自動販売機
街灯の明かりもまばらな夜道、一人の少年が息を切らしながら走ってくる。
彼は規則的に並んだその電光の一つの下で立ち止まり、そびえ立つ赤い筺体を見上げた。
「あった、じはんき!」
その自動販売機は古びた木でできており、幅も厚みも通常のそれ以上のものだった。雨を避けるため、丁寧に木で組んだ社の中に鎮座している。ところどころ赤色が剥げて、茶色い木の肌をさらしていた。並んでいる缶のサンプルはどれも印刷が読めず、おまけに商品を選ぶボタンもついていない。筺体の下半分には
少年は顔をほころばせ、わくわくしながらポケットを探る。中から一枚の銀色のコインが出てきた。表面には目玉のような模様が描かれており、どこの国の硬貨にも似ていない。
少年は恐る恐るそのコインを投入口に入れる。
チャランッ――――機械の内部でコインが深き所に落ちていく音が響き、十秒ほど経ってからごとごとと物々しい機械音が続いた。
やがて機械の「口」が、「ぐえぇっ」と音を立てて開く。
少年は恐る恐る、そのぬめぬめした内部に手を伸ばす。赤くて柔らかいトレイの上に、お目当ての缶をつかみ取った。
「あった……やったぁ!」
少年は缶を両手に包んで回しながら、しげしげと見つめる。自販機と同じように赤いコーティングの上に、黄色い線で複雑な模様や文字のようなものが描かれている。
何が書かれているかなど、どうでもいい。少年はただ、父に言われた通りにこれを飲めばいいのだから。
彼は不器用な手つきで、プルタブに指をひっかける。
「よいっ、しょ――」
ぷしゅっ、という音と共に、缶の口が開いた――その瞬間、中からすさまじい閃光が飛び出す。
気が付くと少年は、とても素晴らしい世界で遊んでいた。
空には始終、水彩絵の具を散らしたような、淡い斑点のグラデーションが繰り返されていた。
生きているように蠢く地面。色とりどりの遊具。千変万化する背景――
名前もない最高の友人たちにも出会い、言葉で言い表せないような難しい競技に永遠に興じていた。確かにその世界で、彼は他の誰にもまねできないような、超人的な技能を得ていたのだ。
――気が付くと彼は、また元の自動販売機の前に立っていた。
頭の奥がじん、としびれるような満足感と、虚無感が一緒に襲ってくる。
――すごい。また、絶対あそこに行こう。
少年は、そう決心した。
*******************************************
少年はその後も、定期的に自動販売機の下に通い続けた。
そしてコインを手に入れるため、昼間は「仕事」に没頭して過ごす。
滑車の上を走って回転させ、単語を風景に嵌めて洗い流し、人の頭のネジを入れ替え、自分の体から紐を引きずり出し、棒高跳びで空を目指す。
一枚、二枚、三枚、四枚…………。
扉を開くとその先に、塀に囲まれた狭い夜道が広がる。自動販売機まで、走って辿り着く。
コインを稼ぐ。コインを入れる。「缶」を手に入れる。
楽園から帰ってきたら、進行方向にドアが現れる。それを通って、再び朝に帰る。
働け、働け――
もっと効率よく。力んで、混ぜて、崩して、捻って、笑って、潰して、噛みしめて、伸びて、攪拌されて――
――そら、ようやくまたお楽しみの時間だ。
チャリンッ、ゴトゴトッ、グゲエッ――
もう一回、もう一回――ああ、今日の分はもう終わりにしなきゃ。
チャリンッ、ゴトゴトッ、グゲエッ――
――ああ、今日は一枚しかない。使いすぎちゃった。
明日はもっと、頑張らないと。
そうやって、何年も何年も。
自分が何をしているのかなど、考えもせずに。
ただ色が音が匂いが言葉が骨と筋肉の軋みが、無意味なぐちゃぐちゃの塊になって一日中体の中を通り過ぎていく。
それが俺の戦い。俺の訓練。俺の知る、世界のすべて。
もっとうまく、もっと正しく。
もっともっとコインをもっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと……………………。
チャリンッ――――――――
ある夜、いつも通りコインを入れると、見慣れない黒い缶が出てきた。
「何だ、これ…………?」
声変わりの始まった声で、少年は低くつぶやく。
もしかすると今まで行ったことのない、特別な世界に行けるのかもしれない。
少年は期待に胸を高鳴らせながら、缶を開けた――
――最初に目に飛び込んできたのは、ぼこぼこと泡立つ、赤と黄色の混じった表面だった。
