見るな

 最近よく、誰かの視線を感じることがある。


 たいていは、一人でいるとき。


 朝、行ってきますと言って家を出るときも。自転車で通学している間も。階段を上り下りしている時も。学校のトイレの個室でも。学校の周りをランニングしてる間も。

 角の向こうから、電柱の影から、路地裏から、扉の隙間から――

 

 最初は気のせいかと思った。ただの、自意識過剰かもしれない。思春期だし。


 でも、違う――直感がそう告げていた。

 視線の主を見かけたことは、一度もない。でも、いやだからこそ、わかる。

だって、これは普通に他人から向けられているときに感じる「視線」とは、まったく違う感じだったから――


 人から向けられていないなら、それはもう視線とかじゃない、って思うのが自然だ。

 でも、やっぱり確かに、ナニカが私を「見て」いる――そう言う、感じがするのだ。


 とは言っても、何の根拠もないし……やっぱり、自意識過剰なのかも。ていうか、私、どこかおかしいのかも――

 そう思い始めた頃だった。


 「視線」の正体が明らかになったのは。


 そしてその瞬間、それが人から向けられたものではないにもかかわらず「視線」だ、と感じたことには、ちゃんと理由があったと気づいた――きっと私はそれを、視界の端に何度も捉えていたのだ。


 確かにそれは、誰もが「視線」だと気づくことができるものだった――ただし、視線の主としては、脳みそが認識できない形で。


 その瞬間は、授業中に訪れた。


 私はまた例の視線を感じて、見つかるわけないってわかっていながらも、周りをそっと見まわした。

 実はまだちょっとだけ、クラスメートの誰かがそうなんじゃないかって疑ってた。

 でも、もしいたとしても、いつも私がそっちを見た時にはもう目を逸らされてる訳だから、どうしようもないってわかってたのに。

 それでも、見まわさずにはいられない。そうしないと、気持ち悪くてしょうがないのだ。

 でも、いつも通り犯人がわからないと、もっと嫌な感じが残ったまま、しばらく抜けなくなる。

 そして忘れた頃に、またその視線を感じる――この繰り返しのせいで、一日のかなりの時間は、その視線のことを考えるようになってしまっていた。

 そのせいで何にも集中できない気がして、私はけっこうイライラしてた。犯人がもしいるならさっさと捕まえて文句を言ってやりたかった。

 

 ……でも、今度もやっぱり見つけられなかった。


 教室中を見渡したのに、まだ、視線は続いている気がする。

 私は心の中で「なんなのよ、もう。」とつぶやきながら、消しゴムを出そうと思って、ペンケースに乱暴に手を突っ込んだ。

 その時にはなぜか、もう視線は感じなくなっていた。でも、特にそのことには気づいていなくて――


 ――ぐにゃり、と。


 手に奇妙な感触が生じた。

 消しゴムにしては、ずいぶん湿っていて、しかもつるつるしていた。

 私は思わずさっと手を引いた。


 ――何、今の?


 私は筆箱のジッパーの隙間を見つめる――その時、あのいつもの感覚がまた襲ってきた。


 何が起きているのか、全然わからなかったけど――ここに、答えがあるんじゃないか。そんな気が強くしたので、私はその隙間を、恐る恐る注視した。

 隙間から、何か変な形が見えた。そんなもの、入れた覚えはないって形の、何かが――

 私は、ジッパーをそっと指で押し広げて――――「ひぃっ!」と、思わず悲鳴を上げて手を離した。

 周りの人は、誰も私の声を聴いていなかった。

 

 ――何?……何、何、何ぃ!?


 私は震えながら、今見たものが何だったのか、理解しようとする。

 

 ――嘘、でしょ?


 ペンケースの中に入っていたのは――――人間の目玉だった。


 人間のかどうかなんてわからない。けどとにかく、明らかに作りものとかじゃなくて、生々しい本物だった。……しかも、触った感じが、なぜか生温かかった。

 私はまた恐る恐る、ペンケースを開いて確かめてみた――でも、そこにはもう、目玉は入っていなかった。


 ――え?見間違え?


 やっぱり自分の妄想なんじゃ、とも思ったけど、多分ちがう。だって、直接この目で見るまで、それがなんだか全く予想できなかったんだから。


 ――あれが、視線の、正体?


 全く、意味が分からなかった。


 ――一体、何が起きてるの!?

