シ繝壹?繧ウ繝シ」
「「「繝ェ繝シ繝√う繝?ヱ繝?Γ繝ウ繧シ繝ウ繝√Φ繝?Δ繝、繧ッ繝上う繧ソ繝ウ繝、繧ェ繝斐Φ繝輔う繝シ繝壹?繧ウ繝シ!!!」」」
……ああ、もう。こんなの、耐えられません。
気が付くと、目の前から教科書が無くなっていました。
その代わり、何やら机の上に泥が盛ってあります。……なんでしょうか、これは。
泥は机からはみ出して床にもこぼれています。
他の人の机も、みんな同じようになっています。
これは、なんでしょう。図工、でしょうか。それとも理科の観察?全く見当がつきません。
それに周りの人達も、何をしたいのかよくわかりません。
隣の席のカナブンは、泥に顔を突っ込んでいます。
カミキリムシに至っては、それをむしゃむしゃと食べていました。虫の習性と、関係のあることなのでしょうか。だとしたら、私には到底まねできません。
とりあえず、泥を手でこねてみました。手が汚れてしまいましたが、仕方ありません。
後で、手を洗いたい。
そういえば、耳の傷はすっかりふさがっていました。
でも少し、かゆい気がします。
その後も、なんだかよくわからないまま、泥をこね続けていました。
すると、泥の中から何か、白いものが見つかりました。
引っ張ってみると、大きめの紙切れでした。そこには何か、よくわからない数字がたくさん書いてありました。
そうこうしている内に、カマキリ先生がまた何か叫びます。相変わらず嫌な音です。
すると、天井からぽとぽとと、たくさんの小さな物が落ちてきました――何かの、幼虫のようでした。
今さら虫が怖いとは思いませんでしたが、私の頭のてっぺんに落ちてきたのには参りました。
机に落ちた幼虫たちは、泥の中に入っていきます。よく見ると、彼らの背中には何か、数字が書いてあります。
カマキリ先生がまた何か指示をします。
すると、前からすごい速さでプリントが回されてきました。空欄がたくさんあります。さっきから数字関係のものが続いているので、数学の問題かもしれません。
解こうとしたけれど、ペンを持った瞬間に、先生に怒鳴られました。
いつのまにか彼は、私の真隣の通路にいたのです。
「っ…………!」
私が何か言おうと思ったら、もうそのテストは無かったことになりました、
代わりに、また別のプリントが配られています。
ちょっと待ってください。今の、今のテストの成績は、どうなってしまったんでしょう?
「——デ、来月ノ、バンザイ式の蜃ヲ蛻?ッセ雎。縺ォ縺ェ繧倶ク芽。檎岼縺、スみヤかニ三塁打セヨ。」
先生が少し、私にもわかる言葉で言いました。やはり、成績に関わる何かでしょうか。
そもそも、テストと言うか、いったい何だったんでしょうか。
それもわかりませんでした。
私はとても不安になりました。
しかし、今はこっちのプリントを見なくては。
もっと、大変なことになる。
そこには、赤と黒のクレヨンで、薄気味悪い顔の絵が描いてありました。
しかも、泥と幼虫はどこかに消えてしまっていました。
と、思ったら、私の口の中に一匹残っていました。
私が口に指を突っ込んでえずいていると、大きなのこぎりも配られました。
切るものは、どこにあるんでしょうか。
先生がさっきの絵を黒板に貼って、何か言っています。
みんな、のこぎりは机の横の荷物掛けにひっかけました。……使わないの?
先生が教卓の上に黄色いような、茶色いようなぶよぶよしたものを取り出します。 そしてそれを、力いっぱい押しつぶしました。
「蜊?痩、貊玖ウ?、菴占ウ?」
するとそこから、紫色のくさいガスが出てきました。
教室中のみんながむせ返ります。
前の席の蛾がくしゃみをしたせいで、そこら中に鱗粉がふりまかれました。
鱗粉は私の顔にもくっつき、目がしょぼしょぼします。
くしゃみがうつった挙句、顔中がかゆくなってきました。
さっきの耳の傷跡が、ジンジンと腫れてきます。
それだけではなく、腫れて膨らんできたようです。
痒いです。痒い……痒い、カユイ、カユイ、カユイ、痛い、痛い痛いイタイ!
