花粉症
真昼の電車内。満員には程遠いけれど、座れる席は全くなく、移動の自由もあまりない。
どこからどこに行くかもわからないような、全てが均質な顔のない人間どもの閉じ込められた鉄の箱。その内数十センチ平方を埋める肉の塊の一つである僕は、鼻を啜り上げたことで辛うじて、その景色の中で個性を得た。
この車内にいる人間のうち、どれくらいの割合の人間が花粉症でマスクをしているのだろうか。あるいはエチケットと言うかもはや社会の風俗の一貫としてだろうか。少なくともこの季節、僕みたいに顔全体の部位の区別がつかないようなかゆみに苦しめられている人間は少なくないはずだ。もはやかゆみかどうかすらもわからない。なんなら痛いくらいだ。擦って擦って、引き裂いてぐちゃぐちゃにしてしまいたくなる……そんなことしないけど。
学ランにマスクに至近距離での他人の吐く二酸化炭素。僕はそんな、この上なく息苦しい空間に慣れ親しんで、むしろ安らぎを覚えるようになっている。他人と物理的距離を縮めることは苦手だけれど、電車の中なら別だ。
それにマスクがむしろ、顔を隠すことで他人からの防壁になってくれている。僕にとってこれはもうファッションの一部として必需品になっていた。ファッションだけれどお洒落ではない。ただ、隠すのだ。こう言うのについては、コミュニケーションがどうだとか自意識がどうだとか騒がれているけれど、知ったことではない。誰だって隠したがるものなのだから。
僕は車両の前の方、扉の近くにポジショニングしていた。もちろんすぐに下りれるようにするため。ちょうど体の向き的に、号車内の後ろの方まで皆の頭越しに一望できる。僕は背が高い。顔はこんななのに、やたらと目立って困る。高身長でイケメンなどと言う都合の良いものは、そうしょっちゅうあるものではない。後者が無ければ前者はただの無用の長物である。色々な場所で不便だし。
それはともかく、その高身長のおかげもあって僕は、一番後ろの優先席の人達の様子も垣間見えていた。電車が揺れるので数秒おきに、ちょうど人の隙間から間の通路まですっきり見通せる。
そこに座っている人達のうち何人かはマスクを着けていなかった。別に必ずしも悪いとは言い切れないのだけれど、今時、しかもこの時期に珍しい。花粉症でもないし、感染症の心配もしていないのか。煩わしいことが無いというのはさぞかしいいだろう。
ところがどっこい、そのうち一人のおじいさんが突然、盛大にくしゃみをしたのだった。口を押えようともしていなかった。再び老人は遠慮なくくしゃみをした。わざわざ勢いをつけて、正面に自分の顔を突き出して。正面の人の顔に容赦なく椿が吹きかかる。周りの人たちも周りの人で、顔を逸らしたり表情を動かしたりすることもなく、ただそのまま下を向いている。あれではきっとおじいさんは、嫌がられていることに気づかないだろう。
おじいさんは口をもごもごさせて、悪びれもせずにまた床に視線を落とす。僕も見ていて不愉快になったが、遠い所にいるので文句を言う訳にはいかない。……いや、目の前にいてもどうせ何も言えないんだけど。
すると今度は、彼の反対側に座っていた可哀想な人が、同じように鼻をひくつかせ始めた。あの人の
――僕がそう考えてますます嫌な気持ちになったその時、異変は起きた。
その人の顔に突然ぼこぼこぼこっ、と――無数の赤い瘤が膨れ上がったのだ。
彼は苦しそうに胸を掻きむしり、もがきながら、瘤の隙間から圧迫されて潰れそうな眼を大きく見開いて呻く。
「あっ、あっ……あっあっあああぁぁあぁっ――――くしょんっ!」
彼のくしゃみと共に、彼の顔の瘤を食い破るようにして、色とりどりの花が咲き乱れた。
「…………え?」
何が起きたのかさっぱりわからなかった。いや、起きた事を理解するのは単純だった。彼の顔から花が咲いた。カーネーション、コスモス、スイートピー。色とりどりの花の群れが、口から鼻から眼球から……顔全体を埋め尽くしている。いや、どれだけ細かく描写で来たところで、まったく理解できない。
僕はその場に固まったまま、彼の顔から視線を離せずににいた。すると今度は彼の周りに座る老人たちが、同時多発的にくしゃみをした。そしてまた同じように、顔から七色が咲き乱れる。最初にマナー違反をしたジジイも仲良く仲間入りした。
――え?え…………はあ?
くしゃみは更に周りの人達へと、さながらあくびのように広がっていく。
「あ……痛い痛い痛いっ!へくしょんっ!」
「ぶえくしょんっ!」
「あ゛あぁぁっ!ぶしぇっ!」
「っしゅ!」
「ううぁあぶっ!」
「ぶあっゅぶあっしゅぶあぁっ!」
――え、『痛い』って?え、なんでそんな……嘘だろ、おい……!