 

 私は当然まだ、ただの見間違いだって可能性を、捨てきれなかった――いや、そうであってほしかった。


 でも残念ながら、そうでないことは次第に明らかになっていく。

 だって、一度それが何かわかっている前提で見てみれば――そこに実際にあるモノを見つけ出すのは、いたって簡単だったから。


 ……いや、それだけじゃない。

 きっと、「むこう」も私に気づかれたことをわかってて、むしろ積極的にその姿をさらし始めたみたいだった。


 その日から、私は視線の主を必ず特定できるようになった。


 ――いる。

 

 電柱の日陰の中に。トイレの扉の隙間に。階段の踊り場の窓の端に。フェンスの向こうの茂みの中に。


 いる。いる。いる――


 どこにでも、いる。


 どこまでも、ついてくる。


 その現れる頻度は日に日に多くなっていった。それにとうとう、家の中にまで現れ始めた。

 それはあらゆる隙間や影に現れる。

 しかも、現れる場所は決まっていない。

 同じ場所に現れたり、現れなかったりする。

 避けきることなんて、できない。


 それでも私は、できる限り陰のある場所を避けようとした。

 できるだけ、窓をふさいだり、そっちを見ないようにしたりした。

 できるだけ、身の回りに隙間を作らないようにした。

 そして、ペンケースや引き出しを開けるときは、極力そっと――それでも、目玉は現れた。

 そんなときは、すぐに閉じてまた、そっと開けなおす。そうすれば、消えてくれるのがわかっていた。

 

 目玉、目玉、目玉――どこもかしこも、目玉だらけ、視線だらけだった。


 顔を上げられない。何もできない。


 朝起きて、ぎゅっとかぶっていた布団を剥ぐと、天井の隅に、ぎょろり。つぎの瞬間には、もういない。

 洗面台で顔を洗っていると、排水溝の奥に、ぎょろり。

 みそ汁の中に、ぎょろり。

 便器の中に、ぎょろり。

 誰かの髪の中にも、ぎょろり。

 机の中にも、ぎょろり。

 風景の中、どこかの家の窓に、ぎょろり。

 自分が脱いだ服の中にも、ぎょろり。

 布団の中にも、ぎょろり――私は、そこに入って眠らなければいけない。


 そしてまた、天井にそれがいるんじゃないかっておびえながら、朝を迎えるのだった。


 ――嫌だ。恐い。気持ち悪い。息苦しい。無理。なんで。どこか行って。消えて。お願い。誰か、誰かどうにかして――!


 だったら、誰かに助けを求めればいいじゃないか。そう今さら気づいた私は、お母さんに相談することにした。


 ――ねえねえお母さん、最近、目がいっぱいあって恐いの。


 変だって思われるのはわかってた――でも、それを口にした瞬間、私はもっと大きなミスに気づいた。


「――何言ってるの。目玉くらい、誰だっていつも見てるじゃない。」


 ――……あれ、ていうか。


 目玉って確か、お母さんの顔にもついてるんじゃ――



 ――ぎょろり。


 お母さんの目の穴の奥から、そいつは覗いてきた。

 私の方を、まっすぐににらみつけてくる――


「――いったイ、何ガ恐ゐノ?」


 お母さんの口はまるで誰かに無理やり動かされてるみたいに動いて、ひきつった,気持ち悪い笑みを浮かべた。


 「にいぃィイ!」、と――


 そして、目玉はぐるぐると回り始めた。

 周りながら、少しずつ穴からはみ出してくる。


「あ、あは、アハ、は、は、は、はははははははははははははッ、は、ア!!!」


 ……お母さんは、おかしくなってしまった。

 両目はもはや、金魚の様にすっかり眼窩から飛び出している。


 ――やめ、て……。


 私はもう癖になってしまったかのように、めをそっと逸らした。


 そして、観念する――もうこの世界では、人間でさえも、私の味方じゃないのだ、と。


 ――大丈夫。今まで通り、誰とも目を合わせなければいいんだ。


 万が一目が合ってしまったら、それ以上恐いことが起きないように、目を逸らしてしまえばよい。

 大丈夫、大丈夫――自分で、自分を守るんだ。


 それしか、ない。

 

 見るな。


 見るな。


 見るな、見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな――――!!!


 ――ああ、それでも。


 それだけ頑張ってるのに、どうしても、見えてしまう。

 もう、視線を落として歩いていても、水たまりの中にさえ、それが浮かんでいるのだ。


 ――――もう、無理…………!!!