傷口から何か、大きな塊があふれ出してくるみたいです。
教室中が、これ以上ないくらい騒がしくなりました。
あらゆる高さの鳴き声がぶつかり合い、反響し、まさに阿鼻叫喚です。
痛い、かゆい、うるさい、臭い……気持ちが、悪い。
一瞬、私が目を閉じたのか、視界が暗転して、景色が急に入れ替わります。
天井の蛍光灯が見えます。
ゆらゆらと揺れていて、危なっかしく見えます。
私は、机を組んで作った台の上に、あおむけに寝かされているようでした。
みんなが、のこぎりを手にして私の周りに集まっていました。
私の股の下にはスズメバチの頭が転がしてあり、ちょうど目が合います。
そうか、私が切られるのか。なるほど。
そんなことを思っていると、右手にとつぜん激痛が走りました。
ああ、バッタが私の手首を切り落とそうとしているのです。
なぜでしょうか、私はその瞬間まで、きられてもいたくないはずだ、と言う無意識の前提を持っていたみたいです。
でも、違った。
「ああ、やめてください!」
私は叫びました。
体は動かせません。みんなが押さえつけています。
やけに虫らしくない人いきれが、私の顔や手足にかけられます。
痛いし、それに、手がなくなったら困ります。
バッタはお構いなしに、ぎこぎことのこぎりを上下させます。
痛い、と思った次の瞬間には、何も感じなくなっていて、そうかと思っていれば、また急に痛みが帰ってきて、それを何度か繰り返しました。
その間私はずっと、「やめてぇっ、やめて!やめてっ!」と叫び続けていました。
まさか言葉だけじゃなくて、この痛みも伝わっていないのでしょうか。
あまりのことに、私は意識が遠のきそうになります。
ああ、どうしましょう。
さっきのハエの群れや耳の傷は、すぐになかったことになりました。今度もそうなるかも、と期待をかけます。
ですが、とうとう私の手は切り落とされてしまいました。
ゴキブリが、チロチロと私の傷口を嘗め回します。
やめてください、冷たいしくすぐったい。
私は先のない自分の腕から目を逸らしました。
あれ、思っていたより、悲しくありませんね。
まあ、工作も、やってしまえばこんなものでしょうか。
それにしても、ああさっきからどうして、この奇妙な安らぎが続いているのでしょうか。こんな恐ろしい目に合っているのに、なぜかそれを、自分の外側から、どこか他人事のようにぼんやりと眺めている私がいるのです。
教壇の上では、先生がクワガタムシに対して、何かガミガミとしかりつけていました。
ああ、やはり彼にとってこの状況は、何の問題でもないようです。
だんだん気が遠くなってきました。失血死、でしょうか。
仕方ありません。
このまま私は、バラバラにされるのでしょう。
もう、観念しました。
ほら、バラバラにされてゆきます。
腕が、足が、足が、腕が、腕が、足が……
腕、足、腕、足、足、足、腕、腕と、足と、腕、腕、……
おや、これは違うな、と気づきました。
こんなにたくさんあるのは、虫の脚です。
そんなにたくさん脚を切っているのは——私、でしょうか。
……なんだってそんなことを?
いけません、また怒られてしまいます。
私はあわてて目を覚まします。
相変わらず、私は手術台の上——ああよかった、手足は元通り、五本、間違えた、三本です。
——そう思った時でした、
とつぜん終業のチャイムが鳴り、天井から蛍光灯が落ちてきたのです。
——そして、全てが真っ暗になってしまいました。
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