次第にくしゃみの連鎖は車両の前の方に広がっていく――つまり、僕の方に迫ってくる。
――逃げないとまずい!
僕はそう直感して前に立つ人を押しのけ、前方の号車へと向かった。
扉を強引にスライドさせ、再び前に立つ人の肩を押してどかす。背が高くてよかったと思ったのはこれが初めてかも知れない……!いや、そんなことを言っている場合じゃない、命の危険が迫っているのだ。とにかく死に物狂いだった。
号車の一番前まで来てから振り返ると、ドアの向こうで咲き乱れる花畑が見えた。……みんな、力なく地面に倒れこんでいる。
なんとか助かった……そう思った時、一番後ろの席の人がくしゃみをした。
今度はただのくしゃみ――ぼこぼこぼこっ!ぶしゃあっ!
――嘘だろ!?ドア閉めたのに……!
僕は再びドアを開いて走り出す。今度は比較的空いている号車だったので、一気に加速する。
「ぶぇくし!」「くしょん!」「ふぁあ……!」
後ろの方から無数の音が追いかけてくる。僕はもう振り返ることなく走り続けた。
…………そして遂に、一番前の号車に着いた。もうとっくに音は聞こえなくなっていた。
でも、振り返ってドアの向こうを見通すと――確かに四号車くらい先から、花の浸食は近づいてきているのが見えた。
――まずい、このままだと詰む……!
『――つぎはぁ、やみえきぃ、やみえきぃ……。」
馴染みのある駅名がアナウンスされ、僕は縋りつくように窓の外を見た。駅のホームが近づいてきている。
――早く……。
「ぶえくしっ!」「へくしっ!」「ぶあぁくしょっ!」
――早く早く早く…………!」
「はっくしょん!」「ぶあくしょんっ!」「あばばばばばばばばっ!はっくしょぉん!」
隣の号車まで移ってきたところで、ようやく電車は停止した。
ドアが開くか開かないかのうちに、僕はその間に身を滑り込ませて外に出る。ホームの涼しい風が僕の頬をなでる。
ホームに立つ人たちは、僕が走って間を駆け抜けても何も反応しない。彼らのことを気にしている暇はない。とにかく、遠くに行かなくては。
僕は風を切って走りながら、解放感で思わず笑みを漏らした――すがすがしい、生の実感。僕は階段の手すりに手をかけ、カンカンと一段飛ばしで駆け抜ける。
――やった!ようやく…………。
「――ぶえくしょっ!」
そんな音を聞いて、僕は思わず足を止める。
…………たった今すれちがった人の左目から、向日葵の花が飛び出していた。
――あえぇ??
「へくしょん!」「おええぇっ――!」「ぶほぁっ!」
階段にいる人たちが、互いの位置関係なんて無視して次々と変貌していく。
――何、でぇ……?
僕は泣きそうな気持ちで、でも顔は諦めた様に笑ってしまっていて……そしてその顔が、ボコり、と膨らむのを感じた。
――ぼこっ、ぼこぼこぼこ!
途端に、胸が苦しくなってくる。
全身がかゆくなってくる。
右目がはち切れそうなくらいに膨らんで、その奥で何かがうずくのを感じた。
「あぁっ、ああ……痛いっ!」
僕は叫びながら、よろよろと階段を上る。
「ああっ、あっ、あああ……!}
タンポポに歯の根が砕かれる。
左腕をバラの棘が突き破る。
肺胞をコデマリの花が覆う。
足にアサガオの蔓が絡みつく。
「やだぁっ……痛い、い゛た゛い゛よ゛お゛ぉっ!」
なぜかやたらゆっくりと、僕の体は浸食されていく。
早く…………早く…………。
僕は這う這うの体で、改札口に辿り着いた。
そして文字通り倒れこみながら、切符を改札機に差し込む…………切符は無慈悲に吐きだされた。
――なん、で…………。
僕はもう、この先に進むことは許されないらしい…………ゲームオーバーだ。
視界がだんだんと花に覆われていき、僕の意識は遠のいていく。七色ではなく、真っ黒に塗りつぶされていく。
そんな僕を一人の通行人が見下ろし、こう言った。
「あーあ、ちゃんとマスクつけないから。」
…………そいつは馬の頭の被り物をしていた。こいつはさっき僕と同じ号車に乗っていたのに、無事だったらしい。
――いや、そっちの「マスク」なんて……分かる訳、無いだろ……。
僕は訳もわからずに心中で突っ込んだ。何が訳が分からないのかももう分からないし、わからないということの意味ももうわかっていない。
いたい。
かゆい。
ああ、おはなきれい…………。
「もう何も考えなくていいよ、名無しさん。……君はそもそも、存在してないんだから。」
馬面の男はそう言い捨てて、改札を通り抜けていった。
……あーあ。
きもちわる。
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