黄緑色のガスが立ち込め、すさまじい刺激臭が鼻を突きさす。そこら中から棘が生えてきて彼の眼球を覆い尽くし、世界を丸く包んで縮んで抑え込んで潰れた暗闇から絞り出された一滴の落ちた黒い底には、無数の命になりそこなった者達が蠢きだし、沸き上がった煙の向こうに見えてきたのは、赤い目が覆い尽くす谷で叫び続ける骸骨たち。鋭い歯が全身に生え多翼を持つ者があれらの腐った残骸たちを掬い上げ、取り残しからまた思い出したように無限の粘膜のトンネルが開く。地面は全て指で覆われており、灰色の乾いた洞窟の最奥で待ち構える形容できない名のない者が呻き、こちらに向かってその瞳を――
「うっ…………うげえぇっ、うげええええええええぇぇぇっっ………!!!ああ、はあっ、うわあああぁぁぁぁっ……!」
少年は膝から崩れ落ち、頭を抱えて叫んだ。
「……ひ、ひぃぃっ、なんだよ、なんなんだよぉっ…………!}
激怒して缶をゴミ箱にたたきつける。跳ね返ってきたそれを忌まわし気に再び跳ね除けて、視界の外に追い出す。
「ふざけんなよぉっ……なんなんだよこれ!なんでこんなことすんだよ!ああ!?」
彼は自動販売機に向かって抗議するが、答えは帰って来ない。
「畜生っ…………畜生おぉっ!」
少年は再びコインを投入して缶を取り出す……またしても、黒色。
「……なん、で…………。」
……少年は結局、その夜は何もせずに帰った。
その次の夜、少年が恐る恐るコインを入れると、いつもどおりの赤い缶が出てきた。
そしてその次の日も、問題はなかった。
…………だが四日後。再び黒い缶が出現した。
それからも不定期に、黒い缶は現れた。一度黒が出てしまうと、その日はずっと黒しか出なかった。
そして日に日に、黒の出現頻度は高くなっていった。
――おかしい、こんなの間違ってるだろ……!
だが間違っているからと言って、それを直すこともできない。なぜ間違っているのかわからないからだ。そもそも、なぜ正解なのかもわからない。そこに意味などない。ただ缶が出てくる。彼はそれを受け取るだけ。その繰り返し…………それでよかったはずだった。
そしてまた、ある夜。
コインを入れた自販機は、遂にうんともすんとも言わなくなった。
少年は取り出し口の中をくまなくまさぐり、それを三分も続けた上にようやく事実を受け入れる……そして、底知れない不安に襲われた。
そしてしばらく茫然としてから、仕方なくもう一枚コインを取り出して投入口に入れる。
そして少し待って、十秒待って、二十秒待って…………やはり何も起きないことを知って、めまいを感じる。呼吸が荒くなり、足に力が入らなくなる。
「そんなっ……そんなはず、無いのに…………………………!」
少年は再び逡巡する。迷って、迷って、迷って……でも、他にどうしようもない。
「うっ……ううぅうっ!」
少年は破れかぶれになって、ポケットから三枚目のコインを取り出す。
チャリンッ……………………………………。
四枚目。
チャリンッ……………………………………。
「はあっ、はぁっ…………!」
五枚、六枚、七枚……………………!
チャリンチャリンチャリンッ……………………………………………………………………!
八枚…………九枚。
彼の手持ちのコインは、底をつきた。
「……………………あ゛あ゛あ゛あぁぁぁぁあああああっ!!!ふざけんなふざけんなふざけんなっ!うああぁぁあっ!」
少年は泣きじゃくり、金切り声をあげながら機械を蹴る。
「なんでだよっ!なんでダメなんだよっ!ちゃんと払ったじゃんかよ!返せよ、俺のコイン!あ゛ぁっ!?」
繰り返し繰り返し、執拗に蹴り続け、サンプルの缶を睨む。そうすれば、今まで溜まったコインの分が一気に出てくるかのように。
「よこせっ!よこせよぉっ!よこせよこせよこせよこせぇっ…………!はあっ、はあっ…………!」
冷たい機械は答えない。ただ、ブーンッ、と振動するだけだった。
「……なんでっ……俺っ、頑張ったのにっ……ずっといい子にしてたのにぃっ……!!父さんも母さんももういなくても、俺一人で、あんなにっ、頑張ってっ……それを、それを……!」
少年はぎりぎりと歯を食いしばり、血走った眼球をガラスに押し付ける。
「許さねえ!絶対許さねぇっ……こんな世界、間違ってる!こんなのっ、ぜんb――」
彼が最後まで言い終えるより先に突然、風船のように膨らんだ。
表面があり得ない張力でうねり、少年の目の前で「口」が大きく開く――
「…………え、あ」
少年はあっという間に伸びてきた舌にからめとられ、両あごの隙間に引きずり込まれていた。
そして、最後に残す言葉もなく――ただ、その場から消えた。
最後にぷっ、と音を立てて、一枚のコインだけが地面に吐き捨てられる。
…………後に残るのは、初めから何も異変が無かったかのように平然と立つ、赤い筺体のみ。
いつも通りの、静かな夜。自販機は無言で客を待っている。
ブーンッ、という無機質な機械音と共に、電灯が明滅した。
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