 朝、起きた時に天井に見えるそれは、もはや一つだけではなかった。


 天井も、壁も、全部全部全部――目玉で埋め尽くされている。そのすべてが、ぎょろぎょろと、ぎょろぎょろとうごめき――私を見つめてくる。

 グロテスクな血管、ぬらぬらと光る表面、そしてその中心の奥は、ただひたすら黒、黒、黒―底なしの、淵のよう。


 ――嫌ああああああぁぁ!!!嫌、嫌、嫌ああああぁぁ!


 いくら叫びたくても、声が出ない。誰にも、届かない。届く相手は、奴らしかいない。


 目、目、目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目!!!!!


 もう見たくない見たくない見たくない!何も何も何も何ももう!恐い目に遭いたくない恐い目を見たくない!目が嫌い目はもういやだ!目を、目を、目を!何も――何も見たくないのに――――!


 ――ふと、気づいた。


 何も、見たくない……そうだ、なのになんで私は。

 今まで、一度も目を閉じてないんだろう。

 どうして、目が閉じられないんだろう。

 布団を被ったり手で覆ったりするだけじゃなくて、目そのものを――


 どうして?

 

 どうして、どうして、どうしてどうしてどうして!!!


 目が閉じられない、なんで!


 嫌だ、もう……何も見えなくなればいいのに!


 部屋の中はもう、目玉でいっぱいだった。


 壁も天井も床も布団も私の着ている服も全部全部全部――――


 ああ……ああ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!




 ………………………………………………………………………………あ、そうだ。


 私は、啓示を受けたみたいに気づいた。


 そうだ。あるじゃないか。


 全ての目玉を、一度に消す方法が――


 もう、何も見ずに済む方法が。


 

 ……私は、自分の両手をみつめた。


 そしてそれを、ゆっくりと私の方に近づけてくる――私の、りょうめに。


 そうだ、これだ――こいつが、全部悪いんだ。


 ……私は、自分の両目を中指と親指でぎゅっとつかんだ。


 全身がカタカタと細かく震えだす。


 でも、もう、これしかない。これしかないんだこれしか――!


「う、うわあああああああああぁぁぁぁぁ――!!」


 ……初めて、自分の声を聞いた気がした。


 私は自分でも信じられないくらいの力と勢いで、自分の両眼をつかんで引っ張り出した――


「あ、ああああああああああああああああああ…………アッ!!!」


 最初に、ものすごい違和感があって――その直後に、感じてはいけないところに空気が当たるのを感じて

 ――そしてでももう迷ったり引き返したりする暇もなくどこか深い深い所に今まで一度も経験したことのない激痛、がッ――ぶちィッ!



 その直後――私は、声を失った。


 声だけじゃない。

 あれほどの激痛も、嘘みたいにどこかに消えてしまった。


 ただ、もうそこには何もないのがわかった。


 ふたつの空洞だけがあった。


 そこから何か、生暖かいものがあふれ出していく――大切なものが。


 私を作っていたものが、この世界を作っていたものが。


 私の中から世界が消えた。

 世界と一緒に私も消えた。


 ――文字通り、完全な無だった。


 そして私の両手から、その温かいものはすっと取り去られていった――どこかに、どこか遠い所に。手の届かないところに。私がいないところに。私から、「私」が取り上げられて、遠ざかっていく――


 私は、心地いい安堵に浸される。


 ……これでいい。


 私はもう、何も見ないでいい。何も考えなくていいんだ……。


 私は……………。


 私、は…………あれ?


 ……私、今、どうなってるの?


 え?「私」は?「私」はどこ?どうなったの?


 え?え?待って?確認したいよ、大丈夫なの?


 ねえ、どうなったの?――ねえ!?



 お願い……私、私をもう一度見せて――見たい、見たいよ!ねえお願いもう一度だけ!それを返して――――ねえ!


 ……私――「私」はどこなの!?



 ……………………ねええええええええぇぇ!!!


 ――返事はないと、わかっていた。





 ……………………いや。


 返事は、返ってきた。



「――――――—ゴチソウ、サマデシタァ。」、と――――



 意味が、分からなかった。


 分かりたく、無かった。


 そしてその後に、無数の「声」が続く。


 ――大丈夫、恐くないよ。


 ――私たちが、一緒だから。


 ――みんな一緒の、「私たち」だよ――


 ――ちがう、そうじゃない。


 私は、「私」を探してるの。カタチのある、「私」の姿を――!


 だが、そのか細い声は、闇の中に溶けて消えていくだけだった。


 もう二度と、その本物の体で、本物の「目」を開けることもないまま――







 ……………………だから彼女は今でも、影の中から人のカタチを探し求めている。

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